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 日々のわかちあい



モーカケの滝(福島県)

          
♪Today's Sharing♪

2019

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
   

 


癒やしを求めて 他人との比較 どんな苦しみにも同情できる

 


還暦のお祝い 在日外国人 神様は乗り越えられない試練は与えない

 


説明ではなく約束によって 壁の建設 はやぶさ2号のリュウグウ着陸:ミクロからマクロまで

 


レント(受難節)に思う 幼い子のように 筋トレは必要か?

 


イースト菌パワー 名前の大切さ ニュージーランド乱射事件

 


親の介護 賛美を歌う理由 ムネアカドリ(ヨーロッパコマドリ)

 


桃の木を植えて 新元号と気持ちの区切り 人に任せることと自分がなすべきこと

 


水の上を歩く 君は愛されるため生まれた 掘って、鉱石を見つける

 


羊の毛刈 映画「僕はイエス様が嫌い」を見て 平和の願いを込めた折り鶴

 


一緒に歩く 茶臼岳登山 水に浸る楽しさ

 


悲しい知らせと慰めと希望 思い煩わず、賢く判断する いいね! がなくても気にせず

 


ゼラニウムの香り 悪を憎んで人を憎まず ゴスペルは熱いが、暑さを吹き飛ばす!

 


自問自答が宣言に変えられる時 差し出された手:依存からの解放 「ちっちゃいこえ」 :「原爆の図」よりアメリカ人が作った紙芝居を通して

 


小さな教会であっても:益子町にある教会 何によって心を強くするのか こころを満たす生きた水

 


2019台風19号 「致しかねます!」への反応を乗り越えて 即位の礼と政教分離

 


傾聴 切り株の若芽 笛ふけど踊らず

 


肉食 VS ベジタリアン 本当のクリスマス 初心に帰る

 


毎日がクリスマス 0 0
Dec. 26, 2019

 毎日がクリスマス

 

 もし、毎日がクリスマスだったら?一般にイベントやお祭りごとというのは、特別な機会、季節ごとに行われるものであり、日常の生活や業務とは違い、特別なことだからこそ、そこに労力が注がれるものです。そして、また日常に戻ります。では、毎日がパーティ、お祭り、催し物だったらどうなるでしょうか。達成感や、興奮、喜びと刺激的かもしれませんが、その高揚感、ハイテンションが毎日続くと、心身にお財布に支障をきたすかもしれません。日常生活の同じことを静かに続けることは大切だと、この師走の忙しい時期に考えさせられます。

 

  ある教会に、高齢のご婦人(70才台)がいて、徒歩と電車で1時間半程かけて熱心に喜んで日曜の礼拝と水曜の祈祷会に教会へ通っていました。12月になり、クリスマスの教会での行事が多くなり、教会に足を運ぶ回数も増え、彼女は夕方教会から帰宅し、ふと「あー疲れた」ともらしたところをご主人に聞かれ、その後面倒なことになったそうです。そのご主人はクリスチャンではなく教会も行かない方ですので、理解をしてもらうのが難しかったからでしょう。クリスマスという一年で一番イベントが多い時期に、クリスチャンが救い主・キリストの誕生の喜びを分かち合い、楽しんでいる様子を、それも自然に人々に示せれば、大変であっても疲れても意味があります。なぜならそのイベントが教会外部から参加された方にとって、教会にクリスマスだけでなく、他の時も行ってみようかなというきっかけとなれば、つまり人々をキリストに招きたいからです。

 

  クリスマスの意味は「キリストを礼拝する」で、クリスト(キリスト) マス(礼拝)の合成語です。実は教会は、一年中クリスマスをしています。つまり、いつもキリストを礼拝しています。しかし、それは忙しいイベントごとではなく、日常のことです。クリスチャンは本来、毎日神様の前に静まり、キリストを礼拝することに喜びを得ているものです。なぜなら、神様が救い主としてイエス・キリストをこの世に送って下さった事、そして、十字架で私たちの罪にたいする罰を代わりに受け、それゆえ私達が神様に赦されて、神の子となり、天国に行ける道、永遠の命を与える約束をして下さった、その大きな愛と恵と憐みに感謝するから、祈り、賛美歌を歌い、聖書を読んで心にとめる、つまり礼拝をするのです。

 

  宗派によって、毎日礼拝(ミサ)が行われている教会もありますが、教会という建物に必ずしも出かけて行く必要はありません。家で、また声にださなければ通勤電車の中でも、お昼休みでも一人で礼拝できます。一方で、皆で集まって礼拝することは大切です。集まれば、お互い顔と顔を合わせて親しくコミュニケーションを取り、共に祈り、共に賛美を歌うことができるので、もっと神様の祝福と恵が溢れ、またお互いが励まされ、慰めが与えられます。神様は私が教会の奉仕活動を頑張らなくても、何もしなくても、それでも私に注いで下さる愛は変わりません。神様の愛は恵であり、報酬ではないからです。何かしたければ呟かずに喜んですれば良し、また何もしなくとも、大切な事にさえ心に留めていれば、それで良い方を選んだのだ、とイエス様は言って下さいます*。大切な事、良い方とは、毎日のイエス様から聞き(聖書を読み)、祈り、讃美の歌を頭のなかで巡らせてイエス様を礼拝すること、私はこれを日々続けて行きたいと願います。

 

 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 ルカによる福音書10章41-42節 (聖書引用、口語訳聖書)


 

 *上記はイエスがマリアとマルタという女性(前者は静かにイエスの話を聞き、後者は台所仕事に忙しく、イエスになぜ、妹に手伝うように言ってくれないかと文句を言う)の家に訪問した際、マルタに言われた言葉。
 
Dec. 23, 2019

 初心に帰る

 

 私が現在那須塩原市で開いている聖書勉強会には、クリスチャンだけでなく、キリスト教を信じたいけどまだ信じられない人、求めている人も参加されています。彼らからの質問やコメントは毎回新鮮で、はっとさせられ、気がつかされることが多く、感謝です。聖書を何度も読み、説教で話しを聞いていたりすると、もう知っている、分かっていると勘違いしがちですが、実は私は聖書に関しても、神様の愛や恵に関しても、まだまだ知らなければならないことさえ分かっていない者です。また、目に見えない霊的な恵や祝福を見逃して、具体的活動にばかりに目を向けてしまいがちです。

 

  今回受けた質問では、「信仰が薄かったキリストの弟子たち、キリストが逮捕された時逃げてしまった弟子たちが、その後なぜ急に大胆に、迫害を恐れず宣教する様な信仰になったのか、信仰のレベルは何によるのか?」でした。それに対して、弟子たちが変えられたのは、キリストが復活した後、聖霊(神の霊)が彼らに与えられたからですと説明しました。すると、「つまり、信仰が薄い・深いというのは、弟子たちの性格(例えばリーダシップがあるとか、冷製沈着)ではなく、聖霊の働きなんですね。」とその方が納得されたのを見て、そうだった、信仰さえも、聖霊が働いて神様から与えられ、強められるのだと自分で説明しながら、再認識させられました。

 

  先日、大学生向けに伝道している友人夫婦からのニュースレターを読んでも、励まされました。彼らが参加した教会開拓者のための修養会にて示されたことを分かち合ってくれたのです。「どうしたら宣教が前進し、教会が成長するのか?」ということ以上に「神は、私たちが何かをしたからではなく、何かをする前から私たちを愛してくださっている」ということに中心が置かれていたことでした。私達夫婦も、2020年の4月から益子町に移転し、そこで開拓伝道をしていく予定です。感謝なことに、現在はヘルプで他教会から土曜礼拝に参加してくださる方々、祈って下さる多くの方々によって支えられています。宣教の計画、具体的な活動など夫婦で話合ったり、様々な書類を準備したりと、私の頭の中で、くるくるとしなければならないことリストが回っています。しかし、このような事務的な事よりも、何よりも大切なのは、神様は私達が何かをする、しないに関わらず、愛して下さっているのだから、その愛に応答してなすべきことをやる、そして必ずこの教会に信徒を、神様を求めている人々を神様が送って下さると信じていこうと思います。

 

  教会に人が来るというのは、ビジネスと異なり宣伝したからといって効果があるわけでもなく、またたとえ教会内で何か事業をして人を集められたとしても、それによって確実に人々が信仰につながるわけではありません。しかし、確信の持てることは「神様が」救いを求めている人を送ってくれて、信仰をその人に与えるのも神様の業だということです。この信仰に立って、聖霊の力を注いでいただき、益子でも神様の福音が広がることを祈りつつ、示されたことを地道にやっていこうと思います。私が神様に救われたのは、私が何かをしたからではなく、何の働きもなく*1、ふさわしい人間でなはなくとも、恵によって信仰が与えられること*2、全てが神様の恵であることに、いつも初心に帰ろうと気がつかされました。

 

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」 ヨハネの第一の手紙4章10節  (聖書引用、口語訳聖書)


 

 *1「 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 」ローマ人への手紙4章4-5節
 *2「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」 エペソ人へ手紙2章8節
 ☆義とする→ 神がその人を正しいとみなしてくれこと、 賜物→プレゼントのこと。
 
Dec. 13, 2019

 本当のクリスマス

 

 12月、クリスマス会といえば、サンタクロースとプレゼント。クリスマスソングといえば、サンタの歌、山下達郎、ワム(古いですが)の歌謡曲など、これが一般の人々のクリスマスの認識でしょうか。先日、地域の子育て支援の会(幼稚園前の幼児とお母さんたちの会)でクリスマス会があり、友人に頼まれてクリスマスソングの演奏をする機会がありました。先方から依頼の曲目はサンタクロースの歌ばかりでしたが、「きよしこの夜」「もろびとこぞりて」の賛美歌も含まれていました。大きなサンタを見て泣いている子供もいましたが、ほとんどの子どもたちはニコニコして、お母さんと一緒にクリスマス会を楽しんでいた様子でした。キリスト教が文化的に浸透している西欧諸国でさえも、このように、クリスマスといえばサンタクロースからプレゼントをもらって、ケーキやご馳走を食べるというのが定番です。プレゼントというのはもらって嬉しいかもしれませんが、一時的な喜びでしょうし、またもらえない人もいると思います。クリスマスパーティは美味しいものを食べて、飲んで楽しい時かもしれませんが、その後は写真くらいしか残りません。そのようなパーティに参加する機会もない人がいるかもしれません。

 

  毎年この時期、私たち夫婦は教会内のクワイアー(聖歌隊)として、高齢者の施設や教会のクリスマス礼拝などでクリスマスの賛美歌を歌う機会があります。先日も、毎年訪問する施設で歌ってきましたが、教会の聖歌隊が外部で歌う目的は、クリスマスの意味とその喜びを伝える為であります。クリスマスは、プレゼントやパーティのような一時的楽しみや、一部の人々だけが楽しむものではないということを、歌(ゴスペルソングや賛美歌)を通して、一人でも多くの人に知らせたいのです。本当のクリスマスはキリストの誕生を祝う日、キリストを礼拝する日(クリスマス;キリストを礼拝するという意味)です。キリストの誕生は一部の国民、人種に関係することではなく、「全ての人」に喜びの訪れを知らせるためであります。

 

  最初のクリスマスは2千年前、神であるイエス・キリストが、現イスラエルの国で人となって生まれた日。天使たちが人々に伝えたことは、このイエスが救い主として生まれたということです。救い主がこの世に来たことが、なぜ喜びなのでしょうか。当時、多くの人々は苦しんでいたからです。どんな苦しみかというと、圧政に苦しんでいたり、差別されて苦しんだり、様々な理由で虐げられている人々が心の叫びを挙げていました。神様はその人々の叫びを聞かれ、キリストをこの世に送ってくださったのです。

 

  それから2千年たった現代の日本でも、苦しみ、悩んでいる人々がいます。もしかしたらその問題が他人から、政治的、制度的に圧迫されているのではなく、自分自身の内面にあって、心を閉ざしてしまっているケースもあるかもしれません。いずれにしても、全ての問題の根っこは、人の心にある暗闇:罪であって、この問題を持たない人は人である限りいないはずです。救い主はその罪から救うために来た事、そしてそれから派生するすべての問題に対して、神様が共にいてくれて助け、導いて下さるという事を信じられると、私達は希望が持てます。クリスマスにて、一人一人が、静まって自分の内面と向きあい、本当のクリスマスを体験できることを祈ります。

 

 「御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」ルカによる福音書2章10-11節  (聖書引用、口語訳聖書)


 

 


Nov. 28, 2019

 肉食 V.S ベジタリアン

 

 近年は食物摂取の際に起こるアレルギー反応が問題となっています。特に子供たちは、大豆、乳製品など健康に良いとされる食物でも体が反応してしまうので、食品に何が含まれているかを生産者側で表記しなければ、最悪命の危険を伴う結果となります。一方、宗教的理由や主義で肉を食べない人々もいます。ユダヤ教・イスラム教はたくさんの食べてはならない食物規定がありますし、動物殺生を一切したくない主義の方々は動物の毛皮、皮製品にも反対します。

 

  その人の体に害がない限り、またそのことで他者に害を加えないのであれば、基本的に何を食べても飲んでも自由だと私は思います。動植物も不自然に操作してたりせず、育てたられたものを感謝して頂のが理想です。また、自分の宗教、主義を守りつつ、そうではない人々の文化、習慣を理解する広い心も必要ではないでしょうか。しかしそれによって害が生じる場合には、公共政策的に法律で制限することも必要でしょうし、法律で制限される程でないとしても周りに与える影響を考える、という配慮を持つということは大切だと思います。

 

  一世紀にキリスト教がユダヤ人の間から始まり、世界に広がって行った時、ユダヤ人とそれ以外の民族の信徒の間でこの食事の問題が生じました。ユダヤ人としては、キリスト教はユダヤ人から始まったのであり、他の民族も自分たちが守ってきた食物規定やその他の法律を守ってほしいと思ったのです。しかし、当時の伝道者であったパウロはもっと広い心を持っていました。そしてそれは彼が考え出したことでなく、彼の信じているイエス・キリストご自身が言われたこと「全ての食物は聖いのです」*1とその愛の教えに従って、このことでもめている信徒たちに勧めを手紙に書いています。

 

  その勧めとは、何を食べる、食べないという問題、またどの日が重要かどうかで、互いに裁きあわないことです*2。なぜなら、全ての人のためにキリストは死なれたのであって、それ程全ての人は神様に愛されているのだから、食べ物のことで人を裁くなということなのです。また、キリストを信じている者は神様の恵み受けて、感謝し、何をしても自由であると。ただその自由によって、相手をつまづかせないようにするという配慮は必要であり、全てして良いからといって、全てのことが益になるわけではないと言っています*3。こうしてユダヤ人であるパウロは、自身は肉を食べることに何の問題を感じないけれども、問題視する人々を配慮して、自分も肉を食べることを控えていました*4。

 

  お互いに違いに目を留めるのではなく、それぞれが大切にしていることを尊重しつつ、自分自身は人に縛られず、神様に感謝して、平和的な関係を持つことを目指していきたい、実際失敗も多いですが、そう祈り求めていきたいと思います。

 

 「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 」ローマ人への手紙14章17-20節


 

 *1 マルコによる福音書7章18-19節  「『あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである』。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。」

 *2 ローマ人への手紙14:1-6 ユダヤ人は土曜日を安息日として大切にしている。
 *3「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 第一コリント人への手紙10章23-24節

 *4 ここでは、肉全般のことではなく、異教の神にその神殿で捧げられた肉が、その後市場に売り下げられ、その近くのレストランの食事に使われているという想定で、その肉が汚れているから、食べるべきでないという論争があった。第一コリント人へ手の手紙8章、10章18-33節  (聖書引用、口語訳聖書)
 


Nov. 25, 2019

 笛ふけど踊らず

 

 

  子供の頃、「ごっこ遊び」をしたことがあると思います。お店やさんごっこ等、子ども達は大人たちが実際していることを真似、それを遊びの中に取り入れます。ただ私が覚えている限り、「お葬式ごっこ」はしたことがありません。おそらく近代日本ではお葬式が家で行われず、葬儀場で行われるようになり、人の死というものを積極的に子供に見せないようになされているからかもしれません。一方、2千年前のイスラエルでは冠婚葬祭に幼い子供も一緒に参加していて、生活の様々な場面で必ず歌を歌っていたため、子ども達はお葬式ごっこを歌と共に遊びに取り入れていたようです。

 

  「のりがわるい」と言われるように、「笛吹けど踊らず」とはあることを手を尽くして準備し、誘っても人々の反響・反応が悪い様子を現わすことわざです。これは聖書の中でイエス・キリストが言われたことば「笛吹けど踊らず、弔いの歌を歌えど泣かず」*が由来となっています。子供たちが広場に座って互いにごっご遊びをしているなかで、お祝いの笛を吹いたのに一緒に喜んで踊らないし、葬儀の歌を歌っても誰も悲しみ涙を流さないという、無反応・無関心の様子をたとえで話しています。

 

 無反応、無関心。イエスはこのたとえを、当時の人々の心の状態を現わすために話されました。その当時、洗礼者ヨハネという預言者が人々に罪の悔い改めを説き、荒野で仙人のような生活をしていると、ある人々は彼を批判し、彼の呼びかけに無反応でした。その後イエスが宣教を開始し、神の国の福音を説き、様々な奇跡を起こして病気の人々を癒し、社会的弱者やのけ者にされている人々に寄り添っていると、形骸化した宗教システムに縛られている指導者達がイエスをねたみ、拒否しました。当時の多くの人々が、自分たちの現状維持にしか興味がなく、新しいイエスの教えと神からの権威の多くの業に無反応、無関心、批判的だったことをたとえられたのです。

 

 これは2千年前の中東の国の出来事だけではなく、現代の日本でも同じ状態ではないかと思わされます。表面的に多くの情報をネット等で得られますが、人として大切なことや、心温まるような出来事があまり注目されず、逆に批判されることもあります。真剣に取り組まなければならない事:生きること、その目的、死ぬこと、その後に無関心で、ある意味考えることがタブー視されています。これは知恵がない状態によると思います。人間の間で何が正しいか悪いかが相対的なため、知恵といっても様々な知恵がありますが、ここでは「神の知恵」についてです。神の知恵は普遍的で時代や国によって変わらないものであるということが、それを信じて従う人によって証明されるだろうと、イエスはこのたとえの続きで話されています。

 

  もし、人が神によって創造され、神に愛されて大切にされている存在だと受け入れ、信じられれば、神は人間の小さな考えや視野を超えたレベルで、全ての人にとって正しく、善いこと、平和的なことを持っておられるはずだと、自ずと理解できるようになるでしょう。「キリストが来て以来も、社会は良くならないし、戦争もなくならず、何も変わらないではないか」と表面的には見えたとしても、見えないところでは変革が起こっています。だからこそ、約2千年にわたりキリストの福音が伝えられ、個々人の心の中に変革があり、神に従おうとする人々の国が広がり続けているのは事実です。どんな弾圧、懐柔政策によってもこの信仰はなくなることはありませんでした。私はキリストを信じて従った人々のしてきたこと、言ってきたこと、たとえそれらが完全ではなくても、これらのことを神の摂理や恵という視点で捉え、ああ、やはりこのキリストが本当の神であり、今も生きておられると感謝をもって信じ続け、それを他の人に伝えていきたいと日々願い、祈り続けたいと思います。

 

 「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 ルカによる福音書7章35節
 

 *ルカによる福音書7章32節  (聖書引用、新共同訳聖書)
 


Nov. 18, 2019

 切り株の若芽

 

 

  私の住む街には運動公園があり、その敷地内は沢山の木々があって、その遊歩道を歩くたびに四季折々の風景を楽しむことができます。ところが、この一年で、道路沿いの大きな木が次々と切り倒されてしまい、切り株だけが残っています。おそらく、駐車場か何かの用地を広げる為なのでしょう。それらの切り株を見る度に、人間の都合による自然破壊を悲しく思います。一方、切り株というのは、その根が生きていれば根からまた新しい芽が生えて来るものもあります。それらは再び大きな木には成長しないかもしれませんが、木の命は小さい枝ながらも脈々と引き継がれています。自然の生命力の力強さに感動します。

 

  聖書に、切り株をたとえた話が出てきます。預言者イザヤは、切り倒された木の切り株から若枝がでると語り、その若枝はメシヤ(救い主)を指し示すと言われます。つまり一度は切り倒された木のように、全てが失われてしまったような状態、この預言者の時代ではユダヤの国が他国に滅ぼされてしまうという絶望状態でも、切り株は残されていると*1。そしてそこから、将来、平和の王(メシア)が出現するという、神様から与えられた預言です。その平和の王は、この地上での政治的な王ではなく、主(神)の霊がその上にとどまり「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。」*2とあり、そのように世界を治める王だと記されています。この預言はまさに、約700年後に地上に来られたイエス・キリストによって成就されますが、キリスト(メシヤ:救い主)は実際は2回地上に来られるとされ、最初は人として生まれ、十字架にかかり3日後に復活され、信じる者に救いをもたらすために、2回目(再臨)は王として世界を裁き、完全な平和をもたらすために来られると預言されています。つまり、一度目はすでに2千年前に成就していて、再臨はこれから先、未来に起こることです。

 

 人々は平和を求めますが、人の心に罪があり、キリストの救いを受け取らない限り、平和を達成することはできません。なぜなら、個人差はあっても人はお互いの利害が対立し、ねたみや差別、いじめなどを誰も教えなくてもしてしまう者だからです。また、自分を犠牲にして相手を愛したり、赦すということに弱い者です。その弱さを認め、神様の前にごめんなさいと悔い改め、イエス・キリストがその罪を全て赦すために十字架上で代わりに罰せられたことを信じた時、キリストに在る平和を求める心に新しく変えられていきます。新しく生まれるには、古い自分は死なななければならないと聖書に書かれています*3。 これは肉体の死の話ではなく、霊的な話であり、外側は信じても何も変わらないように見えますが、キリストを信じると内側の、心の中が新しくされています。この内側の新生を信仰で受け止めると、神様に感謝し、喜んで神様に仕えたいという思いが沸き起こり、キリストにあって将来の希望が与えられ、キリストの再臨を待ち望めるのです。

 

  毎日のニュースを見ていると希望を見出すのが難しい世の中です。国のリーダー達は自らの利権の為に動き、裏で不正やわいろがはびこり、民主主義は表面的にすぎないと知ると、人々は何も信じられなくなり、絶望、虚無感ついには無関心となってしまいます。しかし、聖書の預言を信じれば、いつかキリストが再び王として来られ、悪を裁かれ、平和がもたらされるという希望が与えられます。暗い世の中にあっても、キリストにあって光の中に歩めます。また暗い心を照らす光としての預言の言葉*4、慰め、励ましを記す聖書の言葉に励まされて、日々歩んでいきたいと思わされました。

 

  「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」  イザヤ書11章1-2節

 

 *1 イザヤ書章6節11-13節
 *2 イザヤ書章11節3-4節
 *3「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」ローマ人への手紙6章3-4節
 *4「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」 第2ペテロ手紙1章19節(聖書引用、口語訳聖書)
   

 


Nov. 8, 2019

 傾聴

 

 

  傾聴。これは、もともとはカウンセリングやソーシャルワーク用語で、その漢字「聴」にある通り、相手のメッセージに「耳」を傾け、声の調子や表情などに「目」で注意を払い、言葉の背後にある感情に「心」を配って話に共感するコミュニケーションの技法です。私は社会福祉士として働いていた時、クライアント(福祉サービスの利用者、その家族等)と面談するとき、このことを心がけて仕事をしていましたし、以来、仕事上だけでなく個人的に誰かと話しをする際、自分がなるべく話さずに、相手の話を聞くことに意識をしています。それでも、自分が話しすぎてしまう時がありますし、失敗も多いですから、まだまだ修行中です。口をコントロールできる人は、人間関係において争いを避けられ、相手と良好な関係を築けるでしょう。コミュニケーションは慎重にしてもし過ぎることはないと思います。1

 

  下記の箇所は、聖書の中でマラキという預言者が記した言葉ですが、なんと、神様は人の話していることを傾聴してくださることが書かれています。特に、主(神様)を恐れるものが互いに語り合っている内容を注意深く聞いておられ、神様の名を心に留めている者のことを覚えておくために、書類に記録しておくというのです。「主を恐れる」とは畏敬、つまり神様を敬い畏れることで、実はこのことが知恵の初めとも書かれています。*1 神を恐れない人は、基本的に神などいないし、自分に対して何の力もないと思い、自分の好き勝手に、自分の基準で行動し、発言します。神を信じている人々に対して、「神なんて、弱い人間が作り出す気休め。 結局、自分なのさ、」と侮ることでしょう。

 

 一方、日本人はたくさんの神々を祭って、自分の願望にそって祈願し、お参りをしますが、宗教には深入りしないという人が多いのではないでしょうか。なぜなら、特定の神を信じて熱心になることで、今迄の自分自身でなくなってしまうかもしれないという恐れからくる、拒否感があるからでしょう。確かに、カルト宗教のような人を洗脳し、普通の生活ができないような状態にしてしまう宗教は拒否すべきです。しかし、全ての宗教がカルト的ではないし、本当の神を信じる宗教であれば人に平安、愛、善意など良いことを与え、また信徒はそれに基づいて社会の中で行動しているはずです。明治時代に創設された学校、福祉施設、病院は、ほとんど海外からのキリスト教の宣教師たちがキリストの愛に基づいて建てています。このように、キリストが人々をどんなに大切に思い、愛を与えようとし、それを人間同士でもするようにという良い教え、そしてそれを基に人々の福祉のために活動しているというキリスト教と、例えばオウム真理教のような破壊的な宗教を「宗教:怖いもの」となぜ一緒にとらえてしまうのでしょうか。それは無知からきています。知ろうとしない、無関心。

 

  私達が無関心であっても、神様は私達のことを傾聴し、私たちの願いを聞いて下さり、良くして下さる方です。私達が自発的に神を求め、信じることを忍耐をもって待っておられる方です。恐れにより強制もすることなく、本人の意志を尊重してくださいます。信じるとは神様に対する信頼関係が与えられることでもあり、今自分の起きていること、よいことも、悪いことも、全て神様に委ねようと思えるます。また、私達一人一人の全てを一度に見ることができ、また未来のことも見据えることができる全能な方です。これは、後ろめたいことをしている人にとってはそんな神の存在は恐ろしいかもしれませんが、自分は不完全な者、罪ある者と神さまの前に認め、キリストの十字架を通して全て赦してもらえるという救いを信じる人にとっては、平安と感謝が与えれられます。なぜなら、例え私たちが神様の命令を守れなくても、キリストを信じていれば責められないし、悔い改めるチャンスがあり赦されて、やり直すチャンスを何度も下さり、次第に良い心、行いへと自身が変えられていくという希望を持てるからです。

 

  また、たとえ何か他者の為に尽くしたことが誰からも評価されなくても、見えない神に向かってしているという心で行えば、くじけることはありません。なぜなら、神様がその善行を記録しておいてくださり、天国で「よくやったね」と、天での報酬が期待できるからです。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 」*2とあるとおりです。神様に対してするように、目の前の人に、どんなに小さいことでも、良いことを相手にしようと日々心がけたいと願います。まずは、日々出会う人たちに優しい言葉をかけたり、ドアをおさえて「お先にどうぞ」と譲ることなどから、始められるのではないでしょうか。

 

   「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 」マラキ書3章16節

 

 *1箴言1章7節
 *2ガラテヤ人への手紙6章9節
 (聖書引用、口語訳聖書)
   

 


Oct. 28, 2019

 即位の礼と政教分離

 

 

  10月22日に新天皇の即位の礼が行われました。ある日本のキリスト教信者の方々とグループは、「大嘗祭」 を「皇室神道に基づく宗教的儀式」とみなして、これに公金を支出することは政教分離原則を空文化 し、また信仰の自由を脅かす憲法違反(憲法20条、憲法89条)として、反対の声明文を出しているそうです。以前、皇室内(秋篠宮様)からもこの件について異論が唱えられたのは、耳に新しいと思います。過去、平成の即位の礼の時、クリスチャンだけではなく、外国籍者を含めた約1700人の納税者が大阪地方裁判所に、「税金を、憲法違反の即位の礼・大嘗祭に使うべきでない」と訴訟を起こしたということもありました。*1

 

  私は、クリスチャンとしてこの件についてもし他者から意見を求められたら、下記の聖書の箇所を引用して、私は政治的なことに対して積極的活動はしないことを説明するでしょう。ここでこの手紙を書いたパウロが言っている「上に立つ権威」とは全ての政府のことも含み、それらが神様によって権威が立てられているので、たとえその政治家が悪い者であっても逆らわないということです。実際、パウロの時代のローマ皇帝ネロは残虐なクリスチャン迫害政策を取り、パウロも彼によって死刑にされたと伝えられています。しかし、パウロはそのネロを念頭においてこの言葉「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。 」を言っています。また「したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。 」*2と続いて書かれてあります。しかし、この聖書の教えは、悪政や酷いことをする者たちを神が認可しているという意味ではありません。なぜなら、神様は正義と平和、愛の神であるからです。そして、悪い者が悔い改めない限り、いつか神がその者裁かれるので、私達が復讐をしなくても、また自身が他者により不利益を被り、悔しい思いをしようとも、全て神に任せなさいと聖書に書かれているからです。*3

 

 神であるイエス・キリストが、人となられ2千年前にイスラエルの国で宣教活動をされていた時、当時のローマ帝国の圧政下にありました。その政府に対して彼は何をしたか、またどう対応するように弟子たちに教えたか?そして、弟子たちがイエスの福音をローマ帝国内に宣教し、クリスチャンは増え、皇帝崇拝をしないと激しい迫害に会いましたが、その時、彼らは政府と戦ったでしょうか?信仰の自由を訴えて訴訟を起こし、デモ活動や武力行使をしたでしょうか?いえ、しませんでした。なぜなら、イエスの教えは「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 」*4であり、イエスご自身も、何の罪ないのに逮捕され、不当な裁判に架けられて十字架刑に処せられましたが、一言も無罪を訴えて戦うことをされませんでした。

 

  一方、キリストを信じる信仰を捨てなさいという命令、また人を殺したり、盗んだリ等の教えに反する違法行為の命令を上からされたら、もちろん断ります。それが出来なければその属している組織を去るしかないでしょう。この「上に立つ権威に従う」とは、キリストを信じる信仰が大前提であるので、そのキリストの教えを破るように命令されたら拒否すべきです。ただ、自分の権利を主張して自ら裁判に訴えたり(相手から訴えられたら、自分の立場を信仰に従って弁明しますが)、政治的行動にでたり、ましてや武力にはでません。イエス様は「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 」と言われ、イエスを守ろうとして剣で戦おうとした弟子を止めたからです*5。もちろん、正義のために政治活動をしている人を批判するつもりはありません。そのことは、「その人と神さま」の間のことです。私は聖書のことばに従い、またイエスの教えに忠実に従った初代の使徒やクリスチャンたちの態度を可能な限り踏襲していきたいと思うのです。

 

  もし政府から「信仰を捨てなければ殺す」と言われたら、逃げるか、隠れるか、見っかったら踏み絵を踏んでしまうかもしれない、私はそんな弱い者です。その時になったらどうなるかわかりません。しかし、神様を信じて行動したいと思います。いずれにしても、この世にいる限りキリストを信じる者は迫害されると予めイエスは言われていますし、どの時代であれ、どの国に置かれようとも、いつでも神を信じる者に対しての環境は厳しいものです。しかし、同時にイエスの力強い励ましのことばがその予告の後に続くので、それが「その時」がきたら私の恐れを取り除いてくれると信じます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 *6 宗教的迫害だけでなく、人生のどんな困難な局面にあっても、キリストが与える平安さえ心にあれば、キリストがすでに勝利しているので、私もキリストにあって悪から守られ、「自分の敵」に対して祈れる者になれるよう、「善を持って悪に勝つこと」*7ができるよう、神様の力で助けて頂きたいと願います。

 

  「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。 」ローマ人への手紙13章1節

 

 *1 即位礼・大嘗祭国費支出差止等請求事件
 *2 ローマ人への手紙13章2節
 *3 ローマ人への手紙12章18-21節 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
   *4 マタイによる福音書5章44節
   *5 マタイによる福音書26章51-52節

 *6 ヨハネによる福音書16章33節
 *7 ローマ人への手紙12章21節
   

 


Oct. 20, 2019

 「致しかねます!」への反応を乗り越えて

 

 

  私は実は、カスタマーセンターの方と話すのが苦手です。たいがい、イライラしてしてしまうからです。その理由は、電話が繋がるまで長時間待たされた上に、あまりにも仕事が分業されていて問い合わせたいことがたらい回しにされ、その担当以外のことはいっさい「致しかねます」という対応が多いからです。制度上仕方がないことですので、なかなか一回で対応してもらえなくとも穏やかにやりとりをせねばと、ぐっと感情を抑えています。一方、こちらが何もしているつもりがなくても、(相手にとっては主観でそうとるので仕方がありませんが)自分の態度や言動を悪くとられたり、誤解されたりすることもあります。しかし、これも忍耐し、反論したいことがあっても抑え、最低限伝えなければならないことを柔らかい口調で説明しようと努めなければ、更に相手との関係が悪化する可能性があります。

 

  人間というのは、お互い自分の主観で物事を受けとめ、互に相手の立場を考えないことが多いため、自分の思う通りにならない他者と共存する社会に生きています。また、片方が利益を得れば、もう片方が損をする経済システムの中で生きています。ですから社会生活をしていく上で、理不尽なこと、我慢しなければならないことが日々あるのはノーマルなことで、ある意味それが、社会性を身につけるということでしょう。社会には様々な考え方の人がいること、そして自分の思う通りに事が進まないということを経験していくことで、忍耐力・適応力・柔軟な心も養われていくかもしれません。現代は、インスタントにすべての事が進む社会。しかし、それを”当たり前”に思っては、結局、自分の短気によって損気を引き起こすわけです。と理論上ではわかっているのですが、私の課題は、「致しかねます!」という言葉にぴくっと反応してしまうところでしょうか(笑)。

 

  聖書(書かれた時代も広く、幾つかの書簡から構成されています)の中に、歴史的書簡の部分には、人間が過去してきた目を覆いたくなるような残虐な戦争等についてもそのまま記されています。また、その他の書簡でも現代と変わらない人間関係のもつれや殺人、嫉妬、いさかいが、神が選んだ民族の間で、またキリストを信じた信徒たちの間でもあったことが正直に書かれています。だから、信徒たちあてに書いた書簡の中で、使徒のパウロはキリストの愛に倣うようにと忍耐を持って諭し、時にはいさめることもあります。そして、自分が置かれている社会の中で、怠けないで働き(当時、もうキリストが再び戻って来るから、働かなくてよいという信徒がいた為)、互いに愛し合いなさい、互いに相手が自分より優れていると思いなさい、謙遜になり、仕え会えなさい等と具体的に勧めています。下記の箇所も全ての人と平和に過ごすようにと、信徒に向けて勧めています。つまり、クリスチャン、つまりキリストを信じて礼拝していても、個人の人間関係では争いをしている人が当時いたから、そう書いたのでしょう。そして、現代もしかり。クリスチャンも、失敗もし、人を傷つけ、争ったりすることがあります。完璧な聖人はいません。すると、クリスチャンになった人と信じていない人との違いは何でしょうか?

 

  それは、神様への悔い改めと赦しの有無という点でしょう。キリストを信じていない方々は、自分の善悪の基準と主観で物事を判断し、行動し、人付き合いをしますから、自分が基準であり、人それぞれ異なり相対的です。また人には良心というものがありますが、その良心も個々人によって感じ方が異なります。すると「これくらいいいではないか、皆していることだ」、もしくは「相手が悪いから仕方がない」と開きなおってそのまま続け、反省はすることがあっても繰り返す可能性があります。その価値基準ですと、相対的な自分の中での合理化処理となりますが、そこには神に対しての悔い改めという概念はなく、その赦しも不在ですので、誰かの赦しがないと負い目や責罪感が残るかもしれません。一方、キリストを信じる者は、聖書に書かれている神の基準に基づいて、神に対して悔いて改めますと祈り、赦しを受け取って、新たに仕切り直すことができます。なぜそうするかというと、今は、キリストが自分の命を犠牲にして迄私を愛してくれていることを信じたので、その大きな愛に感謝して、私なりにどう応答できるかと考えると、キリストが言われたことに従い、キリストに倣うことだと決めているからです。私は失敗も多いですが、すぐに神様に悔い改めるようにし、また、謝るべき相手がいればすぐに謝るようにしています。たとえ自分だけに責めるべきところがなく、他に責任転嫁できる要因があろうとも、謝ります。そして、相手がそれを赦してくれるかどうかは、相手の問題ですので、それ以上は神様に任せることにしています。そして同じ過ちを繰り返さないように、神様に祈ります。

 

  「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」*1 また「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。」*2 イエス・キリストはこう言われています ここでのあわれみ深いとは、相手を赦す心を持つ事だそうです。そもそも、自分自身が神様に赦されたという自覚があると、自ずと自分も赦してもらったのだから、相手を赦したくなくとも、赦せるように神様に心を変えて下さいと祈り、相手のしたことを裁くのは神様に任せようと思えるのでしょう。

 

  全ての人と完全に平和に過ごすことは無理です。だからこそ、パウロも「せめて」(if possible (英訳), ”可能な限り”とも訳せる)という言葉を使っているのが、有難いです。相手方が戦いを仕掛けてきた場合、それをどう平和的に交わすか。このパウロの勧めは、何もあたりさわりもなく避けて、和解に努めようともしないという態度のことではなく、平和を保つよう自分のなすべきことはするという行動を伴う、強い言葉(原語のギリシャ語)だそうです。それでも、関係の修復、和解を相手が拒否する、もしくは相手が悪を、戦いを続けるのであれば、相手のことを神様に委ね、自分は苦い思いを相手にもたず、時には距離や時間を置くことも必要となるかもしれません。後になって、和解ができるかもしれません。それも祈りつつ、平和の心、相手を裁かない心を神様から与えられたいと願います。

 

 「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ローマ人への手紙12章18節

 

   *1マタイによる福音書5章7節

   

 *2 「あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である」 イザヤ書43篇1-3節

   


 


Oct. 14, 2019

 2019台風19号

 

 

 今回の台風19号の被害は、事前に警戒態勢をしていたにもかかわらず、甚大な被害となりました。河川の決壊があちこちでおこり、街は浸水。多くの方々が亡くなり、行方不明者も未だ見っかっていません。私たちが住む栃木県も、川沿いの地域は甚大な被害を受け、台風一過の日曜日に、何人かの方々と安否確認を互いにし合いました。たとえお互いが大丈夫であって「よかったですね」と言いつつも、他地域で被災されている方々のことを思うと、心が痛み、被害がこれ以上進まないよう、人々が守られるよう祈るばかりです。

 

 3.11の時に、SNS上で多くの海外から励ましのメッセージと支援が寄せられたように、今回も「#PrayForJapan#」(『日本に祈りを』)というハッシュタグが投稿されているそうです。日本のために、祈ってくれる海外の、知らない場所の人々がいるというのは、とても励まさ、慰められます。今回に関わらず、大きな災害がおこると、皆途方に暮れてしまいます。被災者ご自身たちにとって、目の前の必要に支援してくれる物資、人材はもちろん第一に必要で、それによって助けられ励まされると思います。一方、心の傷、悲しみを感じる暇もなく、生きるのに精いっぱいの精神状態に対しては、誰かに祈ってもらうこと、これが目に見えない行動で、あてにならないと思われるかもしれませんが、大切だと思います。なぜなら、信仰を持って祈る祈りは、必ず聞かれ、また聖書にこのように約束が書かれているからです。

 

 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節

 

 この言葉は、平穏無事な時に与えられた言葉ではありません。この言葉は、エレミヤという預言者に、神様が与えた預言のことばで、当時、ユダヤ人は国をバビロニア帝国に破壊され征服され、捕囚の身となって他国に移住させられ、苦しめられていた時の言葉です。捕らわれの身となり、絶望的な状況の時に、「70年たったら元住んでいた国に戻れる」、と具体的に神様が約束され、実際、それが歴史的にも起こりました。バビロニア帝国はこの後ペルシャ帝国に滅ぼされ、そのペルシャ帝国の王がユダヤ民族をエルサレムに帰還することを許可したのです。

 

 この言葉は、当時のユダヤ人にだけ当てはまるものではなく、現代に生きている私たちすべてにも適応できるというのが、聖書のことばの素晴らしいところです。つまり、信じて、祈りを捧げている神様は、過去の神、一民族だけの神ではなく、今も生きておられる本当の神だから、この約束が私たち日本人にも適応される、というのが大きな励ましです。

 

  「家はこんなになってしまい、家族も失い、もう何の望みもないよ。」という状況にある時こそ、神様がエレミヤを通して語られた「あなたの人生は将来と希望に満ちたものだ」という約束を、自分のものとして受け取り、信じることをお勧めします。破壊の後には、必ず回復があります。無秩序な状態はいつまでも続きません。なぜなら神様ご自身が平和の神だからです*1。もちろんインスタントには事は進まないかもしれませんが、これから色々な扉が開かれ、助けが与えられていくでしょう。今日、この聖書の言葉はあなたのためにも用意されている言葉です。

 

 また、神様が一人一人に与えられているという、将来の計画と言われても、今すぐに具体的にわからないし、検討もつかないかもしれません。もしかしたら、後になって振り返ると見えてくるものかもしれません。それでも神様が将来良くして下さるという希望と、それに伴う神様が与えられる平安を持ちつつ、復旧を祈り続けます。では、なぜ神様が、私たちにこのような約束を与えてくれるのかという理由は、神様が私たちをそもそも計画を持って命を与え、人として生きるように創られたからです。制作者は自分の創ったものを大切にするように、神様はそれをはるかに超えた次元で私たち人間を大切に見てくれています。だから、必ずどんな大水が襲ってきても、大火が迫ってきても、守られるという、安心のことばも、私たちに与えられている言葉です*2。 これらを受け取りつつ、私たちを愛してくれている神様を信じて、様々な困難な状況がありますが、前に進んで行きましょう。

 

 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節

 

   *1「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。 」第一コリント人への手紙14章33節 

   

 *2 「あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である」 イザヤ書43篇1-3節

   


 


Oct. 8, 2019

 こころを満たす生きた水

 

 

 「私、死にたい」「一緒に死のう」こんな言葉が10代のお子さんの口から出たら、それを聞いた親はショックです。詳しい内容は言えませんが、先日ある人の子どもが、その子の同級生の口からこのような言葉を聞いて、驚いてその人に伝えたそうです。そして、その方はその同級生の親を訪問して、子供の状況を知らせたそうです。案の定、相手の親は何も知らず、何か問題があることに気がつかなかったと。このようにまだ、口に出して他者に言えれば未然に止められるものの、何も言わずに、相談することもできず、自ら命を絶ってしまう子ども達もいるという現実に、本当になんとかならないのかと胸が痛みます。

 

 子ども達(大人も)は、自分が何で悩んでいるのか、何が問題なのかさえわからずに、そして何かサインは出ていても、解決方法を知らず過ごしてしまう、というケースがほとんどではないでしょうか。そこに相談できる親、お兄さん、お姉さん、カウンセラー等と話す機会があれば、その子たちは幸せです。しかし、相談する人がいたとしても、自らそこまでたどり着けない子供もいるでしょう。自分自身の10代を振り返ると、まさに心の中に不安定なものを抱えていましたが、それを親や他人相談することなく、表面にださず、よって色々心身に支障がでたものです。一方で、死のうと思ったことはありませんでした。おそらく、小さい頃から親に教会に連れていかれ、神様がいて、人間を創ったことをシンプルに信じていたので、よって自らの命を絶つことは「してはいけないこと」だと無意識に思っていたのかもしれません。しかし、神様が単にいて、困った時は助けてくれるということだけでは、自分の問題を解決する存在としては結び付かず、虚しい思いのまま、社会人を続けたものです。大人になってもその心の深いところにある、満たされない思いは続いていました。そう、ある方に出逢うまで。。。

 

 昔、ある村に、一人の孤独な女性がいました。彼女は様々な理由で結婚を5回し、6回目は相手と同棲をしていました。よって、その小さな村の中では、人から白い目でみられ、女性たちのコミュニティーから仲間外れにされていたので、水道のなかった時代、ひと目をさけて、日中の暑い最中に町はずれにある井戸に水を汲みにいっていました。するとそこへ、旅の途中の一人の男性が現れ、彼女に声をかけます。「水を飲ませてほしい」と。この見知らぬ男性はそこから少しづつ彼女と会話をかわしていき、彼女が抱えている問題、真の必要を引き出します。彼女のことを知らないはずのその男性は、彼女の心の深い部分での飢え渇き、そして絶望しながらも救いを求めていることを、自覚させていきます。そして、彼は彼女に飲んだらなくなる水ではなく、なくならない「生きた水」を与えることができると話されます。彼女は結婚に対して、社会に対して、人生に対して満たされない虚しさを持ち、また地域から疎外され、寂しさ、悲しさを抱えていた。この女性は自分を満たしてくれる「本当の愛」を求めていても得られずに、その心の渇き、虚しさに蓋をしたまま、とりあえず生きる為に水は汲みに行き続けていた。しかし、その蓋を開けてしまった男性がいた。しかも、彼女の心の渇きを満たしてくれる人が、その男性であり、生きた水であった。そして彼女の先祖が信じて来た神が送った、メシヤ:救い主が、その目の前の男性だと知らされた。彼女はその救い主と出会い、信じて、ようやく心が満たされ、人生が180度変わり、この喜びを村の人々に大胆に伝えたのである。それを聞いた村の人々は、彼女の言葉に耳を傾け、その救い主を村に向かい入れ、また信じた。

 

 この話は、聖書に記されているイエス・キリストの話です*1。イエスは、特にこのような社会から疎外されている人々、絶望している人々や、病いを患い治る希望もなく、様々な問題に縛らている人々のところに直接行かれ、癒やし、寄り添われ、救いを与えられました。このイエスご自身こそが、私たち人間の心の飢え渇きを満たせる方、救い主であるということは、2千年前も、現代も、そして将来も変わらないのです。人は誰でも、物資的充足感だけでなく、存在を認められているという承認欲求、愛されているという安心感により、心が満たされることを求めます。そしてそれが完全に満たされないという虚しさを抱え、他のことで紛らわすことができなくなると、生き続けることさえ辛く思うのではないでしょうか。だからこそ、私自身もそうでしたが、心を満たし続け、その喜びが泉のようにふつふつと湧き出つづける、永遠の命へとつながる、生きた水であるイエスに出逢う必要があります。イエスはいつでも求めている者に、聖書のことばを通して、信じている人を通して現れて下さります。イエスはご自分の命を十字架で犠牲にしてまでも、私の神に背をむけていたという根源的な罪を赦すため、絶望に捕らわれた状態から解放するために、救い主として来て下さったことを、神様に心から感謝しすることができます。この救いの喜びがある限り、人生にどんな困難が起こっても(この世に生きている限り問題フリーではないので)、共にいて、助けて下さるという安心感に支えられています。

 

 「人間のこころには空洞がある。」そ空洞のゆえに人は空しさを覚えそれを満たそうとして地位や名声、学歴や財産、お金や快楽などをはめ込もうとする。しかし、どれをどれだけ入れても、ピッタリする物はなく、むなしくなる。「そのこころの空洞は、神様のかたちをした空洞であり、神様しかぴったりと満たすことはできない。」と。 パスカルという人がその著書 「パンセ」に記しています*2。こころの空洞をキリストにあって、神様に埋めてもらえることを、多くの人に知ってほしいと祈り続けます。様々なことが起こっても、主の愛に支えられ、心のうちに喜びが湧き、全てのことに神様に感謝して日々過ごしていきたいと、願いつつ。

 

 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」 ヨハネによる福音書4章1-42節

 

   *1イエスとサマリヤの女  ヨハネによる福音書4章1-42節

   

 *2 ブレーズ・パスカル(1623年生)- フランスの数学者・物理学者・哲学者、キリスト教神学者、発明家、実業家 。『パンセ』(仏:Pensees)は、晩年思いついた事を書き留めた記述を、彼の死後に遺族などが編纂し刊行した遺著。 ちなみに、天気予報で用いられる気圧の単位「ヘクトパスカル」 も、パスカルが大気の圧力の研究をしたことからきている。

   


 


Oct. 1, 2019

 何によって心を強くするのか

 

 

 「これを食べればガンにならない!?」毎日のように、TVでは健康に関するバラエティ番組、特集が放映されていますが、情報が多すぎてわからなくならないでしょうか。少なくとも「これだけ食べれば大丈夫」という情報は信憑性が疑われます。結局、バランス良く、なるべく自然に近いものを食べ、適度に運動し、ストレスをかけないようにすれば、病気の予防となるかもしれません。しかし実際、現代社会に生きる限りそうできないからこそ、皆が情報を求め続け、とにかく試してみるのでしょう。

 

 食べ物といえば、日本ではあまり見られない光景ですが、伝統的ユダヤ人たちは独特の食物規定を持って生活しています。欧米では、彼らはユダヤ人街を作り、彼ら独自の生活しています。彼らは、他者と変わらぬ文明と教育を利用していますが、それでも数千年もの間、彼らの法律(律法)を守って生活しています。例えば、服装、髪型も独特ですし、毎年お祭りと儀式を守り、食物規定(食べて良い物と悪い物)に従い、安息日(働かない日、土曜日)を守っています。豚肉、甲殻類、うなぎ系、チーズバーガーも食べられません。もちろん、血筋はユダヤ人でも、一般人と同じ生活スタイルをしているユダヤ人も世界各国大勢います。しかし、この生活・宗教スタイルが彼らのアイデンティティーであり、そして迫害を受けながらも、数千年にわたり各国に散らされても、人種を保ち続けてこられた「強さ」なのかもしれません。

 

 ユダヤ人はこの律法と伝統を守ることが、彼らの信じる神の前で正しく、天国へ行けると信じています。つまり、全て自分たちの”行い”にかかっています。2千年前に、イエス・キリストはご自身もユダヤ人として生まれて、30歳位まで一般市民と変わらない生活してきていましたが、宣教活動を始められて、神の国の福音を宣べ伝えられた時、この律法を人々が守ることを監視していた宗教家達と対立しました。なぜなら、宗教家たちは心を伴わない形骸化した儀式を神に捧げて敬虔ぶり、生活の細部に亘る細かい律法を作り守るよう人々に重荷をかけ、憐みや慈愛もなく守れない人を罰し、守れない人々を罪人として、社会から村八分にしていました。こうして神様が本来与えた掟の趣旨から離れ、人の命よりも、法律を守ることを優先していたので、イエスはその偽善をつくため、あえて安息日に病人を奇跡で癒されたのです。

 

 イエスは彼らを単に責めるためではなく、彼らがその偽善に気づき、悔い改めて、神様に立ち返ってほしいと、また法律を守るという「行い」では救われない、神様が救い主として送ったご自分を「信じることが救い」であることを伝えたかったのです。しかし、ほとんどのユダヤ人の宗教家の心は頑なで、自分たちの地位を脅かすイエスを憎み、拒み、十字架につけました。ところが、神様はこのユダヤ人の頑なささえもご自分の計画に用いられました。つまり、イエスが十字架にかかり、全人類の罪を負って身代わりに罰せられる、復活するというのが、神様の救いの計画でした。そして、ユダヤ人も、いつか救い主があのイエスだったと分かり、信じて救われる日が来ると、聖書に預言が記されています。*1

 

 現代において、ユダヤ人以外の間でも似た現象が見られないでしょうか。「これこれをすれば、大丈夫」「これこれをしないと、成功しません」と、行いの有無でその人の価値が決められてしまう。また、元来は人を守るために作られた法律も、いつのまにかて形骸化し、人の命が、人の尊厳が損なわれても、法律順守が優先されしまうこともあります。様々な情報が飛び交い、何が良いことなのか見極めるのが難しい時代です。よって自分で自分の心を強くし、何かをすることで、自分を守らなければならない社会であり、それが出来ない弱い人々は自信をなくす、卑屈になる、ある人は心を病んでしまいます。

 

 しかし、その神様からの最大の恵:キリストを受け取れば(信じれば)、さらに恵に恵みが加えられます。なぜなら、今迄、当たり前に思っていたことや、自分の才能、能力、家族、自分で得た地位、資産さえも、神様が恵みとして与えて下さったことだと思えて、神様に感謝できるように変えられるからです。すると、傲慢だった自分に気がつき、謙遜にさせられます。一方元来謙遜な方は、自分のおかげではなく「皆様のおかげ」だと言われるでしょう。それはそれで良い考えですが、神様の恵を知る者にとっては「皆様のおかげ」ではなく、全て「神様のおかげ」です。つまりその「皆様」から与えられる支援、助けさえも、神様がそのような人々を周りに置いて下さった、神様の恵みと考えるからです。このようにして、恵みがわかると全ての見方も変わり、恵が増し加えられ、様々な状況に対しても、神様が支えて下さるという信頼感が与えられ、心が強められます。

 

   キリストを信じる時は、自分がふさわしくない、資格がない者だと気がついた時です。なぜなら、自分が結構いけてると思う人は、「自分自身で充分足りてます、キリストに赦してもらう罪もないし、自分の人生、自分次第だ」と考え、キリストの救いは必要としないからです。恩恵は受けたいけど、自分の罪を認めたくない。神にコントロールされたくない、自分で生きる!、そのように強く生きられる人は自分の意志である程度強くなれますが、限界があるでしょう。もしかしたら、そんな強い人でもあることが起こって、自分の限界を感じた時が、キリストを求めるチャンスかもしれません。実は信じられること自体も、神様の恵だからです*2。私は、一人でも多くの人が、シンプルに、キリストという神の恵を受け取られ、恵みによって心を強くされてほしいと願います。日々神様に感謝し、キリストにあって周りの人々にも感謝しつつ。。。

   

 「さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 」ヘブライ人への手紙13章9節

   

   

 *1 「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」ゼカリヤ書12章10節

   

 *2 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ人への手紙2章8節 (聖書引用、口語訳聖書)

   


 


Sep. 27, 2019

 小さな教会であっても:益子町にある教会

 

 

 私の夫は、栃木県内の同じ教派の中で人数的に一番大きい教会(西那須野)の副牧師と、一番小さい教会(益子)の主任牧師の二つを牧会しています*1。この二つの教会が地理的に離れているため、どうしても片方に在住し、そこでの働きが主になってしまい、両立が難しいのが現実です。益子教会は、以前は信徒がいましたが、高齢化などで次世代が続かず、夫がそこへ就任する以前から建物だけあっても信徒も専任牧師も不在の状態でした。現在は私たち夫婦と他教会の信徒の方数名とで、土曜日に礼拝だけを行い、日曜日の西那須野教会の礼拝のためにとんぼ返りをしている状況です。一方、陰で多くの方が益子のために祈り、献金してきて下さり、ご自分達の教会の働きがあるのに関わらず、土曜日に礼拝に来てお昼を毎週作ってきてくださる方などに支えられています。つまり信徒数という目に見える人数では測れない、多くの方々の働きによって、この小さな益子教会が支えられているのは、奇跡であり、神様の恵だと思います。これが法人や団体だったら、当の昔に合併されていることでしょう。

 

 キリスト教の教会では、各自が様々な働きを分担して教会が運営されています。各々の能力、才能の応じて、事務的な仕事、運営管理、広報、礼拝での奏楽、聖歌隊、受付、バイリンガル礼拝のあるところは通訳等、たくさんの奉仕があります。人数が少ない教会では、一人の人が何役もこなさなければならず忙しいですが、大概、それなりにアットホームな教会として和気あいあいとやっているところもあるでしょう。一方、規模の大きい教会ですと、牧師もしくは役員会をトップにした組織が形成され、まるで企業のように見えるかもしれません。しかし、教会と企業やNGOなど世の中の集合体とは根本的に異なる点がいくつかあります。

 

 一番の大きな違いは、教会は目に見えない、イエス・キリストを中心として稼働していて、目に見えない神の霊(聖霊)の導きに従って教会は何事でも決断したり、活動していることで、教会活動の中心は神様への礼拝です。また教会は建物ではなく、キリストを信じる人の集合体であり、教会堂は確かに場所的に礼拝の場、祈りの場ですが、たとえ教会堂でなくとも、どこでも地上で二人または三人、キリストの名に集まって、どんな願い事であれ、心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださるし、その集まるところには、キリストもその中にいると、キリストは言われています。*2そして、教会の中で、一人一人の信仰に応じて、奉仕の役割が与えられ、皆で協力して、互いに助け合い、意見の違いがあっても理解し合い、忍耐しあって、全て神様のために行うのが本来の教会の麗しい在り方でしょう。しかし、現実はなかなかそう麗しくいかず、問題があるから、教会が歴史的に国家権力と一緒になり悲しい戦争を起こして来たのも事実ですし、また聖書理解の違いなどから教派が分裂しと、キリスト教の教会全体が一致できていないのが現状です。齡ヤ悲しんでいるのは、キリストだと思います。なぜならご自分の体の中で、あたかも免疫疾患のように、免疫系が自己の細胞を異物として攻撃してしまうかのようなだからです。

 

 教会はキリストの体だと使徒パウロは例えています。*3人間の体はたくさんの器官から成り立ち、それぞれが異なる役割を持ち、人が生きるために一つの体として機能していて、その司令塔は脳です。よって、キリストがその体である教会の頭だと例えています。*4また、目は手にむかって、「おまえはいらない」とは 言えないように、教会もキリストという司令塔に従って、それぞれの信徒が働き、互いに必要で、一つの体です。ですから、皆が同じ機能を持つわけではないし、神様がそのために各々に才能や霊的な賜物(ギフト)を与えています。たとえある人が、目に目える活動をしてないとしても、不必要な器官が体にないように、その人は実は大事な役割をしているのです。人間側がどう組織しようとも、規則を作ろうとも、キリストにとって、全ての教会がキリストの体として一つになってほしいと願われ、そのように天の神様にイエス・キリストが祈っています。*5

 

 益子教会は小さな弱い教会ですが、この教会がキリストの体として、いつか礼拝に多くの人が参加するようになり、皆で喜んで賛美を歌い礼拝を捧げる場となる、礼拝がない日でもあの場所にいったら、楽しくお茶とお菓子をつまみながら和める場所、信仰をもっていなくても、自分の居場所として来てくれる方が集う、そのような地域に開かれた教会になれば。。。このような将来のビジョンをキリストにあって持ち、今出来る事を祈って準備していきたいと、夫と話しています。必ず、神様がここに集う人を送って下さると信じて。

 

 ☆益子教会HP: https://mashikochurch.localinfo.jp/

 

 「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 」ローマ人への手紙12章6-8節

   

   

   

 *1 日本基督教団というキリスト教の教派の中での、教会員数において。

   

 *2 「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 マタイによる福音書18章19-20節

   

 *3 「ちょうど、体がひとつでも、それに多くの部分があり、体の部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストのそれと同様です。」第一コリント人への手紙12章12節

   

 *4「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 」 エペソ人への手紙1章22−23節

   

 *5「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」 ヨハネによる福音書17章20-21節 (聖書引用、口語訳聖書)
 


Sep. 18, 2019

 「ちっちゃいこえ」 :「原爆の図」よりアメリカ人が作った紙芝居を通して

 

 

 日本が受けた原爆の被害を次の世代に伝える方法はたくさんあります。一つ一つの媒体があまりにも衝撃的で、それらを見る度私は嗚咽と涙を隠せません。戦争や原爆の被害という目を覆いたくなるような事実を伝えることは、これらが二度とあってはならないということを伝えることです。このことを次の世代、小さい子どもたちへ、どの媒体で伝えたらよいかと考えていると、紙芝居という方法に出逢えました。先日、「ちっちゃいこえ」*1という「原爆の図」*2の絵を用いた紙芝居を原爆の図 丸木美術館を訪れた時に折しも手に入れることができました。表紙は猫の絵。ちっちゃいこえとは、細胞が出している命のひびき。あの日、広島の生き物すべてにふりかかったことを題材にしています。

 

 この紙芝居の作成者(脚本家)がアメリカ人の詩人というのも興味深かったのです。今回教会の研修会で訪れた丸木美術館では、私は消化しきれない程多くのことを知り、またその絵が訴えるメッセージ性の強さに圧倒されました。 丸木夫妻の描いた原爆の図には、現実の丸焦げの死体やケロイドを負った人々が描かれていません。むしろ、裸体の子供・大人が綺麗に描かれています。ただ、かれらの目と、全体的な構図が、嘆き、苦しみ、絶望、生と死を訴えていて、ある意味絵画という表現の方が、リアルな写真よりも深く考えさせる手法ではと思わされます。原爆というテーマだけにとどまらず、歴史上の人間のしてきたことの酷さを描くことを通して、芸術家丸木夫妻は、命の大切さを表現したかったのだろうと、その学芸員の方が解説されていました。

 

 被害者と加害者。私は、原爆の図を通して、この二つをどちらかの国に当てはめることが実はできないという事実、くっきり分けられない局面があることを認識しました。誰が悪い、良いという議論ではなく、この原爆自体が、虐殺が、戦争が、人としてあってはならないことだと捉える必要があります。しかし、歴史は繰り返します。人間という生き物の罪深さを思い知らされます。その罪から抜け出せないのは、神を畏れないことが根本的原因であると私は信じます。多くの人は神の存在を否定し、もしくは人間に都合よい偶像の神々を気休めに作って利用し、人間中心の世界に生きているのではないでしょうか。聖書によると、人はもともとは神の形に似せて作られた良い被造物でした*3。しかし、最初の人間が神から離れ、罪の性質がもたらされ、その後の人類は全て生まれながらにして、その性質:原罪を持ち、よって自分中心にしか考えられない者、神を信じない者になってしまったのです。*4

 

 しかし神様はそこで終わらせません。最初の人間が犯した失敗を、最後の人間として神様から送られた神の子である、キリストが、全てを回復するためにこの世に来られたのです。キリストは、全ての人がその罪から解放され、救われるために、人類全ての罪の罰を十字架上の死を持って代わりに負われました。一人ひとりの命を創られた神様は、その命を大切に思い、その命を救うために、ご自分の御子の命を犠牲にして下さいました。そして、3日後に復活され、天の神様のところに戻られ、今も私たち一人一人の”ちっちゃいこえ”を聞いて下さっています。そして、神様は私たちの地上での新しい歩みを助けるために、聖霊という神の霊を信じる者に与えて下さっていることは、何という励まし・慰めでしょうか。

 

 私は以前、自分を含めた人間の限界や悪、繰り返す戦争、命が軽んじられるという不条理な事件に出会う度、ただ心を痛め、怒り、やるせない思いでいました。親がクリスチャンでしたので、小さい時に良いこととして聖書の知識を与えられましたが、自分の深いところにある罪を自分の力で治めることが出来ませんでした。自分の力や教育、訓練だけでは良い人間になれないこと、したいと思うことをできない、したくないことをしてしまう、そんな情けない自分に絶望していたものです。そしてどうしたらよいのか悩み、紆余曲折して、やっと大人になって、この自分の罪の性質から救うのはキリストしかいないと、キリストを信じる信仰に導かれたのです。それ以来、くり返し起こる悲しい事件に対して、単にやるせない思いにとどまらず、もしくは恐れて逃げる、耳をふさぐのではなく、神様がいつかこのことを正義と公平を持って扱って下さると神様に委ねています。これは、全ては神様にあって解決方法・摂理があるという希望を持つ事ができるように変えられたからであり、本当に感謝なことです。このキリストに在る平和が個々人の内側に与えられるよう祈りたいと思います。また、自分自身の内側から罪が出てきた時に、神様の前にその都度持って行き、ごめんなさいと告白して赦しを頂き、聖霊の導きにより、日々主と共に歩んでいきたいと願います。

 

 

 「主(イエス・キリスト)は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」 ローマ人への手紙4章25節〜5章2節 、()は筆者の追記

   

   

   

 * 1 「ちっちゃいこえ」いのちのひびきに耳をすます紙芝居 脚本 アーサー・ビナード、絵 丸木俊・丸木位里 「原爆の図」より

   

 *2 丸木位里・丸木俊 「原爆の図」シリーズ、原爆の図 丸木美術館所蔵、埼玉県東松山市

   

 *3 「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 」創世記1章26、31節

   

 *4「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。 」ローマ人への手紙5章12節 (引用、口語訳聖書)

   

 
 


Sep. 17, 2019

 差し出された手:依存からの解放

 

 

  先日テレビで、ある医師の方の活動について観ました。その方は、ご自分のお母さんが薬物依存で苦しんでいたのを見て、ご自分はそういう様々な依存症、中毒に苦しんでいる人々に寄り添いたいという思いで医者になったこと、様々な医師としての経験を経て、現在は刑務所での矯正医療(受刑者を観る医師)として働かれているそうです。その方が依存症の治療について、こんなことをおっしゃっていました。「人が海で溺れそうになっていて、浮き輪にしがみついているとします。その浮き輪を他者が取ろうとしたら、その人はどうすると思いますか?その人は、余計その浮き輪を離さないでしがみつくでしょう。これは、何かに依存している人の状態です。しかし、もし他者がその浮き輪を取理上げると同時に、手を差し伸べ、これに捕まれば大丈夫なんだという、安心感を徐々に与えていけば、依存しているものを手放せるようになるでしょう。」では、その手とは何(誰)でしょうか。しかし多くの方がなかなか、「その手」を差し出されても、握れないでいるから、その状態から脱出できないのではないでしょうか。その家族も苦しい思いをしています。

 

  イエス・キリストは捕らわれた者を解放し、目が見えない人を見えるようにし、落胆している人に自由を得させ、神様の恵がきたことを知らせるために、この地上に遣わされたのだと、ご自分のミッションを述べられています*。これは物理的な状態だけでなく、精神的に何かに縛られ、盲目的にされ、希望がない、辛い思いをしている人々を神様の恵により自由にしようという意味でもあります。まさに、何かの依存・中毒から抜け出せない人、人や何かを恐れ内に閉じこもってしまっている人に、イエスは手を差し伸べて、「大丈夫だよ、私に頼りなさい、自由になれるから」と言われている様子が、聖書に約束されているのです。

 

  神様は愛するために、大切な存在として一人一人を創られたので、人が捕らわれて苦しんでいる状態を見て心を痛めておられ、なんとか救いたいと手を日々差し伸べています。宗教はお金を要求するかもしれませんが、本当の神は何も要求しません、すでに豊かで全能だから、人から何かしてもらう必要がないからです。一つだけ人に求めていることは、その神様の愛に応答する事、差し出す手を握ることです。人が差し出す手には限界があります。もちろん、神様は他の人を使って、様々な方法を使って、間接的にその人が捕らわれた状態から脱出するきっかけを与えて下さるでしょう。しかし、根本的にその人の心の飢え渇きを、ぽっかり空いた穴を埋めることができるのは、依存の代替物となりうる、趣味、善行、仕事、ボランティアそのものではなく、人知を超えた神様の豊かな愛、慰め、赦し、希望であると信じます。

 

  それを受け取るには、まず、キリストのところに行くこと。そして、自分は存在しているだけで神様の目には大切なことを知り、そのままの自分で行っても受け止めてくれるキリストの存在を信じていく。そして徐々に、自分は神様から離れ、自分中心に生きていたことを認め、神様の愛を知ることで、自分は自分の為に生きているのではないことを知って行く、すると、自ずと自分の抱えている問題(重荷)をキリストに祈って相談し、委ねていけるようになるでしょう。大切なことは、今迄の自己中心の人生(聖書ではそれを罪といいます)を悔い改め、キリストから学んでいくことです。キリストという愛に満ちた方から、その品性、考え方、生き方を聖書を通して知って行く。そうすれば、自分のことばかり考え、何かを恐れ、それから目を背ける為に依存していたものから解放されている、変えられている自分に気づきます。世の中の心理療法には、自己中心の自分を認め、悔い改めるという過程はありません。ただ、本人をありのままに受容し、依存に変わる代替物を探させようとするのですが、それが根本的な解決になるでしょうか。

 

  キリストのところには、そのまま(ありのまま)で行ってよいのです。しかし、キリストを信頼し、その愛を受け取れるようになると、心が変えられていくので、づっと「そのまま」ではないのです。必ず、変えられます。何かに捕らわれて苦しんでいた状態から、キリストの愛に包まれて喜びがある人生へと。

 

 

  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 マタイによる福音書11章28-29節

   

   

  * 「主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」 ルカによる福音書4章18節 (引用、口語訳聖書)

   

 
 


Sep. 2, 2019

 自問自答が宣言に変えられる時

 

   先週、一泊二日で湯河原という温泉がある街へ行った時のことです。その夜から大雨が降り続け、ホテルの傍の小さな川の水位があっという間に上がり、流木を含む濁流へと変貌、このまま溢れてしまうのではと恐れを感じました。翌日もこの雨は降り続け、帰りの電車に乗る際、この嵐で電車が止まるのではと思った程です。そして、無事に帰宅し夜のニュースを見ますと、この大雨で佐賀県の家々が浸水している映像が報道されていて、驚きました。被災された方々の苦悩を思い心が痛みます。災害大国、日本と言われる程、近年何十年に一度しか起きなかった災害が毎年のように起きているので、次は自分の住む地域に起こってもおかしくはありません。

 

  今日の聖書の箇所は、著者が現在の境遇を嘆き、神様に訴えている詩が祈りとなっているところです。この著者は、紀元前6世紀頃、自国(イスラエル)が他国(バビロニア帝国)に侵略され、バビロニア地方へ捕虜として連行され、 移住させられていました。彼らの元住んでいた街、エルサレムにあった神殿も含み、全てが破壊され、異国の地で捕囚の民として嘲られ、辛い日々を送っていたのです。しかし、イスラエルの民は、その嘆きを神様への祈りとして詩に記したので、詩編という形で聖書に残されています。

 

  詩編42編から43編は、もともとは一つの詩で、3つの部分に分かれているそうです。各区切りが、下記の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。…」で終わっています。3回同じフレーズが歌われていますが、この語調がその文脈で変化していきます。最初は、過去の良かった時代を思い出し、現状を憂い、自問自答的に、自分の魂に呟くような語調です。しかし、2回目、3回目と前向きに変えられていき、最後の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。」は、神様が助けくれるから大丈夫だと確信をもって宣言するかのような、神様への賛美になっています。

 

  これは、著者が神様に祈っている間に希望が与えられたことによります。その希望とは、「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き」(3節)とあるように、神様の光とまことがあれば、自分はこの状況を乗り越えられる、自分の力には限界があり、状況も変わらない、先行きが不透明であっても、神様の光とまことが自分を平安に導き、助け出されるという信仰が与えられ、希望がもてたのだと思います。その光とまこととは?イエス・キリストのことです。この祈りが記されてから数百年後、キリストは光として、まこと(真理)としてこの世に来られたからです*。それは、全ての人々を暗闇から光へ導くため、また当時の哲学者達を通しても、時代によってかわらない真理などないと語られ、絶望と諦めしかない状況に、変わらない真理として神の救いの福音をもたらすために来られました。この筆者は、この光と真理が、いつ来るのか、またどのように来るのか明確に示されていなくても、神様の霊によって示されてこの詩を書くように導かれたのだと信じます。

 

  どの時代でも、どの国でも、様々な環境により、苦難に会っている人々はうめいています。今、日本でも。その方々に必要な助けが与えられますように、そしてその支援は目に見える者を通して与えられるのですが、その背後に働かれている神様の光とまことを見出し、希望を持ってほしいと、願いつつ、特に今困難な状況にある人の為に祈っています。

 

 「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしは なおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」 詩編43編5節


 

 * 「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 」ヨハネ福音書12章46節、「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 』」ヨハネ福音書14章6節 (引用、口語訳聖書)

 

Aug. 17, 2019

  ゴスペルは熱いが、暑さを吹き飛ばす!

 

 

  栃木県の那須は避暑地として、以前は知られていましたが、ここ最近の気候の変動により、もはや暑さを避けられなくなってきたようです。私はこちらに住んで3年目ですが、今年は那須の山のエリアも湿度・気温共に高く、ましてや私たちが住む市街地は東京とほぼ変わりなく、寝室にエアコンのない我々は、寝苦しい夜を過ごしています。

 

  先日、私たちはこの暑い夜に、エアコンもないチャペルでのゴスペルの練習に参加しました。ミンゴス(みんなでゴスペルの略)というグループが毎週火曜日に、このアジア学院内のチャペルで練習を開催していますが、指揮者にリードのもとに暑さを吹き飛ばす勢いで、ゴスペルソング”The Lord is my rock”(主はわが岩)等を英語と日本語交互にを歌いました。一時間程でしたが、とても楽しかったですし、元気になります。また、このグループは誰でも歌いたい人は気軽に参加でき、アジア学院の学生等。様々の国の人がいて、国際色豊かです。ゴスペルソング自体は神様に捧げる賛美ですが、賛美をしている側にも力が与えられます。毎週来ている私たちの友人は、その日仕事でどんなに疲れていても、ここに来て歌うと、元気になって帰宅できると言ってます。

 

  ゴスペルの歌詞は、多くは聖書の詩編という詩の中から引用されています。たとえ、那須塩原がもはや避暑地でなくても、このミンゴスの練習場所は気温やエアコンに関係なく、まさに暑さを吹き飛ばせる場所であります。なぜなら、この詩編で歌われているように、神様ご自身が、どんな状況からも私たちが身を避けることができる岩であり、盾であり、救いだからです。私は様々な困難な状況に直面する時、神様に助けを祈って叫ぶと、必ず逃れの道、場所を備えて下さったということを今迄経験しているので、だからこそ、神様にありがとう!神様はすばらしい!と、心を込めて歌えるのです。そして、ゴスペルソングを歌った後は、しばらく頭の中で歌の余韻が流れ、益々神様の恵を感謝して、自身の心が引き上げられます。

 

  これからも、出来るだけ参加し、もっとたくさんのゴスペルソングが心に書きつけられて、いつも口ずさむことができたらと願います。日常生活で様々な事が起こります。心身ともに疲れ、心が引き下げられたり、不条理なニュースを見て「何故?」と心が痛んだり。。しかし、それらの気持ちを引きずらないで、下を向かず、目を挙げて、イエス・キリストに心を向けることはとても大切です。このことは現実逃避ではなく、気晴らしでもなく、逆に、これらの状況に向き合う為にも、心を強くし、励まされるため、キリストが救い主であること、またこの方にあって、どんな状況でも希望を持つ事ができるということを確認する必要があるからです。まさに、主は私の避け所、岩、盾、私の救い主です。

 

  日本各地、特に都市部では、ゴスペルのグループはいくつかあると思いますので、お勧めです。多くのグループはクリスチャンでない人も多く、単に歌うのが好きな方々が集まり、熱く歌っているそうです。ミンゴスの場合、今の季節、水分補給は必要なので、タンブラーかペットボトルを持参で。(今回うっかり忘れてしまいました。。)

 

 

  「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」 詩編18篇2節 

   

 

Aug. 3, 2019

 悪を憎んで人を憎まず

 

   今年も暑い8月が始まりました。日本では多くの平和のための行事が、各地で行われていると思います。私たちの教会でも毎年8月は平和月間として、今年も平和に関する講演を講師を招いて開催する予定(講演のタイトルは「平和の反対語は?」)で、また礼拝中には特に平和のための祈りを捧げています。さて平和の反対語はなんでしょうか。戦争、争い?

 

  「私は、日本に再び戦争をもたらそうとしているA総理は赦せないし、『悪を憎んで人を憎まず』と言われても難しいです!」先日の教会での聖書勉強会で、あるご婦人がこう発言されました。牧師がちょうど、聖書の箇所から「人を憎むのではなく、悪を憎む、つまりその人の背後にいる悪魔を憎み、人は憎む対象ではなく、愛する対象です。」と説明したことに対するコメントでした。現在の日本では、経済的豊かさを保ってくれる政治家が支持され、世界で唯一の平和憲法を変えてしまっても、やむをえない、仕方がないと考える人が多い中、若い時から戦争のない平和を求て活動してきたの彼女にとって、きれいごとを言っていられないのだと思います。

 

  「どうしたらよいんですか?」と彼女は続けて牧師に質問しました。牧師は「A総理が変えられるよう、祈ることです。」と答えました。イエス・キリストは、「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 」*と教えられました。これは感情的には不可能に近いことですし、キリストを信じて、その教えに従おうと決めている者にとって、いつもチャレンジです。しかし、神様が相手を憎まないように、「私たち」の心を変えて下さることを願え、またその祈りはきかれるのが感謝です。また、神様を信じる者にとって、人ではなく、悪自体を憎むべきが今日の箇所から示されます。そして、神様は悪を憎む者の命を守り、悪い人たちから攻撃されても助け出してくれるというのです。この聖書に記される神様の約束が、私たちのような弱い存在の心を支え、平安を与えてくれます。

 

  「祈るなんて、現実的ではない。何か具体的にしなければならない」と思われるかもしれません。もちろん、国民としての意志を選挙等で表明したり、なすべきことはたくさんあり、無関心にならず、どんな小さなことでも平和的な活動をされることは良いことです。また、神様に世界平和を祈ってもすぐには聞かれないかもしれません。しかし、神様の御心にかなう祈りは必ず聞かれると聖書は記しています。ただ、神様の答えられるタイミングと方法が、私たちの想像するものと異なる可能性が高いです。

 

  世界政治を操る大きな悪の力に対して、一番効果的なのは、実は祈りなのです。なぜなら、愛と平和と正義を人の社会に臨まれる神様が、そもそもこの世界を創り、支配されているからで、その大きな存在が祈りに答えるからです。神様は、一つの点だけを見ているのではなく、大きな時の流れを同時に見ることが出来る方です。人間の視野は狭く、時によって限られていますから、一時だけみると、戦争や不条理なことがたくさん起きて、本当に神なぞいるのか?と疑ってしまいがちです。しかし、世の中の不条理なこと、戦争は罪ある人間がしていることであって、神様がしていることではないことを認識し、神様のせいにしてはならないと思います。神様は公平・正義な方で、最終的には悪を裁かれ、いつかキリストにある平和が支配する時がくることを信じ、忍耐強く祈りを怠らないようにしたいと願います。

 

 「主は悪を憎む者を愛し、その聖徒のいのちを守り、これを悪しき者の手から助け出される。」 詩編97篇10節 


  *1 マタイによる福音書5章44節

 

July 27, 2019

 ゼラニウムの香り

 

   今年は、長い梅雨も明け、台風の到来と共に夏本番となってきました。私は夏の暑さは好きですが、夏で困るのは虫です。蚊、ダニに刺されると、私の皮膚は人一倍腫れあがり、かゆみが続き、なかなか治りません。虫よけを体にたえずつけるのは体に悪いですし、実はあまり効きません。同じ効果がないのであれば自然のものをと色々調べ、ゼラニウムというハーブが虫よけになると知り、その液を薄めて体にスプレーしたり、お湯に垂らして部屋に香りを漂わせたりしています。効果は? よくわかりませんがとにかく刺される時はさされますが、ハーブの良い香りという点で満足しています。

 

  香りとにおいの違いはなんでしょうか。少なくとも食べ物に対しては香りを使うより、匂いがよく用いられますし、不快を感じるもの対しては臭うを使います。花の香、お香の香り、また香ばしい香りと食べ物にさえも、どちらかというと、心地よい、さわやかな、良いにおいのする事に関して、香りを使うのではないでしょうか。

 

  香りが良い品性とか影響力として比喩的に聖書で用いられています。クリスチャンというのは、本来信じている神様、キリストがどういう方なのかを知識として聖書を通しても知っているはずで、そして知識にとどまらず、それに倣うものであるはずです。もし、知っているとおりに、キリストに倣っていれば、その良い品性を接する人みなに、醸し出しているはずです。しかし、現実に私を含めて、なかなかそうはいかないのではないでしょうか。私はいつもこれで失敗するのですが、攻撃的な出方をする人や、相手のことを全く考慮しない自分本位の要求を突き付けてくる人に対して、言葉には出さずにいても、嫌悪感が顔にでてしまうことがあり、相手に対して嫌悪臭を放ってしまいます。目の前に、自分にしか見えない鏡があって、自分がどういう顔をしている見えたらいいのにと思うことがあります。(笑)以前は言葉にも出してしまっていた時があり、信仰を持ってから、言葉に出さないようにと自制がはたらき、少しは変えられたようです。言葉は一度出てしまったら、取り返しがつきません。

 

  一方、心で相手に対して苦い思いもちながら、表情でニコニコしているのは偽善です。偽善を神様は嫌われます。心の内側から、苦い思いを持たないよう変えられなければなりませんが、いずれにしても、一晩では品性は変わらないものです。時間がかかりますが、諦めずに、そういう相手が攻撃をしかけてきても反応しない、つまり心の中でも静かに反応し、どう相手に対応すべきかをその場で神様に祈って、神様に助けて頂きたいと願います。

 

  古代イスラエルの国に、ネヘミヤという人がいました。彼は当時世界を征服していたペルシャ帝国により、国を奪われていましたが、才能があったため王の件酌官(毒見役のようなもの)という職について、王の横にいつも仕えていました。彼は、突然の王の質問に対して、それに答えるまでの数秒間に、心の中で神様にどのように答えたらよいかを祈り、そして知恵が与えられ、結果、彼の征服された国の首都で、破壊されたままのエルサレムの城壁を修復してよいという、寛大な許可を得ることができたのです。* 私もこの信仰の人、祈りの人であるネヘミヤのように、その瞬間に心の中で祈って、適切な対応を出来るように変えられていきたいと思わされます。ハーブの香りとまではいかなくても、せめてバッファーゾーン(緩衝地帯)のような、争いとか衝突を和らげるような雰囲気、例えば、争うのがどうでもよくなるような、天然ボケ的匂いを醸し出せるように心が変えられたらと思います。

 

 「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」 コリント信徒への手紙2 2章14節


  *ネヘミヤ記2章1-8節

 

July 19, 2019

 いいね! がなくても気にせず

 

   先日、はっとさせられる絵本「たいせつなきみ」(マックス・ルケード著)*1、に出逢いました。絵本というのは子供向けに書かれていますが、えてしてその著者の伝えたいメッセージは大人に対してでもあります。内容は、木で造られた小人の世界の話です。その小人の村では毎日、互いに体にシールを貼りあっています。それは星シールとダメシール。星シールは、「あなたは素晴らしい!」、「いいね!」と他の小人が評価したとき体にはられ、ダメシールは失敗をしたり、見た目が悪かったり、他の小人と同じでないと「あなたはだめな小人だ!と」だめシールを貼られます。主人公はいつもダメシールを貼られ、自己嫌悪になり、自分は価値がないと卑屈になります。ある日、彼は一人だけ体に何のシールも貼られていない小人に出逢います。理由を聞くと「エリに会いに行っているからよ」と。

 

  エリとは、村の丘の上に住む、村のすべての木の小人を創った彫刻家。そして、主人公はエリに会いに行き、エリと話しをします。エリは主人公に、互いにシールを貼り合うことがどんなに意味がないことかを説明します。なぜなら、造ってくれたエリが、一つ一つの小人を異なって作ったので、他の小人がおまえをどう思うか、気にすることはないと。気にするからシールがくっつくと。「大事なのは、このわたしがどう思うかなのだ。わたしはおまえのことを、かけがえのない宝だとおもっているのだよ。」「時間がかかるけど、私のところに毎日会いに来れば、私がどんなにおまえのことを大切におもっているか、気づいていけるようになるよ」と言われます。そのことばに励まされた小人。すると、体にたくさん貼れているダメシールが、一枚だけぽろっとはがれていきます。

 

  この話は、全部で6話構成となっていて、これは最初の一話ですが、私はいまだに、星シールとダメシールを貼り合っている習慣に対して、正直に向き合わず、ほおっておき、よって心がかえられてない、未だに縛られていて自由でないと改めて気付かされたからです。頭では、キリストを信じる信仰を与えられ、聖書を読んで、人と比較することの無意味さ、神様に目を向けて、神様に仕えて行こうと思っていたのですが、実際、特に教会の人間関係のなかで、人の評価を気にして奉仕している時があります。しかし、そこには喜びがなく「ああ、また失敗してしまった。」「こう思われるのではないか。」「こう言われるのではないか」と、頭なのなかでくるぐる考えてしまい、本当に疲れます。昨日もあることがあって、気分的にぐったりしてしまい、そんな時にこの絵本で、初心に戻ろうと励まされました。

 

  一人一人が神様に創られた大切な存在。神様の与える恵みというのは、その人が何か才能があって仕事ができる人、性格がよい人、人徳がある人、神を信じている人だけに与えられるものではないのです。それは”全ての人”に対して与えられる救いの恵だからです。その証拠は、このような愚かな行動をしている、この小人のような、欠けがあり、それでいてプライドが高くてすぐ傷つき、いじけてしまう自分を救うために、神の子、イエス・キリストが命を犠牲にしてまで十字架で死んで下さったことだと聖書に記されています。そして自分の存在価値は、人が決めるものでもなく、自分で決めるのではない、神様がどう、自分を思うかで、それはイエス様の十字架で示された愛によってわかります。神様はわたしたち人間を価値あるものとして愛し、正しい道に導き、主キリスト・イエスによる永遠の命が賜物として与えられるようにして下さったのです*2。このことを信じられるのは、幸いです。私も、毎日エリ(ちなみに、エリとはヘブル語で”神”の意味)に会い、この愛をおもいださなければと思います。徐々に、人からの評価や、SNSでいいね!がつかなくとも気にせず、人と比較せず、神様の愛に応答して、何をするにしても神様の為に喜んでしようと心が変えられていきたいと願います。 

 

  「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」 ローマ人への手紙11章6節

 

 

*1 「たいせつなきみ」マックス・ルケード著、“You are special”Max Lucado、翻訳:ホーバード豊子 出版社:いのちのことば社フォレストブックス, 2007


 

*2 ローマ人への手紙6章23節


July 10, 2019

 思い煩わず、賢く判断する

 

   皆さんは、ご自分の予定をどの程度先まで建てますか?私は仕事をしていた時は、一ヶ月の予定表に訪問先や会議の予定などをざっとうめ、急なアポが入ってもよいように余裕を持ってスケジュールを建てようと努める方です。そして、締め切りがあることは先延ばしにせず、なるべく早めに終わらせておくほうです。それでもその通りにいかず、ギリギリになることもありました。結局、その日に今日中になすべきことは何かと、優先順位をつけ、自分が建てた予定を柔軟に変えていかなければならないでしょう。

 

  お金のこともしかり。家計簿をつけ、計画的に使うことは必要ですし、貯金をする余裕があればそれに越したことはありません。しかしその余裕がなく、予想外の出費があっても、それにみあう仕事がその時までに与えられ、なんとかやりくりできたということが多々あり、全て神様のおかげだと本当に感謝しています。身近な母の人生を見ていてもそうだったし、私の短い人生を振り返ってもそうでした。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。…あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」* とキリストが言われたことばのとおりで、思い煩う必要はないと安心できます。ただ、神様は「今」必要な分しか下さらないし、前もって余分に与えられませんでした。それは、余分にあると余計なことを考え行動するからでしょう。お金が余分にないことは感謝だと思います。なぜなら、お金はあればあるだけ人間関係で争いの基となり、もっと増やそうとすることに心を奪われるからです。今日も、友人が訪ねてきてくれて色々話をしていた中で、「でも、お金は足りないと思っているくらいが幸せかもね」、「神様がぎりぎりで、なんとかしてくださるしね」という話になりました。

 

  しかしながら、今の世の中、神様がなんとかしてくれるから何もしないで、何も気に留めずぼーっとしていてはよろしくないというのが、今日与えられた聖書の言葉より気がつかされます。聖書というのは、ここに少し、あちらに少しと、一つのことに対してバランスを取って書かれている事柄があります。神様に委ね、思い煩う必要はないが、一方で賢く歩みなさい、今の時を生かして用いなさい、なぜなら今は悪い時代だからとあります。キリストの時代から約2千年経った今、産業が発展し、IT技術が進んで便利になりましたが、貧富の差は拡大し、孤独な人が増え、犯罪が巧妙になり、もっと悪い時代になっているかもしれません。貯蓄があればオレオレ詐欺に狙われ、ネット上ではSNSを利用した様々な悪の道、危険な罠が巧妙に張り巡らされている為、それに惑わされないためにも、賢く常に判断しなければならない世の中であります。

 

  また、今の時を生かすということは、今日神様から与えられた時に、自分のしたいことをするより、神様のみ旨にそったことは何かを判断して選び取っていくことではないでしょうか。例えば今の私は、家事をする時間、運動する時間、人と会う時間、教会の奉仕をする時間、寝る時間、テレビ等で世の中で何がおきているか最低限の情報を入手る時間。。。、これらも日々必要なことです。しかし私にとって一番優先順位が高く、時間を費やしたいことは、聖書の言葉と向き合い、祈ることです。聖書のことばから、魂の心の栄養を受けて、それを自分の為だけでなく、他者にも分かち合う、そして人と接して、相手の必要を聞いて共に祈る、これは神様の御心にそったことだと思います。なかなかこのように時間をやりくりできないのが現実ですが、優先していきたいと願います。

 

  「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ人への手紙5章15-17節

 

 

*マタイによる福音書6章31-32節


 

July 4, 2019

 悲しい知らせと慰めと希望

 

   先日、東京の実家に帰っていた時に、大学時代の友人から、また一人、共通の仲良くしていた友の訃報を聞きました。思わず声を挙げ、しばし泣きました。「また」というのは、40-50代のこの数年間で3人の学友と1人の元職場の同僚が病気等で他界し、皆後になってから知らせを受けたため、4人とも突然のことで最後に会うチャンスもなく、葬儀にも行くこともできませんでした。私が落ち込んでいると、そこに居合わせた妹が「人はいつかは亡くなる。お姉ちゃんだって、以前死にかけたじゃない」と言われ、ああ、そうだったと。自分も40代前半で癌を患い大手術をして生かされ、これからは一日一日を大切に生きようと決意したものでした。あれから時が過ぎ、そのことを忘れかけている自分に気がつかされます。その夜、知らせてくれた友人と久しぶりに会うことが出来て、二人で故人を偲ぶ時が持てたことは慰めとなり、感謝しています。

 

  若い時は死を考える暇がなく、高齢になる迄、同世代が亡くなるということはそれほど現実味がないものです。人は他者の死に際し、その時は人生や死を考えますが、日々の忙しさの中で次第に埋没されていくのではないでしょうか。逆に、死んだらどうなるかが分からないまま、死のこと、将来の先行きばかり考えてしまうと、心の病になってしまうかもしれません。それでも、現実に私たちの体は日々老化し、永久にはこの体で生きることはできません。何のために生きているのか、なぜ自分が存在しているのか、そんな難しいことを考えることはせず、とりあえず目の前のやるべきことを一生懸命こなすしかない。また、うまく心のバランスを取るために、一時的な気晴らしや癒しを求めて、何かに打ち込むこともできます。しかしながら、私の友人たちのように、死は突然やって来ます。

 

  もし、瞬く間に過ぎ去っていく人生であっても、「死んだ後にこうなる」という、いわば希望があればどうでしょうか。私は神の存在を信じ、自分が目的を持って神に創られた存在で、私が生きている間も私を助け導き、死んだ後も天国でケアしてくれると聖書に書かれているので、その約束を信じています。すると、死に対する恐怖、自分の存在がいつか消えてしまうのかという不安に怯えることはありません。もちろん、感情的には家族や友人の死は悲しいし、思い出して泣くこともありますが、その都度神様から慰めが与えられます。寿命については、どんなに頑張っても私がコントロールできないことも承知していますが、夫とは、共に力を合わせて人々に仕えられるように神様が夫婦としてくれたのですから、なるべく長く共に生かさせてくださいと願い求めています。しかし、たとえそうでなくとも、全てのことは神様が何とかしてくださるという信頼が持てることは、本当に幸いです。

 

  ちょうど、タイムリーに与えられた聖書の箇所が下記の「生涯の日を正しく数える」というところでした。「生涯の日を正しく数える」とはどういう意味なのでしょうか。これは、何歳まで生きられるかしら?と算定することではなく、いつかはこの世での生活が終わるという現実を受け止めた上で、「きょう」という日に何をなすべきかを見極めることかと思います。それは、ある人を赦すと決めることかもしれない。何もできなくても、ベッドで静かに祈ることかもしれない。私の思いは愚かで、状況に左右されやすく、頼りにならないので、神様からそのような判断力、知恵を頂く必要があります。私を創った全知全能の神様は、今のこの時の私に何が必要か、また何を私がするのがベストなのかをご存知だからです。同時に、私がロボットのように神様のプログラムに従えというわけではなく、神様は私の願い、私の志も考慮した上で、また私が自分の判断で失敗したとしても、優しく軌道修正に導いて下さる、愛のある方であるのが感謝です。

 

  今日が最後かもしれないと覚えつつも、その日を喜んで通常通りに生活し、そして死ねば天に召されるという平安な気持ちでいたいと願います。残された日々を大切に生きようと、以前した決意を忘れずに。。

 

 

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」 詩編90篇12節


 

June 30, 2019

 水に浸る楽しさ

 

   先日、久しぶりに市営プールで泳ぎました。通常私は好んで泳がないのですが、折しもアクアビクス初級のクラスが開催されていたので、それに出るついでに少しコースを泳ぎました。私は潜水している間が好きです。潜水といっても、泳ぎ出す時に壁を蹴って、その反動で潜水し、そして浮かび上がって泳ぎだすまでの短い間のことですが、水から出る瞬間がなんとも言えない爽快感があり、特に折り返すときは、すでに25m泳いで疲れているのて、次の25mへ泳ぎだすまで水中で呼吸を整え、体を思い切り前へストレッチできるからです。昔、スキューバダイビングをかじったことがありますが、水の中というのは一種神秘的な世界です。

 

  キリスト教ではバプテスマ(洗礼)という儀式があり、キリストを信じると決めた人が、皆の前でその信仰を表明するために行うものです。もともとは、川や湖で体全部を一瞬静めて、すぐに上がるというやり方でしたが、その後、歴史の中で宗派によってそのやり方は様々となり、例えば、私の母は利根川上流でザブント体を浸して受けたそうですが、私は教会堂の中で水を少し頭にかけるというやりかたで受けました。バプテスマはラテン語の”バプティゾー”から来ていて、「浸る」という意味だそうで、その点で本当は私も水の中に浸り、ザバッと水から出る瞬間を味わいたかったのですが、形式にこだわる必要はなく、洗礼を受けること自体に意義があるのでよしとしています。

 

  洗礼は古い自分のお葬式と新しい自分の誕生日とよく例えられます。キリストを信じることで、信じる前の古い自分は水の中で一度死に、水から上がった時に新しく生まれることを象徴しています。イエス・キリストは「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」*1と、言われました。つまり、人として生まれてきたままでは天国へ行けないということです。新しく生まれるというのは、もう一度母親のお腹のなかに入って出てくるということではなく、キリストを救い主として信じて、新しい命が与えられることです。これは心の中の変化のため見た目は変わらなくても、内側が信仰をもつことで新しくなり、今迄と異なる生き方をしていくということです。新しく生まれた私は、もはや自分のために生きるのではなく、神様のために喜んで生きたいという思いに変えられていきます。神様が何を喜ばれるかというと、実を結んでいくことです。

 

  実を結ぶとは、私の言動がキリストのようになっていくこと、具体的には愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制 *2を周りの人に表すことです。私が愛を示していければ、周りの人が「ああ、あの人が信じている神様がそのような方だからか。キリストはすばらしいね」と私ではなく、神様に栄光が返されるためです。それが新しく生きる私の目的となり、その目的のためには、神様は願いを叶えて下さるという約束があり、自分の力や性格によってできなくても、神様が助けて下さるというのが大きな励ましです。実を結べるようになるには時間がかかります。たとえ時間がかかっても、新しい命にあって、聖書のことばから学びつつ、キリストに倣い日々実を結べるように過ごしていきたいと思わされます。

 

  「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 」ヨハネによる福音書15章8節

 

 

*1「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 」ヨハネによる福音書3章3節  

*2 ガラテヤ人への手紙 5章22-23節

 

June 27, 2019

 茶臼岳登山

 

   「これから、山へ行くぞ山へ。」朝の一仕事を終えて家に戻ってきた夫の第一声。前から、茶臼岳を登ろうと計画をしていたので、後は天候とお休みの日程次第でしたが、「え?今から?」、。と服を着替えてすぐに出発。その日、那須連山は雲で覆われていましたが、幸い雨は降らず、かえって日差しが強くないので快適でした。登山口に車を止め、いざ歩き出しましたが、最初から石段の斜面を登るコースで、息が切れて足取りが重く、これから約3時間のコースを達成できるのかと自信がありませんでした。しかし、途中緩やかな道もあり、そこで息を整えられて、美しい新緑の山々と、硫黄が所々吹き出す岩だらけの斜面をじっくり見る余裕もあり、しばし感動に浸りました。山の尾根から少しだけ除く青空に、鳥のさえずりがだけが響きわたり、風で運ばれる冷んやりとした雲が、私たちの体を撫でていきました。お昼の休憩を峰の茶屋で取り、後半は急な岩だらけの斜面を登り、ようやく茶臼岳山頂へ。登山はハードなスポーツですが、頂上に着いた時や、後ろを振り返り今迄登ってきた道を見下ろせた時の達成感は、なんとも言えません。私達のようなビギナーから、熟練した登山家まで、登山は多くの人を魅了します。

 

  同じ登山をするのでも、非常に暗い、悲痛な気持でしなければならなかった人がいます。それは聖書に出てくる、アブラハムという、イスラエル人の先祖です。彼は神様から言われて、モリヤ山を息子と登らねばなりませんでした。その目的は、登山を楽しむためでも、旅行のためでもなく、なんと、大切な一人息子イサクを山で、神様に捧げなさいという命令のためでした。この子は、アブラハムが75歳の時に神様が子を与えると、そして彼の子孫を大いに祝福すると約束された、100歳の時にようやく与えられた子でした。3日かけての険しい登山の目的は、山頂で息子を手にかけること。アブラハムの苦悩は想像を絶します。しかし、アブラハムは寸前まで青年の息子にそのことを告げずに、「捧げものの羊はどこにあるんですか?」と聞かれても、「息子よ、神様が用意してくださるんだよ」と答えています。彼は、「実はこれはこういう結末となる」と知らなくても、とにかく神様は約束したのだからと、イサクはたとえ死んでも生きかえるだろうと信じて命令に従おうとしました。そして、実際、神様はアブラハムを試みてこう命令されたのであって、山の上でイサクを捧げることなく、神様が代わりに用意した羊を捧げたというストーリーです。

 

  ある人は、いくら命令に従うか試すにしても、あまりにも残酷ではないかと言います。しかし、これは後に、神ご自身が残酷な犠牲を払ってくださることを示す型なのです。神が自分の独り子である、イエス・キリストを十字架を、つまり、このイサクの代わりに捧げられた羊はイエス・キリストを示しています。人の罪は、誰かが代わりに命をもって贖わなければならない程、神の前に重く、深刻です。神様は、誰一人として、人間を犠牲にしたくない、だから自分の子(神の子)を犠牲にされた、そこまでして人間を救いたかった、この大きな神様の愛が、このイサクを捧げる試練を通して示されてます。さらに、死んで終わりではなく、イエス様は神様が復活させますが、そのイエス様の復活が示すことは、私たちも、この神様の救いの計画を信じて、悔い改め、イエス様を救い主として受け入れれば、新しい命が与えられるということなのです。

 

  アブラハムのケースから、目に見えない神を信じ、また確証されたものがはっきりと示されていなくても、神に委ねて一歩踏み出すと、想定外な道が開かれ、やはり神は生きていて働いてくださっていると感謝する。この繰り返しにより、私たちの信仰は成長させられるのだと思います。そのために、神様は聖書を通して、たくさんの救いの約束を与えて下さっています。この世がどんなに暗くとも、不条理なことばかりでも、その約束には希望の光があります。その光に照らされ、時にかなった神様の助けと、日々与えられる恵に感謝し、ゴールに向かって一歩一歩、歩んで行けたらと、祈り求めます。

 

  「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。 」 へブル人へ手紙11章17-19節

   

 

June 21, 2019

 一緒に歩く

 

   ご高齢の方と共に歩く際は、歩くペースを相手に合わせ、色々気を遣う必要があります。このことは他人に対してだと覚えているのですが、身内に対してだとつい忘れてしまいがちです。少し前に、私は母と共に電車とバスで初めての場所へ行こうとした時、駅でバス停を探さねばなりませんでした。私はちょっと先に歩いてそのバス停の場所まで行き、確認して戻ろうとすると、母の姿が見えません。驚いて駅のロータリーを探しましたが、どこにもいない。さほど広い場所ではなく、見通しも良いので、ついてくるものかと思ったのです。携帯をならしても出ない。するとまもなく、駅の改札に向かう階段から母が下りてきました。母は私の姿を見失い、私が階段を上がっていったと思って、上に行ったのでした。一緒に目的地に向かうには、時間がかかっても、乗り遅れそうになったとしても相手のペースに合わせて歩かなければと反省させられます。

 

  聖書には「神と共に歩く」という表現が、クリスチャン生き方としてよく使われています。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 」*1、「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」*2 具体的に、「神と共に歩く」とはどういう意味なのでしょうか。ここで記されているように、不正なことをせず、慈しみの心を他者に持ち、謙遜な思いと態度で日常生活を過ごす、つまりキリスト・イエスに倣って日々歩むということだと思います。

 

  しかし私たち人間は、このような神の基準には到底達しえません。それでも神様の愛を受け、感謝し、神様のなさることが人にとってベストだと同意するからこそ*3、一緒に歩んで行きたいと願い、そう求めるのではないでしょうか。自分の力や性格でキリストのように出来なくても、祈って神様からその愛を注いで頂き、出来る力を与えてもらう、素直な心に変えてもらうことは可能なはずです。

 

  「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」*4 イエス・キリストの歩まれたように歩もうとする人は、神のうちにとどまり続ける、つまり神様と繋がっている状況においてそれが可能となります。ブドウの枝がその木に繋がっていさえすれば、栄養分が送られ、実を結べるように。いつも、イエス様に繋がっていられるよう、日々祈り求めていきたいと思います。

 

  「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネ福音書15章5節

 

 

 *1 コロサイ人へ手の手紙2章6節

 *2 ミカ書6章8節

 *3「二人のものは、同意していないのに、一緒に歩くだろうか」アモス書3章3節

 *4 第一ヨハネの手紙2章6節

 

 

June 14, 2019

 平和の願いを込めた折り鶴

 

   先日、一年間の日本での駐在を終えて帰国する、インド人家族の送別会を開くため教会に有志で集まりました。食事を共にしながらとても和やかな会となりましたが、最後に夫が「折り鶴をみんなでおりましょう」と提案しました。このインド人の方々は折り紙自体を見るのが初めてで、それを用いて鶴を作ることにとても驚いていました。折り鶴は、日本では平和のシンボルとされているとも説明し、皆で作った折り鶴を日本の記念として彼らにプレゼントしました。

 

  アメリカ合衆国の元大統領のオバマ氏が、2016年5月に広島平和記念資料館を訪れた際、4羽の折り鶴を持参し、2羽を広島の子ども達へ渡し、もう2羽を記帳台に置いたそうです。おそらく、日本の文化を配慮した上での平和を祈願して行った行為だと察します。その3年後、現在の大統領が国賓として来日しましたが、その際自衛隊に高額な兵器を売りつける交渉がなされたとのことです。折り鶴と兵器。同じ一国の大統領が携えて来るものとして、なんと対照的でしょうか。

 

  シャローム。これはイスラエル人が「こんにちは」・「さようなら」の挨拶として、日常的に交わされていることばで、ヘブライ語で”平和”を意味することばです。イエス・キリストも弟子たちを伝道旅行に送り出す際に、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」*1 と指示されました。つまり、イスラエル民族は、昔から挨拶のことばに、相手の平和を願う祈りが込められているようです。これは、この民族が祝福、恵み、平和というのは神様が与えるものだということを知っていて、それを互いに願うという、宗教的背景からきているのでしょう。

 

  自分の愛する肉親を、ナチの強制収容所で殺され、自身だけは奇跡的に収容所から生きて出られたコーリン・テン・ブームというオランダ人の女性がいました。彼女は戦後、その信仰により、キリストが与える愛を持つ人として、元収容所の看守を赦すことができたという証を彼女の自伝*2 より知りました。最初、彼女の目の前にその元看守が現れた時、怒りの感情、赦せない心が沸き起こったそうですが、不思議に神の愛が注がれて、その元看守に握手の手を差しだし、赦せたそうです。これは彼女の意志の力ではなく、キリストによる平和が恵みとして与えられたから可能だったのでしょう。このように、キリストを信じる信仰により、敵対していた関係が和解の関係へと奇跡的に変えられていくという証が世界中で起きていて、それを聞くにつけ、個々人の平和は可能なのだと励まされ、慰められます。

 

  人は誰でも平和・平安を願う心を持っているはずです。しかし、互いの利害が相反したり、大切な人の命を奪われると、争う状況や相手を赦せなくなります。この社会で生きている限り、いつも平和な心を自分の意志だけで保ち続けることは限界があるのではないでしょうか。しかし各々がキリストを通して与えられる平和があるようにと、互に祈りあえれば、きっと平和が実現すると私は信じます。なぜなら、キリストこそが平和であり、十字架の死によって、まず人が神と和解できるようにして下さり、その平和が、コーリーのように、人同士の平和に及んでいくことが可能だからです。相手を赦せると、自身の心に平安がもたらされるという、キリストの平和を経験する人が増えていくことを願いつつ。

 

  「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。 」  コロサイ人への手紙3章13-15節

 

  *1 マタイによる福音書10章12節

  *2 Corrie ten Boom, ”The hiding place”,  日本語訳 「わたしの隠れ場」、いのちのことば社

 

June 10, 2019

 映画「僕はイエス様が嫌い」を見て

 

   2019年の5月末から劇場公開となった邦画「僕はイエス様が嫌い」を観ました。この映画はサン・セバスティアン国際映画祭で、最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞した実力のある監督の作品でしたので、期待して劇場に足を運びました。あらましは、おじいちゃんが亡くなり、雪深い地方で独り暮らしとなったおばあちゃんと一緒に暮らすため、両親と東京から引っ越して来た小学生が主人公。この小学校はキリスト教系の学校のため毎日礼拝が行われており、彼はいつもキリスト教の神様(イエス様)にお祈りするという環境に戸惑いを感じつつも、友達も出来、次第に慣れていきます。ある日、目の前に小さなイエス様が現れ、願いを叶えてくれるという経験をし、イエス様の存在を信じるようになりますが、その後、思いがけない悲劇が起こります。

 

  とても良い映画だと思いましたが、最後の場面をどう受けとめるか、この映画のテーマは何かは、個々人の想像・解釈に任せるように出来ているようでした。その鍵の一つは、映画のエンディングの讃美歌の歌詞:


♪主イエスとともに 歩きましょう いつも
 うれしい時も 悲しい時も 歩きましょう どこまでも ♪


にあるのではないかと思いましたが、実際この歌詞を聞いていた人はどれだけいたのかとも思いました。夫は、映画の最初と最後に出てくるシーンで「障子に開ける穴がポイントでは?」と言いました。私が「その穴は何なの?」と聞くと、「ーーーーじゃないかな」(これから観る方に先入観を与えないために)と夫の意見。人それぞれに解釈ができる映画で、興味深かったです。

 

  聖書では、神を見た人はひとりもいないと記されています。神の幻を見た人々、神のイメージを見た人々、神の現れを見た人々はいますが、完全な神を見た人はひとりもいない、もし直に見たら生きていられないというのです*。イエス様が2千年前に地上に人となって現れましたが、この状態は神でも人でもあり、天にいる状態の神としては人の前に現れていないからでしょう。つまりキリスト教の信仰とは、この映画のような目に見えるイエス様が出てきて、お祈りしたことを叶えてくれる神様を信じることではないのです。むしろ、下記の聖書の箇所が示すように、見えないけれどもその存在を信じ、また自分の願いがその通りに叶えられなくても、祈りは必ず聞かれていて、神様に事の沙汰を任せるのがベストだという確証を得ていることではないでしょうか。

 

  一般的に、目に見えるものしか信じられないという方が多いと思います。一方で、例えば「心」は目に見えないものですが、「心」の存在を前提として人は生きていて、どの民族にもどの時代にも言葉の表し方が異なっても「心」の概念を持っています。この映画の讃美歌のように、嬉しい時、願い通りになる時だけ見えて、ともに歩いてくれるイエス様を信じるのではなく、悲しい時、イエス様なんかいないじゃないか!と絶望のうちにいる時も、見えなくても共に歩いてくれていたことを信じることが信仰ではないかと、そのような信仰が与えられ、希望を持って、イエス様に感謝して日々生活をしていきたいと、この映画を観て思わされました。

 

   「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 」ヘブル人への手紙11章1節

 

  *「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」出エジプト記33章20節

 

June 4, 2019

 羊の毛刈

 

   「メエーーー!」と毛を刈られるのを嫌がる羊が、悲痛の声で鳴いていると、夫が「よしよし、もう少しの辛抱だからね」と羊の頭をさすっていました。今日は、夫が務める幼稚園で飼っている羊たちの毛刈の日でした。この2匹の羊たちは園庭に飼われていて、園児たちが餌を挙げたり世話をしていますが、年に一度長く伸びた毛を先生たちが業務用バリカンで刈ります。園児たちもちょこっとハサミで毛刈体験が出来るのですが、刈られている間、時折暴れる羊を先生たちが3人がかりで抑えているのを横で見ていた私は、「やってみる?」と言われましたが遠慮しました。牧場で飼われている羊は、もっとまめに毛を刈られ慣れていてそんなに抵抗をしないかもしれませんが、この羊たちは一年に一度であり、時間もかかるのでしょう。まもなく、刈り終わってすっきり、きれいになった羊は、水と餌を安心して食べていました。

 

  羊という動物は、人間により定期的に毛を刈ってもらう必要があります。もし長期間刈らないでおくと、その毛の重さで皮膚が剥離してしまい、動けなくなり、ついには死んでしまうそうです。古代から羊飼いという職業は存在し、羊は人間にいつも世話をしてもらわないと生きていけない動物です。羊飼いは通常、それぞれの群れを任されていて、オオカミ等の野獣が羊を襲いに来たら追い払い、場合によっては命がけで戦わなければなりません。当時は羊飼いは銃などの武器をは持っていないため、野獣と戦うには危険が伴います。羊は群れの中にとどまり、羊飼いの声に従って動いていれば守られ、安全に過ごせます。

 

  聖書に、イエス・キリストがご自分のことを「私は良い羊飼いである」と言われている箇所があり、羊が人間として例えられています。どのように良い羊飼いかというと、羊の為に命を捨てると言われています。ここでの「羊のために命を捨てる」というのは、イエス様が十字架で私たちのために死なれることを指しています。私たちの罪が赦されるために、代わりにイエス様が罰を十字架刑にて受けて下さったからです。そして、このイエス様による救いを信じた羊たちは、イエス様が死んで復活され、天に戻られてからも彼の声に聞き従って、地上での人生を歩んでいくということを意味しています。

 

  キリストを信じた後も、各々自由意志があり、信仰の在り方、成長も一人一人異なるので、イエスの導きの声を無視してしまうこともあります。羊飼いの庇護の中にいれば安全なのに、自分の思いで行動を起こし、失敗し、人を傷つけてしまうこともあり、相変わらず頑固で弱い羊であるかもしれません。しかし、私たちがイエス様を信じている限り、たとえ彷徨ってしまうことがあっても、イエス様は決して私たちを見放さず、また立ち返って安全な羊飼いのケアのもとに戻るのを待っておられます。そのような優しい牧者である、イエス様に安心して、全てを委ね、聞き従っていけるよう、日々祈りたいと思わされます。

 

   「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。...そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。」ヨハネによる福音書10章14-15節

 

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 After  

May 26, 2019

 掘って、鉱石を見つける

 

   昨年の夏、佐渡ヶ島へ旅行へ行った折り、佐渡金山跡へ訪れました。ここでの金採掘は室町時代まで遡りますが、多くの労働者が劣悪な環境で、掘り続けた様子を知り、心が痛みました。金に限らず、価値のある鉱石をまず探り当て、掘削し、精錬し、とその工程は非常に時間と労力、コストがかかります。だからこそ、製品としての価値があるわけです。

 

  今日読んだ下記の聖書の箇所は、古代イスラエルの王様、ダビデが書いた神様への詩ですが、この「私を探って」の原語:探る(ヘブル語)は、「鉱山を掘り、鉱石を見つける」という意味も持つ動詞だそうです。ダビデがそう神様に語りかけたのは、自分では自分の心の深いところがわからないから、神様に探って下さいとお願いしています。私は以前この箇所を読んだとき、続く「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。 」という文脈から、単純に神様に私の悪い思い・動機がないか探って、正しい道へと導てくださいという意味だと思っていました。

 

  しかし、鉱山から鉱石を掘るという意味から、私のような心の中にも、神様のために用いられる可能性のある良いもの、志しなど宝となる原石みたいなものを探して下さいとお願いしていると解釈すると、より深い意味にとれます。神様に心の中を探してもらうだけでなく、「私の心を知り、私を試みて」と続くように、この「試みる」という動詞も「金属を火で試す」、つまり精錬するという意味もあるそうですから、私の心の思いを精錬し、良いものだけが残る様に、余計な不純物;思い煩い、悪い動機、苦い思いは火で精錬しそぎ落として下さいととれます。

 

  生活の中で、全てが順調であると、自分の本性について気がつかない部分がたくさんあります。問題が起こり、当たり前に思っていたことがそうでなくなる、というような困難な状況になると、その人の心が揺り動かされるものです。その時に、このダビデの祈りを思い出したいと思います。私の心の深い部分は、もし火(問題)で試されなければ、自分がまあまあいい人かもと勘違いしかねません。揺り動かされた時こそ、神様に余計な、不純物の思いをそぎ落として頂き、やさしい、柔和な心で他の人と接することができるよう、神様のために用いられる器に変えられていくように、日々神様に導いていただきたいと願います。

 

    「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。」 詩編139篇23節
 

May 23, 2019

 君は愛されるため生まれた

 

   先日、私が月一回開いている幼稚園の保護者向け聖書勉強会に、私の友人がママ友を誘って参加されました。この幼稚園では新学期の時期に、園児たちに天地創造*1(神がこの世界すべてを創られたという、聖書の最初のストーリー)のDVDを見せています。そこで私は保護者の方にも、神様が六日かけて天地を創造し、最後に人間を創られたところを聖書にそって説明した後で、「これを皆さんが信じるか信じないかは別としても、もし神様がいたとしたら、なぜ人を創ったと思いますか?」と質問してみました。ある方が「おそらく、神様は大切にする相手がほしかったんじゃないかしら。。」と答えられました。私は別の聖書の箇所「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」*2を示し、一言にまとめて「神様は愛するために人を創ったようです。その人の人種や才能等に関わらず、一人一人が大切な、神様の前には価値のある存在として創られているから」と説明しました。

 

  一人で悩んでいる人たち:いじめに遭っている子供、自分の抱えている責任や重荷に潰されそうになり苦しんでいる人、自分は生きている意味があるのだろうかと落ち込んでいる人。。。私はこのような人たちに「君は愛されるために生まれた」と伝えたいと願うのです。例え、自分を愛する人は誰もいないと感じても、目に見えない神様はその人を愛していて、愛する為に創られて、目的をもってこの世で生を与えたということを信じられると、どんな状況でも、どんな境遇に生まれ育ち、生活しようとも、そこに生きている意味を見出せて、自分の存在価値に確信を持て、一歩踏み出せるのではないでしょうか。

 

  そして神様の存在と神様の愛を現わしているのが、イエス・キリストです。つまり、神の御子イエスの命を十字架で犠牲にしてまで、私たちを救おうとしたのは、それ程に私たち人間に価値があるとみなしてしてくれているからです。このような神様の大きな愛、またその父なる神様の計画に従順に従われた御子イエス様の愛は、なんと驚くべきことでしょうか。愛されている存在、意味のある人生、これらを神様の創造を前提として確信が持てると、もう一歩進んだ信仰に進んでいけます。神様は何もお返しを私たちに要求しないけれども(献金でさえ本来強制されていません)、私たちは神様に感謝すること、信じ続ける、求め続けることはできるはずです。神様が自分をこれ程までに愛して下さっていることを知り、その愛に自分はどう応答できるかと、神様のために生きたいという思いに変えられてゆき、自分中心から神様中心の思へと変えられていくことは、環境や状況に左右されない深い、大きな喜びを伴います。

 

  多くの人たちは、聖書を神のことばとして信じず、信じたとしても部分的に信じ(例えば天地創造の部分は神話だとする)、人の知能で測りうる科学で整合性をつけようとします。しかし聖書は科学の本ではなく、信仰の書であり、聖書をどう信じるかはその人の信仰だと思います。私は人の知識を超えた、目に見えない全知全能の神様を信じ、私たちを愛して、イエス・キリストによって神の子にしようと前もってお定めになったこと、この世界は神様のことばから出来たと下記のように書かれている聖書をそのまま信じ、証していきたいと思います。

 

  「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 」へブル人へ手紙11章3節

 

  *1「はじめに神は天と地とを創造された。」創世記1章1節
  *2 エペソ人への手紙1章4-5節

May 17, 2019

 水の上を歩く

 

   20代の時、一度だけ湖でウインドサーフィンを試みたことがあります。こんな狭い板の上にのって、水の上を走れるのか半信半疑でしたが、指導してくれた人のサポートで、数10メートル水の上を走れました。風にのって、どんどん湖のまん中へ進んでいき、とてもエキサイティングでしたが、方向転換や止まり方を習得していなかった為、怖くなり間も無く沈没して止めました。この地球上では全ては重力の下にあり、ある一定の条件下と乗り物にのれば、人は飛行機で空を飛び、船で水の上を走れます。人も横たわれば、しばらく水の上に浮いていられますが、直立した状態で人が水の上を歩く方法はまだ誰も成功していないでしょう。

 

  聖書には人が水の上を歩いたという、信じら難いことが記されています。ある日の夕方イエスの弟子達だけで大きな湖に船をこぎ出すと、途中で嵐に遇い、先に船が進まなくて困っていると、イエスが湖の上を歩いて彼らの方へ行かれました。それを見た弟子たちは幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声をあげましたが、イエスはすぐに彼らに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけました。すると弟子の一人のペテロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい」と願うと「来なさい」とイエスは言われ、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行けました。しかし、彼はすぐに足元の波と風をみて怖くなると沈んでしまい、イエスに引き上げてもらって、二人共舟に乗り込みました。

 

  このような記事がなぜ聖書に書いてあるのか考えてみました。イエスは3年半の宣教活動の間に多くの奇跡をされましたが、多くの病人を癒したり、5000人にパンを増やして給食したり、病気で死んだ人を生き返らせたり、みな人々の必要に答えるための奇跡が記されています。イエスが奇跡を起こす時には目的や神の国についての教えが伴います。ですから、単に人の欲望を叶えてくれるため(例えば一攫千金を得る、名誉を得る)には奇跡を行われませんし、必要なこと(病気が治る、良い結婚、いい会社に就職等)を願ったとしても、その通りに奇跡がおこるとは限らないのです。神様の側には計画と思いがあり、人の思いとは異なります。つまり神様が奇跡をなさらなかった事柄でも、そこに神の計画や御心があるはずです。ですから、この水の上をペテロに瞬間的に歩かせるという奇跡は、イエスに力があり、その人にするように命じれば、”その人を通して”奇跡は起こるということを弟子が信じて一歩踏み出すという、信仰のレッスンだったのではないかと思います。

 

  信仰というのは、電気のスイッチに例えられます。スイッチを押すと、電気が流れ電球がつくように、信仰を働かせると、神の不思議な力が流れて奇跡がおきます。ですから「これは無理だろう」「神でもこれはできないだろう」という不信仰の状態には、神の力は流れず何もおこりません。私たちの内には何の力もないのですが、神には出来ると信じる信仰を持って何事も祈り、その願いが神の思いに沿ったものであれば、私たちの人知や科学を超えた不思議なことが起こるでしょう。この弟子の場合、イエスに命じてもらえば歩けると信じたから、重力の法則を超えて水の上を歩けたわけです。しかし途中で波と風を見て怖くなる、つまり人の現実的な思いで信仰のスイッチをオフにしてしまうと沈んでしまいます。現代の私たちへの適応は、絶望的な状況、不可能に思えることでも、イエスに力があると信じて信仰のスイッチをオンにできるかが問われと思います。

 

  そもそも、この世で信仰を持ち続けて生きることは、ある意味水の上を歩くような、重力に逆らう奇跡的なことだと思います。傍から見ると、目に見えない神が存在して、2千年前に十字架に掛けられた神の御子イエス・キリストが死んで復活したことは自分の罪が赦され、天国へ行けるためだという信仰は、多くの人には信じがたいことでしょう。しかし、聖書に書いているイエス・キリストのなさったこと、言った事が本当だと信じて、現代における自分の生活の中でも祈って神様に委ねていくと奇跡がおこります。それも、自分の思う通りではなく、神様のやり方やタイミングで。この世という深い海に沈むことなく、水の上を歩いて信仰を保っていけるのは、自分の力や意志ではなく全て神様の恵であり、奇跡の力であると捉え、日々神様に感謝していきたいと思います。また、信じられなくて溺れそうになっても、助けを求めれば、イエスが腕をつかんで、引き上げてくれるので、安心できます。

 

  「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。 マタイによる福音書19章26節

May 5, 2019

 人に任せることと自分がなすべきこと

 

   何事も、自分でしないと気が済まない、もしくは頼むのが面倒くさいので、大変でも自分でしてしまうということがないでしょうか。私はどちらかというと、なるべく人に迷惑をかけず全部自分でしてしまおうという方です。また独身時代が長く、自分で全てしなければならなかったという状況が多かったため、結婚した後もまだその癖が残っていて、時々夫にあきれられてしまいます。例えば、先日も10連休で道路が大渋滞になった時、途中で運転を夫が変わろうと言ってくれましたが、私は運転を変わる暇があったら早く着きたいとの一心で、結局、大渋滞の中休みなく4時間運転してしまいました。一方、ある人は全て人任せで自分はやろうとせず、最低限のことしようとしないかもしれません。人に任せることと自分がすべきことを見極める、またバランスをとるのは難しいことです。

 

  信仰の面でも神様に任せることと自分がなすべきパートがあると思います。ほとんどが神様に委ねるのですが、祈って何もしない、あとは神様が何かしてくれるまで寝ていよう、というのでは棚からぼた持ち状態です。例えば、就職活動において「神様、これこれの仕事を与えてください」とまず祈ることは一番です。また人間関係がうまくいかない場合、「神様、夫(妻)との関係、職場の同僚との関係がよくなりますように。相手が悪いですから相手を変えて下さい!」と祈ったとします。しかし祈りと共に、自ら行動するパートがあるはずです。就職なら、自分で調べて履歴書を送る、誰かに紹介してくれるように頼む等、また働き始めたばかりは慣れるのが大変であっても、すぐに辞めずある程度忍耐して働いてみるなど。また人間関係にしても、確かに相手がいつも攻撃的、意地悪かもしれませんが、自分の態度はどうか?最近、問題の相手を尊敬したことがあるか、その人に優しい言葉をかけたこと、最後に「ありがとう」と言ったのはいつか?と顧みて、感情がついていかなくとも、こちらから態度や言葉で優しさを示すことはできます。これらは自らがするパートであって、神様がしてくれるパートではないでしょう。 

 

  信仰の成長は、物事がうまくいかない、困難な環境の中でなされます。そういう時こそ、正直な自分の感情を含め、状況のそのまま神様に祈り、静まって神様が動かれる、働かれるのを待ちつつ、自分は忍耐し、謙遜になって、自分が出来る事をしていければと願います。そうしていると、ある時状況が変えられていくということを経験し、神様の恵みのわざに感謝でき、喜びに満たされるでしょう。このようにして、自身の信仰も徐々に成長させられていくのではないでしょうか。

 

  

 

  「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 」  ピリピ人への手紙2章2-4節

 

 

May 2, 2019

 新元号と気持ちの区切り

 

   日本という国は独自の暦を用いているため、この度も平成から令和に変わりましたが、わたしたちの生活では特に変化はなく、ただ季節が5月の新緑へと移り変わっていきます。また、10連休といっても、役所や銀行などは新元号へのシステム変更の対応に忙しく、行楽地やお店は稼ぎ時であって、仕事に追われている人もたくさんいるのではないかと察します。

 

  毎年、西暦で新しい年を迎える時と日本の場合は4月からが学校や会社の会計年度の始まる時と、事実上年に2度新しい区切りが気持ち的にも持てることになり、今年は元号切り替えにより3回目の区切りとなります。しかしながら、環境の変化や暦などが新しくなり、区切りがつけられていたとしても、人の心はそれで何か変わるのでしょうか。それで心のコントロールがうまくいく人は良いですが、何も変わらない、もしくは益々悪化していく様な恐れ、悩みがある人もいるかもしれません。

 

  聖書では、下記のようにキリストを信じる人は日々内側が新しくされると書かれています。内側が日々新しくされるとはどういう意味でしょうか。まず、これは環境的な要因や自分自身に言い聞かせるということで心が新しくされるものではなく、キリストの霊(聖霊)が人の内側(心)に働き、新しく変えられていくことと言えるでしょう。具体的には、日々、新しい悩みや事件に直面する人、もしくは単調な生活で飽きてしまっている人、仕事や介護で忙しくて何も考える余裕がなく日々流されていく人、悲しみ・恐れ・止めなければならない悪習慣に捕らわれている人。。それぞれ状況が異なるとしても、信仰が与えられると、聖書の言葉をとおしてキリストの恵により、その時はあせったり感情の起伏が起こるとしても、落ち着けるところへ導かれる、満足して神様に感謝する心に変えられる、これが日々心の中で起こることが、日々新しく変えられることだと思います。これは、傍から見てもわからないことですが、その人の心がこのようにかえられて神様に感謝できる日々を保てるという事こそが、日々内側が新しくされている証拠なのです。

 

  キリストを信じて信仰を持っていても、性格などすぐには変わらない部分もあり、また罪も犯してしまうこともあり、突然聖人になるわけではありません。しかし、善悪の判断にしても相対的(人や社会によって異なる)なものでなく、神様の基準でこれはして良い悪いと心に示されます。すると、心が悪から守られ、たとえ弱さの故に悪いことをしてしまったとしても、悔い改めれば神様から赦しが得られ、そのようなことを繰り返ししていくうちに罪を犯さないように徐々に変えられていきます。そのためにキリストが十字架にかかったからです。

 

  クリスチャンは、たとえ自分の願い通りにならなくても、自分の弱さ不完全であっても、神様がベストの答えと必ず導いていくださると信じて委ねることができます。自分で心をコントロ―ルして守ろうと一生懸命頑張らなくも、もしくは人間が造った神々に願をかけ、お金を使う必要はないのです。このイエス・キリストを通して与えられる恵を感謝しつつ、変えられなければならないところがたくさんある、欠けのある私は、日々忍耐できる、謙遜な心に変えられるよう祈ります。

 

  「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人は」衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。」  第2コリント人への手紙4章16節

 

 

Apr. 18, 2019

 桃の木を植えて

 

   昨年の秋、ふと桃の木の苗に目がとまり、庭に植えました。今の庭には前の持ち主の方により生垣も含めて季節ごとに様々な花が咲くように植えられているので、十分だったのですが、私たちは自分たちで何か植えて育ててみようと思ったのです。肥料をまき、水をやり、順調に根付くかなと見ていました。

 

  冬になると、緑の葉が紅葉することなく全部落ちてしまったので、「枯れてしまったのか!?」と植物に無知な私は悲しくなりました。折しも、夫が仕えている益子にある教会の庭に、こじんまりとした枝垂桜の木が植えられていて、毎年美しく咲いていたのですが、昨年の春を最後に突然木が枯れてしまったばかりでした。それで木も虫や病気にやられてしまわないよう、世話が必要なのだと思っていた矢先だったのです。しかし、我が家の桃の枝には、よく見ると春に向けての花のつぼみが、細い枝の先に用意されていて、ほっとしました。そして、厳しい冬を超え、今庭先で美しく桃の花が咲いているのを見ることができ、神様の創造された自然の美しさに感動しています。

 

  春はイースターの季節で、イエス・キリストの復活を特に覚え、希望を新たにされる時でもあり、自然界を見ても新しい命があちこちで芽生える、生まれる時期でもあります。キリストは十字架にかけられ、確かに死んだことが確認され、埋葬されましたが、3日後に甦られ、弟子たちに現れた後、天に戻られたことが聖書に記されています。そのことを目撃した大勢の弟子たちが、全世界に出て行って、キリストの十字架と復活のことを伝え、このことによって人間の救いがあるという福音を宣べ伝えました。そのおかげで東の果ての日本に住む私のようなも、この福音を聖書を通して知ることが出来、魂が死んでいたような状態から、新しい命が与えられました。キリストを信じる信仰が与えられていることは本当に感謝です。なぜなら目には見えないですが、今も天でキリストが生きておられ、信じる者の心に聖霊が与えられ、日々新しく生きていけるように様々な生活の場面で導いて下さっていることを、ことさらイースターの時は喜びをもって実感できるからです。そして、信仰の成長を見守り、また必要な助け、慰め、励ましを人を通して、聖書の言葉を通して与えてくださるキリストを心から感謝しています。

 

  桃の実がなるのは、数年先のことだと思いますが、今後引っ越したとしても、可能な限り一緒にこの木を持っていき、この小さな木が季節ごとに成長していく様子を見届けたいと願っています。私たちのような小さな者の信仰が成長していくのを、神様が忍耐と愛をもって見守って下さるように。

  

 

  「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。 」 第一コリント人への手紙3章7節

 

 

Apr. 11, 2019

 ムネアカドリ(ヨーロッパコマドリ)

 

   ヨーロッパの国では、顔から胸にかけて赤い色をしたコマドリが生息し、特にイギリスで人々に親しまれる、別名ムネアカドリという野鳥がいるそうです。この特徴的な赤い胸の由来にまつわる話がいくつかあり、その一つは3-4月のイースターの時期に語られ、日本でも絵本「むねあかどり」*として出版されています。

 

  その内容は、かつてこの鳥は全身が灰色だったので、この鳥は「なぜ自分だけ他の鳥のように色鮮やかじゃないの?」と、色がつくために様々な努力(胸が張り裂ける程鳴いたり、他の鳥と激しく戦ったり、赤いバラの近くに巣をつくったり)をしましたが、灰色のままでした。ある日、十字架に架けられたイエス・キリストを見ていたたまれなくなり、その頭にささっているいばらの冠を外そうとして血が胸にかかって赤く染まり、以来胸が赤い鳥になったというお話しです。十字架上でキリストの血潮で胸を赤く染められたこの鳥に、キリストはこう言います。「ありがとう、これからは本当にお前はムネアカドリだよ」

 

  私はこの絵本を読んだとき、胸が熱くなりました。子供たちはどのように感じ取るのかはわかりませんが、私はこの灰色のコマドリが、赤い色をつけようとして一生懸命努力しているところが、まるで人間:自分が自身の力や能力で清くなろう、また美しくなろうと試みるが、どうにもならず、失望して諦めていることと重なったからです。この鳥が十字架に架かったキリストに近付き、その血がかかることで、本来の美しさを持つ名前の通りのムネアカドリになったように、私たち人間もキリストに近付き、救い主として信じた時、罪が赦され、清められ、また本来神様が創造された時のあるべき美しい人間に創りかえられることを暗に示しているように思うのです。

 

  今日は、幼稚園の保護者の方のための聖書を学ぶ会があり、この絵本を紹介してイースターのお話をしました。夫が幼稚園の礼拝のなかで、この絵本をこどもたちにイースターのお話しとして読み聞かせをしているからです。お母さんと子供がこの絵本を通して、イースターを単なるウサギや卵をモチーフとした春のお祭りとしてとらえるのではなく、本来の意味(キリストが十字架にかかって死に、3日後に甦ったことを記念する日)を知るきっかけとなればと願っています。

  

 

  「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」  ローマ人へ手紙5章8-9節

 

  *ラーゲルレーヴ/著 日本基督教団出版局

Mar. 31, 2019

 賛美を歌う理由

 

   讃美歌は、小さいころから私の身近にあり、歌ってきた音楽です。昔から歌われている賛美歌の他に、現代的なプレイズソング、またゴスペルソングと賛美歌といっても様々な種類があります。しかし、どれも歌詞の内容は、神様をほめたたえる曲で、元来礼拝の時に神様に賛美を捧げるための歌です。若い世代が多く集う欧米の教会の流れを受ける教会では、バンドに合わせて、まるでライブハウスのような雰囲気で賛美を歌っているところもありますが、日本のほとんどの教会は昔ながらのオルガンの伴奏で静かに歌う形式です。

 

  私はどちらも好きですが、今通う教会はオルガンで静かに歌う賛美歌で、以前はギターに合わせて歌うプレイズソング形式の教会に通っていました。今の教会で、奏楽担当の時は事前に練習するので、自然と頭の中で静かな賛美の曲が流れています。また、小さい時はその歌詞の意味を考えることもなく歌っていたのですが、今はその詩を味わって歌うことができます。

 

  賛美を歌う理由は、人が神様をほめたたえる為に捧げる歌であって、自分が歌っていて高揚感を感じるためにあるものではありません。もちろん、信仰がない人が、例えば趣味でゴスペルを習う場合、もしくは教会の礼拝にたまたま参加して讃美歌を耳にすることもあります。TVのコマーシャルでさえ「アメージンググレース」を用います。キリスト教の讃美歌とは知らず、単に音楽のジャンルとして、ゴスペルを聞いたり歌ったりする と楽しいですし、良い音神様が私だけに用意された計画があり、楽として、賛美歌自体がそれに触れる人に良い影響を与えているはずです。

 

  しかし、キリストを信じる者にとっては、讃美は神様に捧げる、礼拝の一部です。同時に賛美を歌うことにより、自身が励まされたり、慰められたり、喜びが溢れてきます。つまり、賛美を歌うこと自体が恵みを受けることなのです。キリストを信じる信仰が与えられると、自分がどこからきて、何のために存在するのか、生きる喜び、生きがいは何かということが、自ずと納得できるようになります。自分は神様によって創られ、神様から愛されるために存在している。そして自分はこの世に生きている理由は、神様の大きな計画の中で私のような小さい存在も役割があり、特別に才能がなくても、人格が立派でなくとも、私として存在する意味があると知った時、今迄抱えていた不安や絶望感、虚無感が消えていきました。もはや人に認めてもらう必要も人と比較するして落ち込む、もしくは他者を見下す必要はないし、いいね!と、SNSで不特定多数の人にしてもらう必要もない。また、神の子、イエス・キリストが、私のような不完全な罪あるものを救うために、代わりに十字架にかけられて、そのおかげで私が赦され、神様の前にでられるようにして下さった、このことを知るにつけ、感謝を表すためにも、神様をほめたたえたいのです。これが賛美する理由であり、このことは、私の状況がどんなに良くても悪くても、いつも賛美できる変わらない真理です。

 

  聖書では、神様は賛美を受けるに相応しい方だとされ、そして、今日の箇所のようにその讃美は永遠(とこしえに)に続くとあります。神様この地上に生きている間にだけ賛美はなされるのではなく、天国でも行われており、もっとスケールの大きな数の天使たちの合唱隊も賛美を神様に捧げ、人間だけでなく全ての生き物も賛美を歌っているようです。*1 これは想像を絶する光景ですが、天国に行った時のお楽しみとしてとっておき、地上にいる間はたとえ小さな賛美であっても、いつも神様に賛美の歌を捧げたいと思います。

 

  「しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。 」 詩編115編18節

 

  *1 黙示録5章11-14節
Mar. 25, 2019

 親の介護

 

   「ママが、骨折した」日曜の夕方、夫と宇都宮の会合からの帰り、ふと妹から着信履歴があったので、メイルを見るとこの件名が目に飛び込んできました。急いで妹に電話をかけて様子を聞くと、右手首骨折し、応急処置はされているが後で手術が必要とのこと。86歳まで大きな病気、けがをしたことがなく、元気でどこへでも出かけ、高齢でも教会の様々な奉仕活動を喜んでこなしていきた母。多くの高齢者が辿る道:病気や骨折で入院し、要介護状態。。。と自分の親がならないよう、日々守られるように祈ってきましたが、とうとう骨折してしまったかとショックでした。しかも利き腕の骨折だと、日常生活に部分的に介護が必要となります。

 

  介護関係の仕事を以前していても、いざ自分の親を看るとなると、利用者さんのご家族に説明するようにはいかないことが思い知らされます。本人で出来る事はしていかないと筋肉が衰えますし、だからといってムリにしようとしてバランスを崩して更なるケガを起こすこともあります。本人がするのを横で見守るのと手を貸すのとをどこまでやったらいいのかは、実際介護してみないとわからないものです。また、心配して娘があれやこれや口で言うと、本人を苛立たせてしまいますし、細かい配慮が必要となってくるでしょう。

 

  アメリカのある研究によると、心配事というのは85%実際起こらないそうで、残り15%の確立でその心配していた事が起こるという統計があるそうです。しかし、その15%の中で心配事が起こってしまうだけでなく、それ以上に大変な状況となることもあります。突然の病気の発症、事故、災害はいつ起こるかわかりません。

 

  聖書では、人はこの世に生きている限り、痛みのない世界で過ごすとは保証していません。様々な困難が起こるのは避けられませんので、心配事はつきないでしょう。では、神を信じても、信じなくても困難が起こるなら、どうしたらよいのでしょうか。信仰が与えられている幸いは、どんな状況になろうとも、今日のキリストの言葉(約束)より、目に見えないけれどイエス・キリストがいつも共にいて下さるという安心感があることです。誰も助けがないと思える状況において、孤独の中で、キリストがに祈りつつ、先がどう動かされていくか落ち着いて様子を見ることができます。すると、意外な方向から助けが与えられることがあります。それを偶然ととるか、神がコーディネートしてくれたととるか、祈る者は後者と信じます。事が起こった時、一瞬不安はよぎりますが、すぐになんとかなるという、良い意味で楽観的にとらえることができるのは、信仰によって支えられているからです。

 

  今、入院、手術の立ち会い等で実家にきていますが、普段は離れて暮らしているため、母と一緒に過ごし、介護できる機会が与えられるのは感謝なことだと思わされます。ただ、夫には不便をかけ申し訳ないのですが、夫は「お母さんと一緒にいてあげて」と優しく送り出してくれています。本人も痛みを堪えながら「左手が使えるようになっていいのよ」と手術後に予定されてる旅行や女学校時代の同窓会などの参加に向けて、意欲的にリハビリをしていく様子です。母のことも、主イエスが共にいて下さると信じ、娘があれこれ心配しすぎないで、母に寄り添えればと願います。

 

  「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」 マタイによる福音書28章20節

 

Mar. 18, 2019

 ニュージーランド乱射事件

 

   「皮肉なことに、私の父が日本へ呼んでくれたんだと思います。。。」先日も、再び痛ましい乱射事件がニュージーランドで起こりました。この事件が勃発した日の数日前から、私たちの教会の信者の方が危篤状態となり、急遽クライストチャーチ在住の息子さん家族が日本へ飛び立ちました。そして、その翌日にこの事件が起きたのです。息子さんは現地の学校の教師でしたので、もしお父さんのことで日本に来ることがなければ普通に学校で働いていて、この事件に巻き込まれ、生徒たちと教室の中で身を潜めなければならない状況だったと、聞かされました。彼の小学生の息子さんも一緒に来ていましたが、その息子さんの親しくしていたお友達がモスクで殺されてしまった一人だったと聞き、そんな幼い子まで。。と涙が出ました。世界各地でこのような惨劇が繰り返されるたびに、心が痛みます。犠牲者の方々の遺族に慰めが与えられるように祈るばかりです。

 

  人間の残酷性は、歴史を見ても何千年前から変わらないと思うにつけ、深いため息がでます。最近見た映画「パウロ」は、2千年前のローマ帝国時代にて迫害の中でのクリスチャンたちの様子が描かれていますが、目をそむけたくなるようなシーン、痛ましいシーンがたくさんありました。クリスチャンは、ローマ皇帝から迫害され、生きたまま柱に括りつけられ火がつけられて街灯としてローマの街で燃やされていました。また大人も子供、女性もクリスチャンは、競技場でライオンに食べられるという見世物とされて、人々がそれを見て興奮していました。

 

  聖書のいくつかの書簡を記したルカという医者は、パウロという牢に繋がれている伝道者に感情をぶつけます。「なぜこんなことが?」「どうしたらよいのか?」と。パウロは武力ではなく、愛を持って戦うように勧めます。それは自分を殺そうとしている敵に良くすることを含み、イエスの教え「敵を愛しなさい」の実践です。実際、ルカはパウロのいる牢獄の看守の娘が他の医者から見放され死にそうになっていた時に、医者として治療をし、その看守自身をあえてクリスチャンの隠れ家に送って必要な物資を持ってこさせます。するとその看守もこの愛で、変えられていきます。

 

  私のような平穏な生活を日本で与えられている者でも、ちょっとしたことで心は動揺してしまいます。高齢の母が転倒して骨折したり、様々なことがありこれらをこなせるのかしらと頭が痛くなったり、経済的な心配など、重なるときは一気に重なります。しかし、どんな状況に陥っても、思い煩わず、神様に今生かされていることを感謝しつつ、必要な助け、願いを祈るようにと、パウロが勧めている今朝の聖書の箇所に励まされ、心が引き上げられました。あまりにも酷いことが身に起こり、主にあって喜べない時でさえ、全てそのままを、神様に祈りで叫んでよいことは幸いであります。そして、他者に対する憎しみをエスカレートさせてしまうような人が、一人でも神に立ち返り、自分の悪い思いを悔い改めて、神を畏れるようになってほしい、このような惨劇が繰り返されることがないようにも祈っていこうと思います。

 

  

  「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 ピリピ人への手紙4章4−8節 」

 

Mar. 14, 2019

 名前の大切さ

 

   もし、自分の名前が親によって、奇妙な名(キラキラネーム)をつけられていたら。。先日、親が子に「王子様」という名前をつけ、その子が改名を裁判所に申し立てたというニュースが報じられました。ひと昔前ですが「悪魔」と名付けられた子がいて、ニュースとなったことを思い出しました。親は子に名前をつける際、その子の出生に関わるなんらかの意味をもって名を選び、受け入れられているものが名前となっています。しかし、子が社会生活をしていく上でその名前により著しい問題が生じてしまうのであれば、法律に基づき名を変えるしかありません。

 

  「名は体を表す」ともいわれ、名はその実態を表すと一般に言われますが、人の場合はどうでしょうか。その子供の性格や品性は親からの遺伝子を受け継いで似るところもありますが、育った環境・社会により影響をうけます。名前がどの程度、人格形成に影響するかは個人差があると思いますが、その名の故に外部から受ける影響はあるはずです。名前というのは、その人が唯一の「その人である」というアイデンティティでもあり、非常に重要なものです。

 

  聖書には、神は唯一ですがいくつかの名前を持っていることが示されています。そして、それぞれの名や称号により、神がどういう神か、どういう性格を持っているかがわかります。これらの神の名前すべては、神が私たち人間に与えようとしている祝福を表しています。なぜ「キリスト教」と呼ばれるのかというと、イエス・キリストを通して表される神だから、キリスト教となります。イエス・キリストという名の意味は、イエスが「主は救い」という意味で、キリストというのはヘブライ語のメシヤ(救い主):「油注がれた者」という意味です。クラッシックの音楽会でよく演奏される「メサイア」はここから来ています。またイエスは「インマヌエル」とも呼ばれ、「神われらと共にいます」という意味です*1。

 

  その名前の通り、聖書の神は救って下さる神、また共にいて下さる神です。更に、どうやって、何から救うのかを聖書を通して、もしくは人から聞いて知れば知る程、信頼できる神なんだなと思うようになります。例えば、私たちの存在は、イエスが命を捨てる程に大切な存在として扱われていることを、下記の聖書の箇所で羊と羊飼いのたとえから話されています。キリスト教は単なる宗教(レリジョンReligion)ではなく、”関係”(リレーションシップRelationsihp)だと言われるのは、神様との関係を経験する醍醐味があるからです。人間同士の関係構築においてもお互いを良く知る必要があるように、神と人との関係も神が一人一人を知っていることを知り、私たちも神を知る必要があります。

 

  もし、人から大切に扱われていない経験をしている人、誰も信用できない人がいたら、この神は自分を唯一の存在として大切に思ってくれている信頼できる存在だと信じて、祈り、その祈りが答えられるという双方向の経験をしてほしいと願います。なぜならキリストの名で神に祈ると、それが答えられ、心に喜びが満ち溢れるという、神の確かな約束が与えられ、多くの人がその経験をしているという証があるからです。*2

 

 「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。…そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 」ヨハネによる福音書10章14−15節

 

 *1 マタイによる福音書1章23節
  *2ヨハネによる福音書10章23−24節「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。 」  わたし→イエス、父→天の神のこと。
Mar. 11, 2019

 イースト菌パワー

 

   那須塩原エリアは美味しいパン屋さんがたくさんあります。もともとは、那須が別荘地として開発されるに従い、こだわりのパンのお店が増えて行ったそうです。先日、パン好きの私は最近TVで紹介されたパン屋さんへ行ってみると、行列ができており、ほぼ開店直後にメイン商品は売り切れとなっていました。このようなパンは高価なため、普段はホームベーカリーで食パンを焼いて食べています。ホームベーカリーはオーブンがなくても自動的に焼き上げてくれる便利な機械で、朝起きると、パンの焼きあがるいい匂いが漂うこと、ふかふかのパンを食べられること、保存料など人口的なものを入れてないため安心して食べられるという利点があり、非常に満足しています。

 

  パンはイースト菌を入れることで膨らみます。イースト菌(酵母)は目に見えない程小さな菌ですが、生地全体をふくらますという、驚きのパワーを持っています。聖書には、ユダヤ人の間では過越しの祭りというのがあり、その間はイースト菌なしのパンを食べるという慣習があり、何千年もそのお祭りが彼らの間でなされています。その由来は、ユダヤ人(イスラエル人)が昔エジプトで寄留していた時に奴隷として酷使されていたのを、神がそれを顧みてエジプトから約3百万人の民を脱出させた時、夜中に急いで逃げる為、パンを発酵させる時間がなかったのもあり、以後この出エジプトを覚えるためにイースト菌を除いたパンをこのお祭りの7日間に食べます。*1

 

  イースト菌を除くというのはあることの象徴であります。小さな悪でもほおっておくと、パンが膨らむように悪が広がってしまうので、除く必要があるということです。下記の箇所にあるように、イエスご自身も「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われていて、彼らの悪い教えや偽善を指して言われました。生活の中で「これくらい、いいよね」と思い不正や悪い事、偽善を続けると、大変なことになります。またちょっとしたことで相手に対して嫌悪感を抱きそれを持ち続けると、それが悪口・ゴシップとなり、自分だけでなく、周りの人をもまきこんだ人間関係の悪化を引き起こします。

 

  自分で内側に少しでも苦い思い、つぶやき、不安等があれば、すぐに悔い改め、罪を赦されきよめて頂き(1ヨハネ1:9)、聖霊に示されて、日々主の前にもっていきたいと思います。
 

  「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」 ルカによる福音書12章1−3節

 

  *1 申命記16章1−8節 出エジプト記12章15−20節 過越しの祭り参照

 

  
Mar. 7, 2019

 筋トレは必要か?

 

   私は20代の頃からスポーツクラブに行き始めました。その後、何年も行かない期間も度々ありましたが、今に至るまで少しづつ有酸素運動とウエイトマシーンによる筋肉トレーニングを続けています。最初はダイエットのためでしたが、40代からは健康のため、病気にならないよう免疫力UPのため、また生活習慣病予防のためと目的が変化してきました。それに応じて、トレーニングの量・頻度も少なくはなっていますが、今は安く利用できる市のスポーツ施設を利用しています。

 

  なぜこんなことをしなければならないんだろうと思いながら、重いウエイトを引っ張ったり、持ち上げたり何回か反復し、黙々と自分で決めた量をこなしていきます。トレーニングすること自体を楽しめる人もいると思いますが、私のように怠け者は、出来ればしないですめば越したことがなく、家でゴロゴロしていたいものです。それでも、やれば体がとても調子良く、目的のために続けています。また、人よっては、筋トレをしなくても毎日歩いている方など運動の方法は人様々ですが、とにかく重力に逆らって体を少しでも動かすことが、健康に良いのではと思います。

 

  身体だけでなく、私たちの品性も筋トレが必要だと思います。したくなくても、しなければならないことや、背負いたくない困難も起きてしまうことが人生の中で誰にでもあると思います。何もおこらず、人生順風満帆であれば楽ですが、同時に我慢すること、耐え忍ぶ機会もなく、いつも他者(例えば親とか)が自分の代わりに何かをしてくれてしまうと、自分で問題をどう対処するかという考える力もつきません。そのような人は社会生活の中で独りで生き延びていくのが困難となるでしょう。精神にウエイトがかかる、つまり試練を通ることによって、ちょっとのことでは弱音をはかずに、なんとかやって行こうという強さが育くまれ、忍耐力がつき、成長する機会となるのではないでしょうか。

 

  もちろん、皆がそんな簡単に心が成長できたら、心の病もおきないですし、世の中もっと問題がないはずです。人間は自分の意志の力だけでは、乗り越えられない状況があります。ですから、私は信仰が必要だと思います。信仰とは目に見えないものですが、これがあれば自分以外の、人間以外のもっと大きな存在、神の存在を信じ、神が良くしてくれる、救ってくれるという希望を持てます。キリストの弟子ヤコブという人は下記の箇所にあるように、試練をいわば信仰の筋トレのウエイトのように例えています。人生に苦難や辛いことが起こることによって、自分の信仰が試され、結果的に忍耐が生じ、成長するというのです。「私は信じています」、と口で言うだけでは、それが本物かどうかわかりません。何か悪いことがおこり、それが自分の思う通りに解決されないと、ああ、この神は私を助けてくれないから、だめだ、と信じるのを止めてしまうかもしれません。その人の思うとおりにならないと、他の神を探すからです。

 

  しかし、聖書の神はご利益宗教ではありません。逆に、神は悪い事がおこっても、良いほうに繋がる様、その試練を用いられます。このことを信じて、感情的にはアップダウンしながらも、忍耐して、神が道を開かれるのを待つという選択をとることで、信仰が成長させられます。また、自分だけでなく、同様の問題を抱える人にも励まし、慰めの言葉をかけられるようになると書かれています。*1 私は感情的には、試練は勘弁してください、ウエイト挙げられるのは嫌です、と言いたいところですが、私の能力・弱さをご存知である神にウエイトの重さはお任せすることにします。そして、自身の忍耐力がアップされるだけでなく、他者を励ましたりできる品性に変えられていきたいと願います。

 

  「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」 ヤコブの手紙1章3節

 

  *1「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第2コリント人への手紙1章 4節
Mar. 6, 2019

 幼い子のように

 

   近代になって、ようやく法の下の平等が法律で定められ、人権という概念が普及してきていますが、昔は日本でも西洋諸国でも、女性と子供は見下された存在でした。神はもちろん、このような差別や階級を設けたことはなく、これらは人間が作り出したものです。イエスがこの世に生きておられた時代もこのような不平等、差別はあり、イエスの弟子たちは子どもなんかに自分たちの先生を煩わせてはならないと、追い返そうとしたところが下記の箇所です。

 

  イエスはやさしい、愛の方であり、憤るというイメージはないのですが、聖書にはイエスが憤る、もしくは少し荒々しいふるまいをなさる箇所が記されていて、それらには共通した理由を見いだせます。それは、人が神に近付こうとすることを誰かが妨げる時、また妨げるシステムに対してイエスは怒られています。子供たちがせっかくイエスに祝福してもらおうと近寄ったのに、弟子たちはそれを妨げようとしました。また、神を礼拝する神殿において、高額の手数料を支払わないと、捧げもの(お金、動物等)を捧げられない商売が当時行われていました。その商売人から宗教家たちが利益を得ており、一般人はお金を払わないと礼拝が出来ないシステムになっていました。つまり、この神殿のシステムが多くの貧しい人たちを神から遠ざけていることに対してイエスは怒られ、その商売人たちの机をひっくり返し、売り物の動物たちを放ちました(鳩は除く、なぜなら鳩は飛んでいったら、取り戻せない為。一応イエスは、彼らの所有物を失わせないという配慮を取られています)。

 

  愛とは、すべてに対して寛容にいいよ、いいよと許可することではありません。悪に対しては断固として拒否し、憤ってよいのです。一方、義憤はあってよいのですが、イエスは武器で戦うなとも言われています。その思いを暴力に発展させてはならないのです。武力による争いは復讐の負の連鎖を増大させます。代わりに「自分を迫害する者に対して祈りなさい」*1、「悪に対して悪で報いてはならない」*2 と言う聖書の教えに従い、悪を行う人が悔い改めて悪い行いをやめることを祈ることは出来るでしょう。これが、一つの武器を使わない戦いであり、相手に勝つ事が出来るのではないでしょうか。もちろん、悪から逃げる、隠れることも必要です。神は私たちの避け所であり*3、危険が迫った時に守って下さる方だからです。

 

  神はイエス・キリストを通して、私たちの心が神から遠く離れている状態をご自分に近付けようとされ、その道を開いて下さっています。それは、資格や階級、人種に関わらず、お金もいりません。ただ幼い子が単純に疑わずに何でも信じるように、キリストを信じるだけで誰でも神に近付き、神の恵と愛を受け取れるというキリストという道です。その道を歩み続けたいと願いつつ、同時に自分が無意識にしていること、正しいと信じて熱心にしていることにより、他者が神に近付こうとしていることを妨げてしまわないように、神に助けて頂きたいとも思わされました。

 

  「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」  マルコによる福音書10章13-16節

 

  *1「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイによる福音書5章44節
*2「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」 ローマ人への手紙12章17−18節
*3「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」詩編46編1節

     

 

     

 
Mar. 2, 2019

 レント(受難節)に思う

 

   「レントの時だから、質素なものを食べなきゃ。。」と、教会のある婦人が言いました。キリスト教が文化的習慣に浸透している国では、受難節(レント)という暦が毎年あって、クリスチャンはイエスの十字架上の死をしのび、悔い改めと真摯な祈りに時間を当て、部分的断食や嗜好品を避ける習慣があるそうです。実際、私はそのような慣習をしりませんでした。イエスの十字架の受難を思い起こすために、果たしてこのような嗜好品を控えることに意味があるのだろうか?もっと重いことなのではないかと。もちろん、そのような習慣を真剣に守っている敬虔な方々に文句をつけるつもりはないですし、尊重したいと思います。しかし、私は個人的に、ある儀式や慣習が聖書に照らし合わせて意味がある、もしくは関係あるものか、その由来を確認するようにしています。そして、イエスが私たちに受難のことを思い起こす為に、何を望まれるだろうと考えさせられました。

 

  私が今迄通っていた教会では、レントの時に限らずいつもイエスの受難・復活を思い起こすように教えられてきました。イエスはご自身の十字架の受難のことを弟子たちに予告された後に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)と話されました。具体的に「自分の十字架を背負う」とはどのような意味なのでしょうか。この言葉が「わたしに従いなさい」にかかっていることから、自分の十字架を背負うことが主イエスに従うため必要なことであろうと考えました。

 

  パウロが「…わたしはキリストと共に十字架につけられたのです。生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」(ガラテヤ2:20-21)と言っているように、自分を捨て、自分の十字架を背負うとは、私の思い、欲求を捨て、キリストのなさりたいことを選び取るという新しい生き方をしていくことです。つまり、古い私は十字架上で死んでいることを思い出すためにも、 自分の十字架を背負うという表現をイエス様はなされたのではないかと思います。

 

  主を信じて信仰生活を歩み始めた後でも、すぐには自己中心的な自分は変わらないし。キリストが内におられるのに、古い自分がまだ残っていることを認めざるを得ません。しかし、この聖霊によって徐々に新しく私の内側がキリストの愛へと変えられていくこと、最終的にはこの肉体が死んで、天国で生きる新しい体が与えれる時には、古い自分からは完全に開放されるのではないかと信じています。

 

  地上にいる間は失敗しながらも、その都度悔い改め、イエスに従おうと日々歩むことが、イエスが望まれることではないでしょうか。ご自分の命を犠牲にしてまで愛して下さった主に従うことは、私たちの喜びであり、またキリストにあって新しく生きる命を維持するために必須です。聖書に記されているイエスの教えを聞いて、行うことが大切であることを、イエスご自身が言われています(マタイ7:24-27下記参照)。ルカの福音書では同じ自分の十字架を背負うという個所に「日々」(ルカ9:23)ということばが加えられています。私たちも不完全であっても、日々、イエスに喜んで従うために、古い自分を捨て、主の御心を求めつつ歩めるように、神に助けて頂きたいと願います。

 

  「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」マタイによる福音書7章24-25節

     

 
Mar. 1, 2019

 はやぶさ2号のリュウグウ着陸:ミクロからマクロまで

 

   地球から3.4億km離れた、新しい小さな星リュウグウ。日本のJAXA は2月22日8時29分に小惑星探査機はやぶさ2号の着陸を成功させ、日本中、いや世界中にそのニュースが駆け巡りました。昨今の宇宙科学の進歩には、目覚ましいものがあります。人は新しい星を発見しては名前を付け、探索する宇宙船を送り出します。

 

  今日の聖書の箇所を読むと、神は、すでに星の数を定め、名前を付けておられるということが書かれています。なぜなら、人が科学を通して探求するはるか昔に、神が宇宙を創造されたと聖書に記されているからです。なんとその力と知恵は測りがたいことでしょう。

 

  一方、主(神)は、人間一人一人の心の内側をご存知で、その心の傷を癒やして下さり、打ち砕かれた者に寄り添って下さる方です。人間の存在に比べてはるかに大きな宇宙も把握されている偉大な、人知を超えた神が、私たちをケアして下さっていることを知ると、安心して神様に委ねようと思わされます。

 

 

 

  「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。

主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。

われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい。」

               

詩編147篇3-5節

 

  

     

 
Feb. 16, 2019

 壁の建設

 

   国境の壁の建設。米国とメキシコの国境に壁を造ることに関して、米国では大統領と議会、また人々の間で論争が起きています。私たち日本人は限られた情報・ニュース等でしかその状況を知ることができませんが、先日、米国在住のアメリカ人の方のこの件を尋ねてみました。すると、その方はクリスチャンですが壁建設が必要であるとして大統領を支持していると答えました。理由は国民をテロや麻薬密売人から守る為、壁を作らなければ国民が危険にさらされるからだとのこと。なぜ、アメリカで多くの人がこの大統領の政策を支持しているのかと不思議に思っていたのですが、一つは「恐れ」に対する防衛反応なのではないかと思わされました。

 

  ある民族が、周辺諸国へ移動、移民すること(それが合法であれ、違法であれ)は歴史的にも起こってきた現象です。どの民族でも、元来自分の生まれた国の文化、食べ物、言語のもとで住み続けることを好むでしょう。しかしそれでも、古代から人々は様々な理由で他の場所へ移動してきています。ヨーロッパでの民族の大移動、アフリカから強制的に奴隷として移動させられた民族、また昨今では政治的不安定のため難民として他国へ逃げざるをえない人々もいます。メキシコからアメリカに人々が移動する根本的理由の一つは、メキシコの貧富の差です。貧しいメキシコの人々が、なんとか生きるために豊かなアメリカに移住したいと願うのです。テロや麻薬の密売を作りだす構造は、人々が通常の経済生活ができず、その不満因子が暴力や犯罪へと集約されてしまうこと、そして他者を犠牲にしてまで富を得たいという「欲」でしょう。私は壁を作るコストをかけるより、より効果的な政策は、メキシコ政府への貧困対策、雇用政策を経済的に支援することではないかと思います。しかしこれも、メキシコ政府自体がうまく機能していない為、簡単に事は進まない可能性が高く、非常に難しい問題です。

 

  壁が造られるところには、争い、憎しみ、犯罪、偏見があります。なぜなら、これらの反応として恐れ、防衛本能が壁を造るからです。しかし、イエス・キリストは隔ての壁を壊し、一つにする方だと下記の聖書に書かれています。なぜなら、キリストの教えは壁とは逆の、和解、赦し、善行、一致があるからです。人はどうしても自分が一番大切ですし、自分中心であり、その結果、自分を脅かす他者に対しては、物理的壁だけでなく心の壁を造ってしまう臆病なところがあるのではないでしょうか。しかし、全き愛は恐れを締め出すとも聖書に架かれています。* キリストの愛のあるところには、恐れとそれに伴うマイナスの感情、行動が少なくなっていきます。

 

  私も臆病者で、恐れや不安、心配事が出てきます。しかし、それらが出てきた時、自分で対処するか、神様に助けを求め委ねるかのどちらかを選択することが出来ます。私は後者を選び、神様を信じて委ね、必ず守られるという安心感が与えられてきていることに感謝しています。まず、神様との間の壁を取り除き和解する、それは神様を信じることです。すると、人同士との和解や赦しが壁を造ることより大切だということに気づかされます。そのために、キリストの十字架が必要だったのだと。人間同士の関係の修復は簡単に出来ることではないですし、時間がかかります。しかし壁を造ろうとせず、敵意を捨て、信仰を持って神様に和解を祈り、助けを求めるていきたいと思わされました。

 

  「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼました。 」 エペソ人への手紙2章14-16節

 

  *「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」 第一ヨハネの手紙4章18節

     

 
Feb. 16, 2019

 説明ではなく約束によって

 

   昨日はある方のご主人の前夜式に参列しましたが、その方は牧師であり、自ら司式をなさっていました。故人の彼女の夫は62歳と若く、現役で働いている時に突然癌が発症し、4ヶ月で天国に行ってしまわれたそうです。牧師という職業は、お葬式の司式を執り行うことが仕事の一つで、私の夫も年に何度も司式をすることもあり、私もそれを手伝ってきましたが、牧師として、自分の配偶者のお葬式の司式をすることは何と辛いことでしょうか。それでも彼女は笑顔で、涙を見せることなく、福祉施設で利用者のために親身に働き続けた夫を尊敬していると、そして夫とは天国でいつか会えるという希望を話しておられました。私は、その彼女の司式する姿に心を打たれ、涙が頬をつたいました。私がこの式で出来る事は精一杯賛美歌を歌い、故人を天にお見送りすることでした。参列した多くの方が、彼女のメッセージに心を打たれたのではないでしょうか。多くの職場の方々が参列し、そこからすすり泣く声が聞こえました。

 

  彼女は、夫の病状について医者から余命3−4ヶ月と言われても、諦めずに壮絶な癌治療を続ける夫に付き添い、奇跡的に癒されるよう神様に皆で祈り続けたそうです。亡くなる前の晩、夫の最後の言葉が「大丈夫だよ、死なないから。。」だったそうです。危篤状態にありながら、明日の彼女の仕事(牧師として礼拝をおこなう)があるのをわかっていてか、今日はもう安心して帰ってと言うかの如く、彼女を見送ったそうです。それが夫の最後の優しい気遣いだったと。私は、彼女のご主人にお会いしたことはありませんが、きっと家族に対しても、仕事上でも優しい方だったのだろうと思いました。

 

  なぜご主人は「大丈夫だよ、死なないから」と言われたのでしょうか。クリスチャンの信仰では、人はこの肉体で一度は死にますが、それから天国に引っ越して生きると信じます。彼は「僕は死んでも、天国で生きているから、大丈夫だよ」という意味で、彼の信仰に基づいて言われたのだと思います。私たちは、天国に行ったことがないし、行って帰ってきた人に会った事がないですし、科学的にも人が天国で生きていることを証明することはできません。つまり、このことについて納得のいく説明を得ることはできません。しかし、私は説明ではなく、ただ、そのことを保証する神様の約束を信じ、また、このことを信じている人々が希望を持って前向きに生きている姿から、その証を得ています。

 

  神様の約束は「死んでも生きる」と聖書に記されいます。この不完全な不自由な体でなく、天で永遠に神様と共に生きられる。この約束を信じることにより、一時的に今は悲しいけれども、希望があり、悲しみを乗り越えられるのだと思います。この世だけの生に限定されないが故に、この世でも自由があります。このような命を与えてくれたイエス・キリストに感謝しつつ、この牧師さんのご家族と職場の方々の上に、神様の慰めが与えられますよう祈りたいと思います。

 

 

 

  イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」 ヨハネによる福音書11章26節

     

 
Feb. 15, 2019

 神様は乗り越えられない試練は与えない

 

   オリンピック金メダリストの池江さんが白血病を発症されたことに関するニュースが、この連日報道されています。彼女の発言の中で、これは?と思ったことがありました。「神様は乗り越えられない試練は与えない」これは、聖書を知っているクリスチャンであれば誰でも聞き覚えのある、また私は何度もこの言葉に励まされている言葉です。

 

  人は試練や困難、危機的状況になると、神に助けを求めます。普段信仰心のない人でも、特定の神を知らない人でも「困ったときの神頼み」として、日本人の場合神社やお寺などに拝みに行くことでしょう。そして、その問題が願いとおりに解決される、そのご利益だけを求め、自分の思ったとおりに願いがかなえられないと、他の神に頼みにいき、物事がうまくいっているときは、神を意識することがあまりないと思います。

 

  聖書の神様は、それとは異なり、必ずしも人が願ったとおりに病気が治ったり、困難な状況が解決されたりしない場合もあります。またクリスチャンになったからとって、この世に生きている限り試練に遭うし、全て順調に物事はいきません。ある人は、「なぜ神様はこんなに試練ばかり、私に与えられるのか。」というほどに、次から次へと辛い状況に遭われることもあります。しかし、その場合でも、私たちの想定外のやり方で試練からの脱出の方法が与えられます。つまり、必ずしも私たちが常識的に、こうなって解決されると予想する通りでない場合もありますが、必ず神様の備えた脱出方法が与えられます。また、神様は乗り越えられない試練は与えないと信じられる、希望の約束が聖書に書いてあります。そのことを信じるか信じないかはもちろん、個々人の問題であります。多くの人は自分の力で乗り越えようと、神という存在抜きで、自分を奮い立たせて頑張るのではないでしょうか。しかし、誰もがそのような“強い心”を持っているわけではありません。

 

  もし神が存在し、私たちを愛しているなら、全て幸福な状態に保ってくれるはずだというのが、人間側の論理です。なぜ、人がしたことに因果関係がなく、病気や災害がその人におこり、多くの人が命を失い、遺族は悲しみの淵に置かれるのかは私もわかりません。ただ、自分自身も経験からわかることは、試練を通ることによって、より神様を求めるようになり、乗り越えられるような強さを自分で作り出さなくても与えられ、そして耐え忍ぶ力も与えられることです。すべてが順風満帆であると、与えられている恵が当たり前になり、感謝の気持ちも薄れがちです。しかし、当たり前のようにうまくことが進んでいるのは、この世に生きている間、実は神様の守りと恵があるからであり、自然とそうなっているわけではないことを、信仰によってとらえることができます。当たり前に、太陽が昇り、月が輝き、雨が降る。しかし、神様は悪人にも善人にもかかわらず全ての人の上に、物質的な自然の恵みを与えられるだけでなく、精神的な魂の恵みを与える、つまり平安を与えようとされている方です。ただ人間側が自分の思いが強くて、それを受けようとしないし、神様のほうも信じろと強制はしません。

 

  試練や困難は表面的には悪いこと、悲しいこと、不都合なことであり、不条理に見えるかもしれません。しかしそれが起こることを神様が許しているのは、何かそれに意味があり、良いことに変えられる、他者に意味のある影響を及ぼす計画があるからだと信じます。もちろん、感情的には悲しみがあります。その悲しみに対して、神様は慰めを与え、立ち直れるように導いてくれる優しい方です。決して神様が意地悪で、罰(ばち)を与えるためにその人に悪いことが起こるのではないというのが聖書の神様の性質です。

 

  彼女を含めて多くの病に苦しんでいる人々が元気になって回復されること、また彼女らの心が強められてこの試練を乗り越えられるよう、神様が脱出の道も備えて下さることを信じられるよう祈っています。

     

  「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント人への手紙10章13節)
Feb. 1, 2019

 在日外国人

 

   私の住む那須塩原市にはたくさんの工場があり、外国人の労働者の方々も働いています。インドなどアジアからの人々が多く、道を歩いている家族づれや、自転車で移動している外国人の方々を時折見かけますし、私たちの教会は日英同時通訳で礼拝をしているので、外国人の方々が日曜に来られています。

 

  クリスマスの時に、あるインドの女性が教会で日本での生活のことを分かち合ってくれました。彼女は夫の仕事のため幼い子どもと共にやってきましたが、最初は生活に慣れるのが大変だったそうです。言葉、文化、食べ物、全てがインドと異なり、たくさんの不安と不便もあったそうです。生活のために彼女自身も日本で働きたいとも思っていましたが、それも難しく、また子どもを日本の幼稚園に入れたいとも考えましたが、保育費が高く、難しかったようで断念されたとのことです。日本では自分で思い描いていた生活の通りにいかなかったそうです。

 

  しかし、彼女は神様が導いてくれるという信仰で、思い描いたこととは異なりましたが、、それ以上に良い機会が与えられたと感謝していました。クリスマスの時期には教会のキャロリングに参加し、高齢者の施設を回って一緒に賛美歌を歌えたこと、定期的に教会でのランチや、その他の行事に参加することで本当に恵まれて、楽しい時を与えられたと神様が備えてくれた日本での教会に感謝していました。私たちも、彼らに日本での良い思い出ができてほしいと願っていましたので、神さまが彼女の家族を異国地にて支え、恵を与え、導いてきたかを実際聞くにつけ、神様は素晴らしい方だと思わされました。この家族はこの春に任期が終わりインドへ帰る予定です。

 

  私はアメリカに住んでいた時、現地の教会に通っていましたが、外国人である私に教会のアメリカ人の方々はとても親切にしてくれたことを思い出します。特に、アメリカではクリスマス、感謝祭など家族で集まる時期に、家族がアメリカにいない私のような外国人を食事によく招いてくれました。また教会の様々な行事、集会にも積極的に声をかけて誘ってくれたものです。私が単身で孤独に陥らずにアメリカで生活できたのは、このような教会の人々の支えによったことは今でも感謝しています。彼らは、聖書の教えに従って、人に親切にし、仕えるという良い行いをしてくれていたのです。

 

  聖書には、外国の人で寄留している人の世話をしなさいという教えが昔からあります。なぜなら、イスラエル人の祖先が4千年くらい前に、エジプトで400年間寄留していたこともあり、祖国を離れ外国に住んでいる人々、孤児、未亡人(当時は夫に先立たれると生活ができなかった)の弱い立場を考慮し、良くしてあげなさいという教えでもあります。また、クリスチャンは、この世にあって寄留者、旅人のようであると聖書に記されています。なぜなら、この世ではなく天国が 最終目的地なので、それにむけての旅路がこの世での生活であるからです。そのような前提で生きると、この世での生き方が自ずと変わってきます。この世での富や生活の豊かさに対する執着が減らされ、また今の困難な状況、苦しみがあっても、これだけではないという天での希望が今生きている人生をも支えてくれるからです。

 

  現代の日本も、外国人の在住が増えてきています。周りにそのような方がいたら、親切にする機会を持てたらいいなあと思います。自分が以前してもらったからということだけでなく、自分もこの世では寄留者であり、神さまがその寄留者であるすべての人を愛し、生活を支えて下さっていることを覚え、人間同士も互いに助け合い、親切にしあう事、それが神様の私たちにしてほしいことだと信じます

     

  「(あなたがたの神である主は)みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。」  申命記10:18〜19
Jan. 29, 2019

還暦祝い 

 

   先日、私の友人で中国の方に、中国には還暦のお祝いはあるのかを聞きました。すると中国では親を敬うのは大切なことで、子供は大人になったら親の誕生日、母の日、父の日などにはプレゼントをあげ、彼女の家の場合、還暦や古希の祝いには10段のケーキを用意して大勢でお祝いをすると聞き、驚きました。もちろん、中国と言ってもその地方ごとに、また個々の家族ごとに差はあると思いますが、親を大切にすることの表れとして素晴らしいことだと思いました。また、この度還暦を迎えるという韓国の友人は、子ども達がハワイ旅行に招待してくれるそうです。今は人生100歳時代とも言われるようになりましたが、ひと昔前は、どの国でも60年健康に生きられるということは、お祝いに値する長寿だったのだろうと思います。

 

  私は親とは旅行には沢山一緒に行きましたが、恥ずかしながら、費用を自分が負担して旅行に連れていけたことがない娘です。考えてみると、私は親にいくつになっても頼っているところがあり、親に対して孝行が足りないといつも思わされます。では、何か大人になって両親のためにしたかというと、父の仕事で必要なパソコン関係のことは遠隔で手伝ったりはしてきましたが、その他特に何もせずに過ごしてしまいました。還暦のお祝いもしませんでした。一方私の夫は、必ず親に対しての誕生日、母の日、父の日、クリスマスにプレゼントを送る習慣があります。私は結婚前までは母の日くらいにカーネーションを送るくらいでした。しかし、たとえ私が良い娘でなくとも、孝行どころかいつも心配をかけ、ふらふらしていた不肖の娘であっても、私の両親は親として私を愛し続けてくれていることは、本当に自分が年を重ねれば重ねる程感謝しています。

 

  聖書では、「父と母を敬え」というのは大事な十の戒めの一つとして書かれいます。それが人として大切なことであり、その命令には「但し、こういう親ならば敬わなくてもよい」のような、但し書きもないのです。つまり、たとえ良い親でなくても、親である限りは子は親を敬えという意味です。一方「父たちよ、あなたがたも、子どもたちをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」*とも書いてあります。つまり、親は自分の子どもだからといって、自分の感情に任せて怒ったり、暴力を振るったり、支配してはならず、教育し、しつけをして育てる義務があるのです。

 

  昨今の悲しいニュースは子供が親に虐待されて命を奪われること、もしくはそのトラウマでその子が大人になって子供を持っても、自分が子どもの時親から扱われたように、自分の子どもを扱うという負の連鎖になってしまうことがあることです。また私が介護関係の仕事をしていた時に、親子関係が良好でなく、親が認知症などにより酷い状態で独りで暮らしていても、その子どもたちは最低限しか関わろうとしないケースもみてきました。一方で、両親の介護のため一生懸命に、愛をもって介護される子供たち、配偶者の方々もおられます。

 

  良好な親子関係、夫婦関係を保つには努力が必要です。しかし様々な事情、環境により限界があります。ではどうしたらよいでしょうか。まずは人間を愛し、人間同士も互いに愛し合ってほしいと願われる神様を信じ、その上で神様がそう命じるならそれがベストだと、その通りに従おうとすることを目指すのが良いのではないかと思います。たとえそれが感情的に不可能でも、神様に願って愛する心を与えて頂き、やろうとする。そうすれば、その関係の中にどんなトラウマ、困難があったとしても、不可能は可能になるケースを多くの方々から観て、諦めずに、それが自分を含めてすべての人々に起こると信じて願っています。

 

  「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」  出エジプト記20章12節 

     

  *エペソ人への手紙6章4節
Jan. 25, 2019

どんな苦しみにも同情できる 

 

    苦しみというと、肉体的なもの、精神的なものとあると思います。そして苦しみは個々の主観的体験であるため、人が他者の苦しみにどれだけ共感し、慰めの言葉をかけられるかには限界があります。そして、当人は自分にしかわからない思い、独りで耐えなければならない状態に孤独を感じてしまうものです。

 

  2004年に公開された映画『パッション』はイエス・キリストが十字架にかけられる最後の12時間を描いた映画で、日本でも話題になり、私はキリストに対する生々しい暴力描写を涙で直視できない程でした。イエスが受けた十字架刑と拷問については、聖書は詳細は記していませんが、この映画で描写されたと同等かそれ以上に残酷であったと言われます。イエスはその肉体的な苦しみだけでなく、精神的苦しみもありました。当時のユダヤの人々から救世主と期待されていたため、それをねたむ支配階級たちの操作により人々からも憎まれ、嘲られ、ご自分の弟子たちからも裏切られ、見捨てられました。そして神に対しても「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」と叫び、一人孤独に十字架上で息を引き取られたことが記されています。神である方が人となって生まれ、およそ人が受けうる全ての苦しみ、痛みを人として経験されたからこそ、イエスは人のいかなる苦しみに同情できる方だと下記の聖書の箇所は語っています。

 

  ある方は何年も続く家族内の問題で苦しみ、いっそ死ねたらと絶望に至ることを繰り返されますが、それでも信仰がその方をなんとか支えています。私はただその方の話を聞き、心を痛めて共に祈り、神様に委ね続ければいつかこの試練を乗り越えられると励ましています。誰も頼る人もいない、皆から責められているように思えてしまう追い詰められた状況を涙ながらに語る中で、突然、その方から驚きの言葉がでてくるのです。

 

  「でも、イエス様は十字架に架かった時、もっと孤独で、虐げられて、苦しかったんだろうなあと思って。。。」。私はすかさず「そうだよ、だから、人は分かってくれない〜さんの痛み・苦しみをイエス様は全てわかってくれて、助けようとして下さる、だから依りすがることが出来る神様なんだよ、そして必ず先の道を示しくださるよ」とそのことを記す下記の聖書のことばと共に伝えました。

 

  キリストの十字架の受難とその意味は、書物や映像ではある程度は理解できるでしょう。しかし、自分自身がある苦しみを通過して初めて、心の底から理解し、慰めが与えられます。またこれが何のための苦しみなのかが自分に迫ってくるのではないかと、その方の発言から思わされました。そして、キリストは死んで終わりではなく、3日後に復活されたこと。これがあるからこそ、今も生きて私たちのために働かれ、動いておられる神だと信じることができます。そして私たちを愛するがゆえに通られたキリストの苦難に感謝し、たとえ今の状況が苦しくても、乗り越えられる力を与えられると信じます。今苦しみを通過している方々に対しても、自分に対してもそれがおこることを。

 

 「この大祭司*は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」  ヘブル人への手紙4章15-16節 

   *「この大祭司」とはイエス・キリストのこと 

 
Jan. 15, 2019

他人との比較 

 

   「陽子さんはカッテキですね」と、教会である方から言われました。カッテキとは、韓国語で大根キムチを意味し、また便利屋のように色々用事に使える人のことを言うそうです。私は何でもできないけど、とりあえず出来る範囲で、やる方がいない場合に、便利に使ってもらえればいいと思って喜んでしています。教会では通常、皆で礼拝や運営のために、奉仕として役割分担しています。ここではそれぞれが自発的に、出来ることを完璧ではなくても担当し、支え合うことで成り立ち、かつ、その人の才能や出来る事に関わらず、たとえ何もしなかったとしても、そのままのお互いを認め合い、助けあうべきところです。私がカッテキなのは、夫の職務柄、誰かが急に予定していた役割が出来ない時、私が代わりにするのが一番頼みやすいということもあります。

 

  教会外では、上を上をと目指して競争し、最高のもの、完璧を求められる社会(会社や組織、芸術界)ですから、その物差しで測れば私の出来ることはその場限りで、誰でもやろうと思えばできるレベルのことです。もし私が、自分の持っている能力、才能や持っている資産、人がどう評価するかで自分の価値を見出そうとするなら、私は無価値な人間でしょう。

 

  一方、人間の比較というのは、誰と比較するかで異なる、主観的な事であります。スポーツ等で競争相手と比較し、相手に負けまいという動機でさらに腕を磨く、頑張ることが悪いこととは言いません。しかし、私にとっては他者と比較することは意味がないと、ある時から悟りました。それ以来、人と自分自身の才能、性格、体型等でもって自分に価値を見出そうとすることを止めました。すると、不必要な落ち込みや、優越感を持つことなく、人をうらやましいとも思うこともなく、とっても自由になり、今のありのままの自分として与えられているものを神様に感謝出来るように徐々に変えられてきたようです。また誰かと比較しなくとも、必要であれば、そのことをする上での能力も、機会も与えられてきました。つまり、私は全てのことは、自分で努力して勝ち取るというより、神様から与えられていること、恵みとして受け取っています。

 

  イエス様は、2千年前の当時、弟子たちと共に生活されて、宣教活動をされていました。弟子たちの間で、だれが一番偉いかという論争があったと聖書は記録しています。そんな弟子たちにたいして、イエス様は「誰でも偉くなりたいと思うならが、人に仕える者となりなさい。」と言われました。そして、神の子であるイエス様は、地上にいる間に徹底的に人々の必要に低くなって仕えられ、最後は人々の罪の代わりにご自分が犠牲になって十字架刑にかかって死なれたほどです。

 

 イエス様が十字架で死なれ3日後に復活されてから、弟子たちに現れた時も、まだ他の弟子と比較し、「この人はどうなんですか?」と質問したペテロという弟子がいました。するとイエス様は「それがあなたに、何のかかわりがあるのか? あなたは私に従ってきなさい。」と言われたのです。イエス様はあくまでも、人のことより、自分自身と神さま・イエス様との関係の中で、自分の心を探り、もし主として信じるのならば、周りがどうであれ、「私に従いなさい」と言われておられるようです。そして、私に価値があるかどうかは、私の能力や性格、神の為に奉仕をする(善い行いをする)の有無にあるのではなく、ただイエス様は私が命を得るために、代わりに死んで下さったほどに私に価値を見出して下さり、大切な存在として愛してくれていることから来ていると信じています。そうはいっても、まだまだ私は100%人を意識しないでいられない時もあります。そんな時は、今日の箇所を思い出し、比較することをやめ、私に価値を見出して下さるイエス様に従っていきたいと思うのです。

 

 「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 」ヨハネによる福音書21章22節

   

Jan.10, 2019

癒やしを求めて 

 

  多くの方は心の癒しを求めて、癒しを与える存在を色々探します。先日、ある方々との会話のなかで、犬といると癒されるが、人間といるとイライラする方がいるという話を聞きました。ある人は、夫といるより、ペットの犬といた方がよいと言われていました。ペットは確かに、何も言わず、寄り添ってくれて、見た目もかわいいので、ある程度は癒されるかもしれません。ある高齢者施設では、アニマルセラピーを取り入れ、施設で犬を飼い、利用者が心を和ませることが出来るようにしているそうです。私は個人的には猫が好きで、猫が座っているのを見るだけで心が和みます。しかし心を癒してくれる存在としては、ペットでは限界があると思うのです。ペットも寿命があります。いつまでも一緒にいてくれないし、根本的解決を私に与えてはくれないでしょう。

 

  聖書には、神様がどういう性質を持つ方が沢山書かれています。今朝読んだ箇所から、神様(”主”と示されています)はわたしを癒してくれる方だと示されていました。ある人々には、慰めを与え、励ましてくれる家族や友人が傍にいますが、頼れる人が誰も傍にいない場合もあります。以前私は落ち込んで、身体的にも精神的にも苦しい時、家族や友人がいたとしても、自分の気持ちを100%分かってもらえないもどかしさもあり、結局人は頼りに出来ないという思いをしたことがあります。それは、孤独で辛い経験でした。

 

  しかし、かえって孤独の中で、神様だけに助けを祈ることに集中できたことは幸いでした。神さまは目に見えなくても、いつも私と共にいてくれて、私の状態、心の嘆きも知っていてくれる方です。そして、すぐに答えが来なくても、必ず祈りは聞かれているという信仰だけは与えられ、実際何度も落ち込んだ状態から、再び立ち直らせて頂いたのは、本当に感謝です。

 

  「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい、そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイによる福音書11章28-29節) イエス・キリストがこ言われました。つまりイエス・キリストのところに自分の抱えている問題(重荷)を持っていけば、休みが与えられるはずです。そして休んだら終わりでなく、イエスから学べば心がやすらげるとの約束がかいてあります。なぜなら、イエスのところで、癒されて、休められると、たとえその問題が暫く続くとしても、それに耐えられるような強さが与えられ、イエスから他者を愛し仕えることを学べるからです。

 

 今年もこの、癒して下さる神、そして学ばせてくれて、平安を与えて下さるキリストに委ねて行きたいと、聖書の言葉をとおして励まされ、新しい年を歩んでいきたいと願います。

 

 「・・・わたしは主、あなたを癒す者だからである。」   出エジプト15章26節

   

    

 

 

 

 

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