イエス様はたとえ(譬え)を用いて、神の国のこと等多くを語られました。イエス様のたとえは、日常生活になじみのある題材を引き合いに出され、真理へと導く方法です。その題材とイエス様が語ろうとされる真理の間には何らかの類似があり、この似たような状況から類推して、イエス様の教えを理解するものです。当時の群集や宗教家達のように聞く耳を持たない者でも、たとえで語られると、題材が身近なことなのでつい最後まで聞いてしまい、後で「あれはどういう意味だったのか?」と興味を持って求める人には、弟子達のようにその解きあかしが与えられます。
一方、イエス様のたとえの中にも、類似的ではなく、冒頭の不正な裁判官のたとえのように対照法的たとえがあります。両極端の人物を登場させて、そんな人でもこうだから、「ましてや、天の父は・・・」という鋭い対照により、真理を引き出す方法です。仮にこれを類推に解釈してしまうと、天の父はしつこく祈らないと応えてくれない方となってしまうからです。
まず、このたとえをイエス様が話された文脈ですが、十七章では「神の国がいつ来るのか?」という質問にイエス様が答えられ、神の国が最終的に来る迄に、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来ると言われ、続いてイエス様の再臨、終わりの日のことを話されています。(ルカ17:22-24参照)キリストを信じる信仰を持って生きることは、2千年前から安易なことではありませんでした。迫害、偽教師の惑わし、ローマ帝国のキリスト教国教化による信仰の形骸化等、歴史的にみても現在に至るまで、困難な時代がありました。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイ24:12)」「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。(2テモテ3:1)」 だからこそ、このような時代にあっても失望せず、信仰を健全に持ち続けて行くために、神様への祈りがどんなに大切かという文脈で、イエス様はこのたとえを話されています。このたとえの最後に、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(14節)と話されているのも、イエス様が再臨されるまで、一人でも多くの人が祈りによって信仰を持ち続けてほしいという、イエス様の御心が込められているのではないでしょうか。
まず、このたとえは一人のやもめ(当時やもめは社会的弱者)が、裁判官に相手を裁いてほしいと訴えました。律法では、裁きは公正にしなければならない(申命記25:1)とあるにも拘らず、やもめが裁判に提訴することが困難であったという時代背景があり、また裁判所という建物もなく、巡回で裁判が行われていた為、いつ裁判が執り行なわれるか不明な状況だったそうです。
次にこのたとえの対照をまとめてみました。
訴える人
(祈る人)
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やもめ
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選民(神の子供)
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提訴する相手とその関係
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裁判官
他人
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天の父
親子
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提訴を取り上げる理由
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うるさいから仕方なく応える
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愛によって最適の時と方法で、速やかに答える
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提訴の難易度
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当時、女性は裁判で証言が出来ない、代理人が必要
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誰でも、日夜祈り求められる
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仲介者の存在
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なし
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大祭司である
主イエス
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保障
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不明
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神からの確実な約束が与えられている
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このように、私たちは、イエス様の十字架の贖いのおかげで、神の子供としての特権が与えられ、イエス様を通してはばからずに、どんなことでも、いつでも、天の神様に祈れることは、なんという幸いでしょうか。(ヘブル4:16)パウロは「絶えず祈りなさい。」(Iテサ5:17)、また「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)とあるように、神様に”天のお父様”と親しく呼べる関係が与えられていることは大きな恵みです。
そして、祈りとは特権だけでなく、天の神様とのコミュニケーションでもあります。人間同士でも信頼関係を構築するにはコミュニケーションは必須です。「・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイ6:32)とあるように、すでに祈る前から私たちの必要をご存知ですが、主の祈りにもあるように、日々生活の必要は祈ってよいのですし、ご存知であってもあえて父なる神様に語りかけることが、親しい親子関係だからこそ可能なことなのです。
最後に、祈りのもう一つの側面は、私たちの願いや動機が、神様に祈リ続けている過程で、神様の願い、神様の思いに変えられていくことです。イエス様はここで、神様は「速やかに」(新改訳)裁きをしてくれると言われてますから、私たちの願いが私たちの思うとおりにすぐに聞かれないのは、何か神様の側で意味や時があるようです。ハンナの祈りはまさにその例で、彼女は子供が欲しいという祈りにおいて、最終的に心を注ぎだして祈った時、「その子を神様に捧げます。」と変えられました。最初からハンナがそう思っていたのでなく、彼女の不妊期間は、サムエルという預言者を生む母親が準備される、神様のタイミングだったのです。(サムエル上1:9-11参照)
私たちの肉の性質は自己中心で、自分の願いばかりで、神様の御心と願いを知ることができない弱い者です。ですから弱い私たちが、神様の視点で、神様の願いを祈れるようにと助けて下さるのも聖霊の働きでもあり、どのように祈ってよいか分からない時、聖霊がことばにならないうめきをもって祈って下さるという約束(ロマ8:26)は、なんという励ましでしょうか。益々神様の大きな愛を教えられ、またイエス様によって与えられている祈りを通して、もっともっと神様の思いに近づかせて頂きたいと思わされます。
(引用:口語訳聖書より)
”祈りの特権” 「恩寵と真理」 同信社 2015年6月号 掲載より一部訂正
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