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信仰の旅路

*クリスチャンってどんな人? 何をしんじているの?




 クリスチャンとは「敬虔な・教会に日曜行っている立派な人」と思われるかもしれませんが、それはちょっとちがうかもしれません。もちろん、立派なクリスチャンの方もいらっしゃいます。しかし、教会とは逆に、自分の弱さを自覚し、無力な罪人だ・・・と自覚して救いを求め、イエス・キリストを信じて、罪赦された者として、新しく生きるために神様から呼ばれた人びとが集まるところ、それが教会です。


















 「イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)”冗談じゃない、病人・罪人呼ばわりされる筋合いはない、だから宗教はいやなんだ”と思われる方もいると思います。しかし、罪が何か示すのは、責めるためでなく、心の深い暗闇が光へと移され、救われるためと誰が想像するでしょう。






 















 
キリストを信じる信仰とは、こんなダメなものを救うために、キリストが自分の罪のために代りに十字架で死んで下さって、3日目によみがえり、今は天国におられること、キリストのおかげで私の現在過去未来のすべての罪が赦され、その罰を免れ、それだけでなく神の子となれて天国にて永遠に生きれるという祝福をもらえること、これらを単純に信じることです。また、信じた後は、今までのように自分中心に生きるのでなく、キリストにあって新しくこの世で生きるよう徐々に内側が変えられていくという希望が与えられます。



















私はクリスチャンホームで育ち、中学2年の時に洗礼を受けました。その時は、はっきりと覚えていませんが、イエス様を救い主として信じると中学生なりに、決心し、大勢の大人の前で証しをしたことを覚えています。しかし、大学生になってから教会へいきながらも、信仰が後退してしまう時期がありました。礼拝に参加しても、喜びがない時期がありました。そうなると、世の中のほうが魅力的に思えてしまうのですが、色々楽しいことをトライしても、いつも心は空虚なのです。また、自分をけっこういい人間だと思っていました。特別才能はないけれど、社交的で、学校でも友人に恵まれたし、職場でも後輩には親切に仕事を教え、先輩をたて、また同僚とは仕事以外でも食事にいったり旅行にいったり、人間関係はある程度うまくこなせ楽しい生活でした。しかし、心の深いところではいつも暗闇があり、孤独でした。20台半ばになると”自分の存在価値って、なんだろう? 何か人から評価される仕事・キャリアを目指さなきゃと”と思うようになり、また自分自身のプライドを保つために自分で何か目標を設定しそれに到達するためにがんばろうと。しかし、ある程度しか達成できないと、上には上がいるし、きりがないと、人生むなしい、結婚もできないし、みじめな人生だと思っていました。普通に働いて、遊んでその暗い部分を紛らわしてきたものです。あるとき、もうそれが続けられないほど、非常に落ち込みましたが、絶望して死ぬほど勇気もない。洗礼を受けたくせに、こんな不信仰では私は地獄にいくのがふさわしいなと。しかし、心のどこかでは救いを求めていたのです。。。












 神様は不思議な方法で、私に再び生きる希望とキリストを信じる信仰を与えてくれました。自分の罪がわかったのです。神を神とも認めず、自己中心に生きてきたこと、嫌いな人を愛せない罪、人のした悪を赦せない苦い思い、そして自分のしたことを赦せず自分を責める思いといった、どろどろしたものを恥ずかしいけど認めて、それが赦されるなら赦されたい、そしてこの深い暗闇から開放されたいと思いました。こんな弱い状態、どうしようもないもの、世の中からみて惨めなもの、いつも人の評価をきにしている状態、孤独の思い、そこから助けてくれる方、その救い主がキリストなんだと。キリストは私のこれらの罪を赦すために十字架で苦しまれて死なれたんだと、再び、はっきり信じられたのはまさに奇跡だと思います。私は何もしていないのです。神様はただ私をかわいそうに思って、憐れんでくれて、愛してくれたから、私が何かしたからでなく、一方的な恵みで信仰を与えてくれて、助けてくれたと思います。
















 イエス様を信じた後が新しい人生のスタートで、またそれも個人差はありますが、信仰の歩みは七転び八起きのところもあります。クリスチャンになったからといって、人生がすべてうまくいくわけでなく、すべての人と同様、病気や失業、災難、事故、家族を失う等つらいこともおこります。違いは、どんな状態であれ左右されない、心の深いところに神様から与えられている恵みと平安があることです。試練に直面したとき、自分の力で乗り越えるのでなく、神様が心に与えてくださる聖霊を通して、助けて導いてくださるという約束が聖書に記されています。またこの試練を通しても、そこにも何か神様の計画があるという、目に見えないけれど神様に任せようという信頼があり、失敗し落ち込んでも、いつも聖書のことばで修正され、他のクリスチャンとの交わり、祈りで引き上げられ、生きる力が与えられるのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」エフェソの信徒への手紙 2:8
Nov. 2006 ギリシャ パトモス島にて撮影
 
   
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