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<上智社会福祉専門学校在学中に書いたレポート>


テーマ「人間の成長と愛情・愛」(人間の成長とアガペーの愛)

 
このレポートでは、人間の成長と愛情・愛について、精神面での人間的な成長とは何か、また、愛の種類を述べ、どの愛が人間の成長に関わるかを主に聖書的観点から考察する。

第一章では人間の精神面での成長に着目し、歴史的に愛や愛情によって人間は道徳的・倫理的に成長しているかを考察する。第二章では、C.S.Lewisによる愛の分類を参照し、そのうち、アガペーの愛(無償の愛)が人間の成長と関係あるのではないかとし、またそれを実際行った人の例を挙げる。第三章では、具体的に聖書の神を信じるとなぜ人が精神的に成長するのか、逆に他の宗教家や慈善家との違いは何かを述べる。そしてアガペーの愛の実践と、聖書でいう人間の成長が具体的にどのようなつながりがあるのかを述べ、筆者の結論を述べる。

第一章 愛情・愛は人間を精神面にて成長させたか‐歴史的考察より

 人類史上、果たして人間は成長してきたのかという問いに対して、私は精神面で全く成長していない点があることに着目したい。まず、人は何千年も前から、人殺しをやめないことである。最初は個人レベルで、そしてどの時代でも集団規模で殺しあいをする。次に、たとえどんなに慈善的・博愛的な行為をした人物が存在してきたとしても、その人の内側は誰も知りえない。つまり、他者に対する慈善的な行為の一方、その人の内側で家族や他の人を本当に愛し、自身と周りの人全てを成長させていたかは疑問である。人は良い人間になりたいという理想があって、これに近づこうとして、様々な教え、宗教、哲学、道徳を作り上げる。それらは一時的もしくは一過性にはその人自身もしくは相手を成長させるかもしれない。しかしながら、どれも根本的な人間の性質を変えることはできず、人は完璧に他者を愛し、成長することは、自分の力では無理である。もしこれが可能であったなら、人類は「古代はよく“人殺し”という粗野な行為をしたものだ。」と昔話のように言える世の中に変わっているはずである。つまり、どんなに文化的に精錬され、科学が進歩し、様々な宗教が普及しても、この面だけは進歩せず、相変わらず平和になれないのである。赦しあい、仲良く和平をしたかと思うと、その後すぐに戦争をする、つまり成長していないのである。なぜキリスト教は新教と旧教の間で戦争したのか、なぜイスラム教とキリスト教は戦争するのか。地球のどこの地域で、またどの時代に“犯罪”がない地域があったのであろうか。大戦の後に平和主義者がおこり、もう戦争はやめよう、核兵器を廃絶しようというが、別の機会に、人間は正義をかざし、自国の防衛を唱え、世界のどこかで集団的に殺人をしてそれを合理化する。ここに罪の意識はないのである。罪の意識はいくらでも“〜のため”として合理化可能であるから。

 一方で人間は、豊かな愛情を持っていることも事実である。人類は古今東西、男女間、親子間、友人間で愛し愛されてきた。親子の愛はすばらしいし、また夫婦の愛、友人の愛も崇高である。また慈善の心や平和への願いが人々の中にあり、どの宗教や教えでも“愛“を提唱する。ではなぜ、この愛や愛情が人を憎むということを覆わないのか? 私はここで、愛・愛情にも種類があり、人を成長させる愛とそうでない愛があるのではないかとする。

第二章 4つの愛の種類とアガペーの愛の例


そこで、愛の分類をしたC..Luisの本を参考にし、人を成長させる愛があるかどうかを考察する。C..Luisは愛を4つの分類にわけ:「愛情」「友情」「恋愛」「聖愛」(ギリシア語でストルゲー・ピリア・エロス・アガペー)、またこれらを説く上での愛の基本形式を「与える愛」「求める愛」とし、これらが相互に混入しあっているとした[i]。聖書でいう愛は「アガペー」(英語でCharity)で、日本語では無償の愛と訳される。ストルゲーは親が子を愛する愛と説明されており、動物にもみられる自然的な愛であるとLuisは述べている[ii]。私は、アガペーの愛以外は人間がもつ自然の感情で、それぞれの人間関係が最高の場合に、その愛は美しい状態であろうし、平和的であると思う。しかしながら、これら3つの愛をなす人間関係:親子、夫婦、友人、兄弟等、どれもそれがどの愛の形式であろうと愛するがゆえに、また憎しみや独占欲等他の感情が混ざり、結果として相手を傷つけたり、悲しませたり、最悪、殺しあうまでにいたるという現象がいつの時代にも、どこの国でも行われている。またある人を愛するがゆえに、他者を傷つけることはよくあることである。つまり、愛情と憎悪はともに共存しうるので、“愛憎”という言語がり、愛情は嫉妬、独占欲、敵意をも産み出すからである。そうなると、これら三つの愛:友情・愛情・恋愛においては、人間が恒常的にまた全体的に、誰もが互いに成長しあうという状況は非常に困難である。つまりこれら3つの愛では人間が真に成長するには限界があるということは明らかである。逆に、これら3つの愛によって人を成長させていれば、人類史上、殺人や争いは少なくなっているはずである。人間は、愛して一時的に成長はするかもしれないが、根本的な苦い感情を持つことを避けられない。それは“人間だから仕方がない”と人は言い訳をするが、この“仕方がない“性質が人間にあるかぎり、いくら一時的にまた状況的に愛や愛情を注いでも、それは完全に人間を成長させることはできないと思う。なぜなら、人間は生まれつき、自分中心という部分を捨てることができず、自分の努力と意思、力によって無償で自分を捨てて生きるということは、不可能である。(そうなりたいという願望はもっていたとしても)

 それでは、アガペーの愛は他の愛とは違うのか?とすればどのように違うのか?主に聖書から引用すると、愛とは「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」[iii]とイエス・キリストの弟子パウロは述べている。これは結婚式で夫婦になる人々によく使われる個所であるが、この個所は結婚式のためだけの個所でなく、まさに、自己を捨てた、無償の愛の性質そのもの定義づけている個所である。実際人間で、これらをすべて出来る人はいないはずであるし、出来るという人は偽善であり、単に自分で出来ないことの自覚がない人である。また、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」[iv]とキリストは言っている。パウロはまた、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」[v]と愛の動機がなければ、どんなに行いが立派で犠牲的でも、意味がないとしている。もしこの種の愛が実現可能であれば、人は精神的に成長できそうである。

一方、キリスト教の神はこのアガペーの愛を実践できるものに、人間を変えられると聖書はいっていると思う。それはもし人がキリストを信じ、自分の罪の性質を悔い改め、神と和解し新しく生まれ変わることによる。[vi]、つまり人は信じると、聖霊が与えら[vii]、その神の霊がその人の心に住めば、その力で(自分の力でなく)実行可能とされる。そこで、実際にキリスト教の神を信じている人で、アガペーの愛を行った人をあげよう。

マザー・テレサが貧しい人々・世の中から見捨てられている人々に無償で仕えることが出来たのは、彼女がキリストを信じる信仰に基づき、神から与えられた力つまり聖霊によって実行できたからである。キリストが「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」[viii]ということを彼女は信じ、神を愛するがゆえにそのことばに従って、喜んでそれを実践した人の例であると思う。

またコーリーテンブームという人者は、彼女の本「私の隠れ家」[ix]より、ナチスの独裁政治時代に、ユダヤ人をかくまったことで強制収容所に入れられ、戦後、高齢になって単身女性一人で伝道活動を世界的に行った人物である。彼女はキリストのことば「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」[x]を徹底的に収容所時代も、また戦後にも行い、また神の愛を全世界に説いた人である。彼女は収容所の過酷な状況において父と姉を失った。彼女の姉は自身を虐待するナチスの兵隊のために祈ることを彼女にすすめ、またコーリーが戦後、自分の家族を殺した元ドイツ将校を赦し、握手できたのも彼女が神に祈り、どんな相手でも愛することのできる力を神から得たという。彼女の例はたとえ相手が残酷で、赦しがたい人物でも、アガペーの愛により、その相手を赦せるようになるという、ここにも人間の精神の成長があると思う。彼女は最初から人格者であったわけでなく、神を信じ、アガペーの愛の実践を一つ一つ積み重ねて、どんな相手でも愛せるようにまで成長していったのである。もし人間が互いにこのように赦し合えたら、戦争や殺人は繰り返されなかったであろう。


第三章 アガペーの愛と聖書における人間の成長


では他の宗教や人格者のアガペーの愛とどこが異なるのか?仏教でいう修行によって悟りを開くことや、その人の努力で、慈悲深くなろうと勤めることで愛を行えるのではないだろうか。もちろん、キリストを信じる者以外の慈善行為や美談はいくらでもある。まず異なる点の第一は、キリストを信じる者は、自身の力で愛そうと思わず、神からの霊(聖霊)という助け主によって、つまり神の力によって、互いに愛せるように変えられる。それ以外の宗教や人格者は自分の努力と力によるとか、自己にめざめ、修行によって悟りの境地に達するなど、それらは自分自身の力が重要である。もしくは人は他者によって生かされているし、人も自然も皆一つ、人類皆兄弟というヒューマニズム的な考え方もあり、それらに共通するのは人間が中心(もしくはこの自然をすべてひっくるめて、万物が中心)という考え方もあろう。しかし、そこでは神が主役ではない、もしくは存在しない。

第二に人を愛する動機が異なる。キリスト者は神が個人的に自分を愛してくださっているからこそ、その愛を返すために、人を愛そうとするのであり、それは強制ではなく、自発的である。マザー・テレサが、「キリストは見えませから、キリストご自身に愛を表すことはできません。でもはたの人はいつでも見えます。…今日、この同じキリストは、いらないと思われている人…愛してもらえない人、飢え、裸で、家のない人のなかにおられます。」[xi]といわれる。彼女はキリストのために行っているのであって、彼女の自己実現のためでもなく、また“人の為に“とも言っていない点だと言える。他の慈善家は人の為と提唱し、実はそれがイコール自分の成長にもなり自分の為にもなるというねらいや意識は多少あるはずであり、結局”無私“の状況になるのは非常に困難であると思う。人は神のため、キリストの為としてはじめて、”私“を超えて神の為に人々に仕える。つまりこのアガペーの愛は、人に仕えることをとおして神を愛し、その過程において自身も成長していき、相手にも影響を及ぼすのである。

それ以外の方々は、神が自分を愛しているから、他人を愛すという論理はない。ある人々は慈善行為が自己実現そのものである。(私は人を喜ばせたいという動機が悪いといっているのでない)しかしキリスト者は人ではなく、神が喜ぶかどうかがすべて判断材料であり、ここが大きな違いである。

第三に、キリスト者以外の偉人や人格者・宗教家は自分でしたことは自分に賞賛が帰するが(例えその賞賛を本人が得たいと望まなくても)、キリスト者の間では、その行為の本人を賞賛するのでなく、その力を与えた神が、又はその人をとおしてなされた神のみわざが、賞賛され、神に栄光が帰されるのである。

では、なぜ、マザー・テレサも、コーリー・テン・ブームも、聖書の神を信じ、アガペーの愛を実践できたのか。人はなぜ神を愛し、神のために人を愛する必要性があるのか?それは彼女達が、神が彼女達を個人的に愛しているということに気づいたからである。神が御子イエス・キリストを十字架にかけて、我々の人を愛せない罪のため、神からの罰を代りにキリストに受けさせてまでも、彼女等を愛していたことを“個人的”に信じたとき、彼女達は神を愛さずにはいられなかった。なんとかして、神を愛したい、神の為に何ができるかと考えたはずである。口で「愛してます」と言うのではなく、聖書では「神を愛するとは神の命令を守ることです。その命令は重荷にとはなりません。」[xii]また、その命令とは「互いに愛し合いなさい」[xiii]、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」[xiv]であり、彼女達は神を愛そうと、その命令に従ったからこそ、常識では考えられないような無償の愛を生きている限りこの地上にてひたすら行っていたのである。その過程において人間が精神的成長していくのである。つまり、聖書における“成長する”とは、内面がキリストのようになることである。同時に相手の成長のために無償で犠牲を払うことにつながる。それが、他人へも影響を与え、ある人達は感銘をうけて、同じ道を様々な形でそれぞれの与えられた場所で、役割で実効しようとする。もし人々が、この聖書における人間の成長を目指そうすれば、戦争はおこらないし、殺人・盗み・嫉妬・高慢・貪りは少なくなるはずである。

一方、人はアガペーの愛を実践しようとしても必ず失敗し、最初から出来る行為ではないのも事実である。しかしながら、キリスト者はその実践を決意し、神からの助けを求め、失敗してもやろうとし続ける必要があり、積み重なっていって、少しずつ成長していくのであろう。


結論           

 
以上のことから、私はアガペーの愛の実践以外に、人間の真の成長はありえないのと私は思う。ではアガペーの愛を実践するにはどうしたらよいのか?それは、人間が神と和解する、つまり神を信じることである。人が自分自身のために生きて、自分の利益だけ考えて、自分の幸福のみ追求し、自己実現を追い求めることに飽き足らず、神を求めようとしない、これが人類史上、人間が成長しない根本的原因である。従って、私の結論は、人類は神との愛の関係を横の人間関係においても実践しようとしないかぎり、同じ歴史を繰り返し、いつになっても精神的に成長しないとする。私個人として出来ることは、神の御心がなることを祈り続けることである。神の御心とは、キリストが「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」[xv]とおっしゃるように、すべての人が救われることを願われている。私はこの聖書の言葉を信じ、「御心が地にもなるように」[xvi]と祈る、神の御心がなることイコール人が互いに愛し合うことが可能となり、そして私自身も含め、人間がこの愛によって成長しうると結論づけます。
文末脚注



[i] C.S.Lewis,“The Four Loves,” William

Collins Sons & Co.,Ltd, Glasgow, 1960,

pp,蛭沼寿雄訳,“四つの愛,”新教出版

,1977,pp5

[ii]同上pp3334

[iii]新共同訳聖書,1コリント13:4-8

[iv]新共同訳聖書,ヨハネ福音書15:13

[v]新共同訳聖書,1コリント13:3

[vi]新共同訳聖書,ヨハネ福音書3:3

[vii]新共同訳聖書,使途言行禄1:8

[viii]新共同訳聖書,マタイ福音書25:40

[ix]わたしの隠れ場,いのちのことば社,1975年初版

[x]新共同訳聖書,マタイ福音書5:44

[xi] “Gift for God”, Mother Teresa,

 Missionaries of Charity, 1975,日本語訳:半田素子,女子パウロ会, 1976,pp31

xii]新共同訳聖書,1ヨハネ5章3節

[xiii]新共同訳聖書,ヨハネ福音書13:34

[xiv]新共同訳聖書,レビ記19:18

[xv]新共同訳聖書,ヨハネ福音書6:39

[xvi]新共同訳聖書,マタイ福音書6:10

参考文献リスト

C.S.Lewis,“The Four Loves”, William, Collins Sons&Co.,Ltd.,Glasgow, 1960, pp

日本語訳:蛭沼寿雄訳, “四つの愛”,新教出版社,1977,pp5

“Gift for God”, Mother Teresa, Missionaries of Charity, 1975,

日本語訳:半田素子,女子パウロ会,1976,pp31

新共同訳聖書”,日本聖書教会,1988

わたしの隠れ場”,コーリー・テン・ブーム,

 いのちのことば社,1975年初版

提出年月日:   20021113科目: 人間学II  喜田 勲先生

   
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