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<上智社会福祉専門学校在学中に書いたレポート>


イエスの福音について                 
    

平成1529日提出 キリスト教学I 佐久間勤先生

 このレポートではまずイエスの福音のポイントを挙げ、次にこのイエスの福音が示すように、権力や効率によらず弱い人間として与えることに徹する生き方が本当に人間らしい生き方であるか?という問いに、私個人は“アーメン”(そのとおりです)と答えるその理由を具体的に私自身の個人的経験をもとに述べたい。

 イエスの福音はその誕生から他の偉人とは異なっており、馬小屋で生まれ飼い葉桶に布に包まれていたという、弱いものと小さい者に連帯する新しい王の誕生の形であった。イエスの登場は当時大国の支配下、政治的な救世主が待ち望まれていたユダヤであった。また旧約聖書で預言されていた“メシヤ”としてイエス現われた。(それを信じるか否かは個人によるが)イエスとはヘブライ語で“神は救われる”という意味で、キリストとは王の称号。イエスはその生涯において、人間として“あるべき”性質を実践された。その性質とは、この世ではギブ&テイク、弱肉強食であるが、これらを超えた無視の世界、そしてかけがえのない命と弱いものを大切にするということである。イエスは30歳頃から活動されたが、彼が近づいた人々はアウトキャスト、つまり当時社会から見捨てられて、嫌われていた弱い立場人々だった。貧しい人、病気を持つ人(隔離されていたライ病人も含め)、徴税人、外国人(当時ユダヤ人は異邦人とは接触しない)、女性(やもめも含む)、子供等である。つまり通常接してもなんの報いや利益が得られない人とイエスは接した。イエスの活動は聖書によると「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」[i]イエスは非常にやさしく憐れみ深く、このような弱い人々とともにいた。またイエスの語られる中に、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」[ii]や、ぶどう園労働者への賃金の譬話[iii]のように、この世とは反対の神の国の摂理を話された。またイエスは、人間を縛るもの:所有欲・権力・罪・その責任と死、その恐怖から解放するために来られた。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」[iv]とイザヤ書61章で指し示しているのはイエスのことであった。


 次にイエスの福音の中心点である、どのようにして解放するのかというと、それはイエスの十字架での受難と復活による。イエスはなぜ十字架で死なれたのか。これは全人類の罪の贖いのため、神から人間のかわりに罰を受け、死んで黄泉に下られ、3日目に神よって復活させられた。つまり十字架の死は私達人間の罪−自己中心、無私無欲でいられない、又かけがえのない者を傷つけてしまう性質、究極的には神との愛の関係を拒む状態−の為に代りに死なれた。イエスは神の子でありながら、人々に嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられ、そして神から見捨てられ、どん底の経験をなされた。それは私達がイエスを信じる者が命を与えられる為に死なれたのである。またそのあと復活なされ、天に帰られた。キリストを信じる者は、自身の罪・死から解放され、イエスが示されたように“人間らしい”生き方を目指すのである。「私の兄弟のであるこの最も小さい人にしたことは、私にしてくれたのである」[v]はマザー・テレサが彼女の神からのコーリングの理由として引用している箇所であるが、私も自分がしている行動は、キリストの為にしていると思って、人と接しようと思っている。自身に対して敵対する相手や、嫌なやつに出会っても、キリストがこの人の為に十字架にかかったほどの人だと思い、また神が命令するように敵をも愛そうと思うのも、神の為であり、また自身もそれによって平安を得るからであり、強制でするのではない。

 次に、私個人にとって、なぜこれが “人間らしい生き方”と信じるのかを述べる。私は自身が人間らしく生きたくても生きられなかったというジレンマを持ち、キリストを信じることによりこのジレンマから解放されたからである。私はクリスチャンホームで育ち、幼稚園から大学までミッションスクールで、教会も毎日曜に親と通っていた。しかし、大学受験のとき教会にいかなり信仰から離れました。すると、キリスト教は単に私が幼い頃から植えつけられた規範・道徳となり、信仰ではなくなってしまった。そして、なぜこの規範を守らなければならないのかと反発を覚え、その後の10〜14年間は生きる目的もなく抜け殻の人生であった。ただこの世に流されて世の中の価値観にすっかりはまった生活をし、一時的な楽しみと興味の為、自分がしたいと思うことしてみた。しかし何をしても空しく、また孤独を感じる日々が続いた。アメリカに留学・就職した5年間も、様々な事を経験したが、結局日本の生活と変らなかった。そんな状態が続くと、次第に“自分は何の為に生きているのか?神は本当にいるのか?いるとしたら、なぜ世の中はこんなに不公平で悲惨で、自身は生きる喜びとか希望もなく惨めなんだ。”と疑問を持ち続けた。NYに在住時も教会に行き奉仕をしたりしたが、形だけで、寂しかったから教会の活動をしていた。教会に行きながらその裏では、非常に神が忌み嫌われることを行っていた。そこでその罪を償うかのように、何か良いことをしなければと、ホームレスに炊き出しをしに行ったりした。しかしそれも自分に余裕があって時間があるときにしか行かず、続かない。アメリカで勉強して、難民を助ける為に国連で働こうという志も、自身の能力の限界で達成できず、何か人の役に立つことをしたいと思いながら、自分を捨ててまでできない。良いことをしたいという願望や人に親切にしたい、弱い人を助けたいという心と、自分のやりたいように生きたいでも、何をやっても中途半端で、極められず、満足できないという心とが相反し、非常に生きていて辛かった。もちろん、表面的には誰も私の心の葛藤を知らず、うまくやっているように見える。時々、恐らく自身は地獄にいくのだろう、また地獄へ行くべき人間だと半ば自暴自棄であった。そして日本に帰国し、また表面的には親と教会行き、仕事をしていたが、心は抜け殻であった。そんな私を神は憐れんでくださり、ある日別の教会に導かれ、そこの牧師の話を聞いているうちに、自分の罪が示され、そして神はこのような私の為に十字架にかかって死んで下さったということが、理屈ではなく、個人的に突然“知った“のである。そして、もう今までのように自分の自己実現のために生きるのではなく、キリストを信じ、新しく神のために残る生涯を生き、神に従っていきたいという心へ変えられ、生きる希望が持てるようになった。キリスト教が道徳でなくなり信仰となった。つまり、神がこれほどまでに愛して下さったから、神を主と呼び、従おうと、その具体的な活動が、弱い人・世の中からはじかれている人の為に出来るだけのことをしていこう、そして、一人でも多くの人がキリストの救いを知るように祈り、とりなしたいと思った。人間らしい生き方とは、イエスが言われたように、互いに愛し合うこと、また自分を愛するようにあなたの隣人を愛すことだと私は思う。もはや自分の為に空しく、世の中のルールや法則に捕らわれて生きるのではなく、神の為に生きるという、また何をするのも神の栄光をあらわすためにしようとすると、自身の心に平安が与えられる。

 このようにして、私は個人的に自身が弱い憐れな者であると認め、神を信じキリストの福音を信じることにより、自己のジレンマから解放され、人間らしく生きるということを知ったのである。もちろん、パウロも言っている様に[vi]、救われた後もこの世に生きている間、自分の肉の性質から全く解放されるわけでなく、日々御言葉を読み、神からのメッセージに耳を傾け、祈り求め続けていかないと、すぐ元の自分の性格が顔をだし失敗をする。しかし、こんな自分でも、神が私達の心中に共にいて下さり、神の力によって徐々にキリストの性質、つまり人間としてあるべき性質に変えられると希望がわくようになれた。



 人は誰でも、他の人を労わるやさしい気持ち:神が人を創造された時の性質、人間にふさわしい性質を持っているはずである。しかし、それをしたいと思っても出来ない自分、自身の限界を見出すとき、神の救いが必要となると思う。人間の宗教心、つまり神を求める心とは、理屈やご利益宗教で生まれるものでなく、自身を見つめ、本来の人間らしい生き方を真に求めるとき、神を求めることへと繋がるのではないかと思う。特に福祉を目指す人がこの授業で問い掛けられた質問を真剣に考えて下さればと願う。なぜ自身は障害者や高齢者・児童など社会的に弱い立場の人に仕えるのか?また、福祉の現場にて「結局福祉の世界も世の中と変らないではないか」という壁に突き当たり、自身の抱いてきた志が挫かれる時、イエスの福音を思い出して頂きたいと願う次第である。



[i] 新共同訳聖書マタイ9:35−36

[ii] 新共同訳聖書マタイ5:3

[iii]共同訳聖書マタイ20:1〜16

[iv] 新共同訳聖書ルカ4:18〜19

[v] 新共同訳聖書ルカ6:20

[vi] 新共同訳聖書ローマ7:18〜25


   
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