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<上智社会福祉専門学校在学中に書いたレポート>

テーマ:現代におけるキリスト教と生命倫理

提出日  平成16129社会倫理学 ジョン・ジョセフ・プテンカム先生

(講義:1/15 現代宗教の理解及び1/22視聴のターミナルケアのビデオ・BBC制作を見て)


序 論


このレポートのテーマを選んだ理由は、上智の社専にて勉強していくうちに、現代の医療・福祉と生死に関する倫理は切ってもきれない関係にあり、この社会倫理学の授業でも、現代の事情を鑑みるにつけ、考えさせられことが多いからである。以下、人間の生死に対する倫理観とキリスト教の考え方を参照し、個人的意見を述べる。


キリスト教と生死に関する倫理

キリスト教の教えは聖書に記されており、クリスチャンにとって、神学書や祈祷書よりも、聖書の教えが倫理の基本であるはずである。聖書は神の霊によって人間が書いたものであるといわれる[i]。キリスト教の根本はイエスの十字架での受難と復活である。イエスはなぜ十字架で死なれたのか。これは全人類の罪の贖いのため、神から人間のかわりに罰を受け、死んで黄泉に下られ、3日目に神よって復活させられた。つまり十字架の死は私達人間の罪−究極的な罪は神との愛の関係を拒む状態−の為に代りに死なれた。イエスは神の子でありながら、人々に嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられ、そして神から見捨てられ、どん底の経験をなされた。それは私達がイエスを信じる者が命を与えられる為に死なれたのである。またそのあと復活なされ、天に帰られた。キリストを信じる者は、自身の罪・死から解放され、イエスが示されたように“人間らしい”生き方を目指すのである。


現代の生命倫理事情-人口中絶、安楽死

クリスチャンの考えでは、神がキリストの命まで犠牲にして贖った人間の命は尊いものであり、殺してはならないのは当然である。よって、尊厳死・安楽死や人口中絶は殺人と考えられる。1月15日の介護のグループの発表では現代のキリスト教がプロチョイスを擁護しているとレジュメに記してあったが、プロチョイス派は本当にキリストを信じているか疑問である。聖書には直接人口中絶や安楽死にたいしふれている場所はないが、要は人間の命が自分勝手にできたものでなく、神という創造主の作品だと考えを出発点とすれば、他人及び本人でも“殺す権利”は人間にはないと考えられるのではないか。

現代は科学の進歩が目覚ましく、平均寿命も延び、医学の発達は多くの病気を治しそのおかげで人は生きている。しかしこの科学の進展は両刃の剣の面があって、そこに生命倫理が欠けてはならない。人を生かすための医学が、障害児の可能性のある胎児を殺すためのスクリーニング検査となり、母親や父親の個人的な“権利”で胎児を殺すことを正当化しているのである。尊厳死も同じである。尊厳死を認める基準がもし今後作成されるのであれば、尊厳死を装った殺人が横行するのが明かである。

尊厳死とターミナルケア1/22BBC制作のビデオ(ハービー氏)を見て

 このビデオでの人間の死に対する考え方は、基本的に自身の肉体が死んでも、自分の遺伝子は結婚し子孫を残すということで幾代にも残されて行くもので、そのことを自身の死を迎える上で受容し、残された人生をいかに死ぬ瞬間まで有意義にすごし、家族にみとられて死ぬことは美しいというメッセージを伝えているように個人的には感じた。映像に移されたのは最後まで家族に囲まれて幸せに死んだ。死をうけいれて静かにしんでいった。しかし彼の魂はどこへいったのであろう。ターミナルケアに関し、多くの人が本を執筆しているが、共通していえることは、いかによく死ぬかを表現をかえて述べているのが多いようだ。日本で有名な作家の一人、柳田邦男は彼の著書のなかで、人は死ぬとわかったとき、残された人生をいかに悔いなく生き、やりたいことをやってから亡くなることが美しいということを示す末期の患者の話がいくつか記されていて、医療者と患者・家族が直面した生と死の物語をおりまぜ、医療文化への示唆に満ちた提言を書いている。[ii]この物語のなかでは、残された生の時間のことであり、死後の魂のことにはあまり触れられていない。死後にも世界があることを信じるか信じないかで、肉体の死をどううけとめるかは大きな違いである。果たして、人はやりたいことを悔いなくやって、満足すれば死を本当に受容できるのであろうか。

第4章 個人的な人間の生死関する意見

私はキリストを信じるもとのして、聖書の教えに照らし合わせ、人間の作り上げた慣習や宗教・道徳・社会通念の是非を判断し、最終的には聖書の教えが優先する。私の個人の信仰上では、この世で横行している人口中絶、安楽死等はキリスト教でいう愛から逸脱すると思う。なぜなら生死は神の範疇であるから。もちろん医療の進歩で人の命が助かるのはすばらしいことである。

 死を迎えることに関し、人間は昔から死に対する恐怖を持つのが当然で、そこで最後に神を求めるチャンスを得る人もいる。つまり、人はなぜ生きるのかそして死ななければならないかを本気で考えるとき、神を求めざるを得ないともう。しかし、求めないで、死んだら終わりと思う人もいる。現代において、とうとう死に対する恐怖という分野についても、人間で作りあげた“美学”により、自身を合理化しようとしているとしかしか私には思えないのである。結局、最後まで自分が立派に死にたいとか、やりたいことつまり自身の欲望の充足や自己実現によって、死への恐怖をごまかしているのではないか、というのが私の個人的な意見である。

結 論       

人間が作り上げ、長い歴史の中で形成された社会倫理は、言い換えれば各人の良心がつくりあげた倫理、そしてそれの集合体であって、よって社会倫理においてキリスト教の教えだけでは通用しないということが現実である。

死とは、人が神を信じるか信じないか,肉体の死と魂の行方を探求するとき、真の神を求める永遠の命を求める絶好の機会である。それをも、人間が合理化することにより神に背を向けてしまうのは残念である。

今後、医学が更に進化し、人々が人の命について考えるとき、キリストの愛に基づく倫理観を持つ人々が増えることを願いつつ、自身もそのようなものを目指したいと思わされた。


[i] 新共同訳聖書第2テモテ3:16「聖書はすべて神の霊感によるもので」

ii] 柳田邦夫、「死への医学への序章」1995年「死への医学へのに日記」1999年、共に新潮文庫


   
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