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Dec. 31, 10 "どのように愛してくれたか?"
「主は言われる、『わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか』…」マラキ書1章2節
今日は大晦日。ラジオを聴いていると、ああ明日から2011年という実感がしてきました。今年一年を振り返り、そして新しい年に期待をしてといったコメントが耳に入ります。
今日の箇所は神様が預言者マラキと言う人を通して語られた言葉です。神様はご自身が創られた人間を神様の愛でづっと継続して愛してきて下さっているんだなと。しかし、人は”そんなこといわれたって、今までどう愛してくれたわけ?”、”神といわれても目に見えないし、それについていろんな疑問があるし、なかなか信じられないね。やることがあって忙しいから現実。”と思う方もいるかもしれません。”確かに、目に見えないもの、自分の知能で理解できないことを信じるのは難しいと思いますが、一方、自分の力ではどうでもならないことは運命・運に任せるといい(”運”とはと何か証明できますか?)、なんかのスピリッツ、先祖の霊・自然のパワーに守られているんだ〜と言ったりしているかもしれません。それらが何であれ「あなたを愛しているよ」と人に言ってくれるでしょうか。
人間とこの世界を創られた神はユニークな形で人間を愛していることをわかるように示されました。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」( 第一ヨハネの手紙4章9節)つまり、イエス・キリストをこの世に送ってくれたことで神様がどう私たちを愛したかがわかります。「人がその友のために死ぬこと、これ以上に大きな愛はない」とイエス様は言われ、十字架で私たちの罪の代わりに死んでくれましたから、イエス様は私たちの友ともなってくれたのです。そして今はよみがえって天国にいて引き続き私たち一人一人の祈りを聞いてくれています。 これは常識や知識で理解できることを超えていると思いますが、知的にもわかるように、聖書という書物も用意されました。人間には霊と心と体の3つの部分があるという話しを聞いた事があります。神様は霊であり、霊のことは私達の内側の霊の部分でぴんと来て理解し、信じようと心(マインド)へつながり、行動に移る。信じるというプロセスは人によって異なりますが、多くの場合、今わからなくても心が何か空虚な状態、穴があいた状態、何かに飢え渇いている状態の時、問題を抱えていてどうしようもない時、神様の愛を知り、キリストに個人的に”出合う”のです。ですから、そんな状態の時、キリストに求められることをお勧めします。かならず、目には見えなくても声が聞こえなくても、助けや答えが与えられます。
私の場合はよく聖書を通して答えが与えられます。一年の終りの日に、もう一度どのように神様が私を愛して下さったか、良くして下さったかを思い返して感謝し、新しい年において、思いがけず。どんなふうに神様が私たちを愛してくださるか期待をしつつ、新年、再び聖書の最初から(創世記)から一年かけて通読していくのが楽しみです。Praise
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Dec.30. 10 ”心の筋トレ”
「それだからあなたがたは力の限りをつくしてあなた方の信仰には徳には知識を、知識には節制(自制:self control)を節制は忍耐を忍耐には信心を信心には兄弟愛を兄弟愛には愛を加えなさい。」第2ペテロ1章5-6節
():他訳
とにかく、クリスマス前後はぜいたくな話ですが、通りがかりの人の会話でも「胃袋がふくらんでるよね」「NewYearから、もとにもどす。それまでは食べるわ〜」という声が飛びかいます。私もクリスマスのパーティやディナー招待されてご馳走になるたびに、また、昨晩もめったにいけないおいしい日本食レストランへ行きお友達数人と忘年会を楽しんだときも、いったいこんな小さな胃なのにどうして入るんだろう?と思うほどです。感謝なことです。
世界の裏側では飢えている人がいるというのに、本当に食料の分配というのは、これだけ科学技術が進み、ITが進んでいても、今現在アメリカであまっている食料をアフリカで飢えている村へ新鮮なまま瞬時に運べるという方法が見出されません。(たとえ存在したとしても、その国の政府の許可がおりないということもありますし、難しいです)結局あまった食べれる食料は捨てられることになります。
私たち、日常生活から飛び出て世界のために何か大きなことを出来る人というのはごく限られていると思います。とても小さなビジョンかもしれませんが、普段の生活のなかの小さいことの積み重ねをしていければと思います。一つ一つエクササイズしていき、積み重なって筋肉が鍛えられると同じです。たとえば、子供にむかって、が〜っと言い放つかわりに、忍耐してやさしくさとすとか、すごく失礼な態度のセールスの電話にいらいらしないで対応するとか、自分の思うとおりにいかないことに怒りだす患者さんに対して丁寧に誠実に対応するとか(今日もそれがありました。。。)不必要な買い物をしないとか、ごみをたくさんださないように工夫するとか、たまにウエイトレスにチップを奮発する等々。何でもいいと思うのですが、ようは自分がほんのちょっと我慢するとか、自分にマイナスになっても相手にプラスになるとかいうことを思うだけでなくエクササイズしていく。そうでないと、筋肉はぶよぶよで、いざっていう大きいことに直面したときに十分に働かないでしょう。
しかし、現実にこれが私の持ち前の性格や力ではそう簡単にできないのが正直なところです。今日の箇所は自分の持ち前の性格で出来る人、自分の努力で出来る人に勧めていることばではなく、できないからこそ、実践できるようそれを与えてくださいと祈って、求めて出来るように神様が変えるという、シンプルな信仰をもっている人に向かって書かれています。なぜなら、スタートが「信仰には徳を加え」とあり、信仰が前提、続いて「徳には知識を、知識には節制(自制:self
control)を節制は忍耐を忍耐には信心を信心には兄弟愛を兄弟愛には愛を加えなさい」(同5-6節全文)となるからです。祈ってすぐに変えられない、時間はかかることがたくさん。でも失望しないで祈り続け、筋トレ筋トレ!気がつくとあれ?以前はもっと短気だったのになあ〜と知らぬ間に変わっていることもありました。Praise
the Lord! |
Dec.27, 10 "山のような問題"
「すると彼はわたしに言った、『ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。…」ゼカリヤ書4章6-7節
今日は朝から雪かき。昨晩、づっと吹雪だったので朝になって結構積もっていました。家の周りはハウスオーナーがやってくれましたが、私は表玄関のあたりと、また路上に駐車してある埋もれてしまった自分の車の周りの雪かきをしました。なまった体にとっていい運動です。
フィラデルフィアは雪国ではないので大きな積雪はそんなに頻繁に起こりませんが、いったんおこると雪かきでどけられ汚くなった雪が道路の端に積みあげられ、しばらくとけません。すると道路の路肩やレーンをふさいでしまうので、混雑を引き起こすのです。よく人々は、どこかこれらの雪を捨てる場所がないのか?市は処理してくれないのか?と苦情をいいあいます。(市はいつも降るわけではないので十分な雪処理の予算がなく、あまりやってくれないよう。結局図らずも前回の2月の大雪の山は、3月の大雨により流し消されました!)
山というのは動かし難いものです。今日の箇所では、山に向かって、”平地になる!”と天使が神様のことばを預言者ゼカリヤに幻のなかで伝えたところです。イエス様は、弟子たちに「『あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって”ここからあそこに移れ”と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」(マタイによる福音書17章20節)と言われました。つまり、ここでは文字とおりの山のことをいっているのではなく、山のような動かし難い困難な状況や問題のことを言っていると解釈されます。(生活の中で山を動かしたからといって別に何の特にもならないですからね。)
山に比べ、からしだねというのは本当に種の中でも極小の種です。でも神様の力、神様の霊によってでは解決可能だと信じる小さな信仰さえあればいいんだと、イエス様は私たちに励ましているのではないでしょうか?あなたにとって私にとって、”山”とはなんでしょう?生活のどんなことでもあきらめないで、神様ならなんとかしてくれると祈ってみることをお勧めします。これを自分自身にも言い聞かせつつ。Praise
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Dec. 26, 10 "大雪と本当のクリスマスの時期"
「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」ルカによる福音書2章6-7節
クリスマスの翌日、大雪に見舞われ、古い町であるフィラデルフィアの道路は除雪も遅れ、明日からかなり交通機関に影響がでそうです。とにかく寒いし、吹雪なので家にこもるしかないという状態です。ろくに除雪がされていない脇道にて車で出かけて事故なる可能性があり、町の方でも救急車のサイレン等が頻繁に聞こえ、早速事故が起きている模様です。
クリスマス:キリストの誕生が、こんな寒い12月の時期というのは実は信憑性に欠けるのです。聖書にはキリストが生まれたのが12月とは書かれていません。紀元後、ローマ帝国の時代に他の慣習と混じって12月にクリスマスと決められ、もみの木にかざりをつけたりプレゼント交換をするというのも、他宗教の慣習だそうです。聖書にはマリアとヨセフが旅の途中にマリアの陣痛が始まり、泊まる宿屋がなく、馬小屋で出産し飼い葉おけ(家畜のえさ入れ)に寝かせたと書かれているので、常識で考えても、マリアが極寒の時期に飼い葉おけに寝かせたら、赤ちゃんのイエス様は凍えてしまうと思われます。
色々調べてクリスマスは9月頃ではないかと、聖書に書かれている周辺的な事柄(ユダヤ人の暦や宗教的行事)から季節を割り出した人がいるそうです。9月なら納得できます。いずれにしてもいつが本当かは大事なことではないです。注目したいことは、なぜ神の子が貧しい、馬小屋で生まれなければならなかったのか。それはなぜイエス様が、罪もないのに残酷な十字架刑にかけれなければならないのかと同じ理由です。
神の子が人の体となって生まれ、経済的に貧しい状況も、肉体的に苦しい状況、精神的にも屈辱的なところを通られたのは、すべて同様のところを通っている人間一人ひとりに同情できるため、そして生まれながらにして神様から離れてしまっている人間を、神様のもとへ回復させるため、そのためだということに目をとめたいと思いました。raise
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Dec. 25, 10 "大切な人と過ごす聖夜?!日本のクリスマス”
「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。 」へブル人への手紙13章4節 (英語訳では不品行とは性的不道徳、姦淫とは不倫のこと)
私が大学生の頃、日本でクリスマスというと、恋人同士が一緒に過ごす日として見なされ、ロマンチックにすてきな場所で食事をし豪華なホテルに泊まるといのが流行っていました。キャッチフレーズは
"大切な人と過ごす聖夜”。そして「クリスマスはどうするの?」と互いに聞きあい、恋人がいない人はかわいそうな人、一人で寂しく過ごすクリスマスと哀れまれたものです。クリスマスに恋人同士で過ごすことが、ある意味ステイタスでした。今はどの程度なのか知りませんが、当時はちょうどバブルの前でしたので、お金をものすごくかけているいる人(主に男性が)が多く、恋人がいない人はとりあえず1−2ヶ月前からプリンスホテル等高いホテルを先に予約しておいて、クリスマスまでに恋人を探すという男性もいたのには驚きです。(今はそんな人がいないことを願いますが。。。)
この話をアメリカ人のハウスメートに話すと、顔をしかめられました。もちろん多くのアメリカ人はクリスチャンではないし、単にクリスマスを行事として祝いますが、少なくとも彼らにとって大切な家族が集まる日、そして家族がいない人は他の家に招かれたり、ホームレスには教会や福祉団体がクリスマスの食事を炊き出しで提供したりという世界ですから、日本のなんというか、カップルのための行事になっているというのが理解に困るわけです。アメリカでは恋人同士はどちらかの家族の家の集まりに招待されることがほとんどですからなおさら不思議なのでしょう。日本はアメリカじゃないんだと言われればそれまでですが、少なくとも欧米から取り入れた習慣なわけで、なんで日本の神道や仏教の行事、例えばお釈迦様の誕生日の日には同様のことをしないのに、といいたくなるわけです。
聖書では、結婚は神様が人間を男と女に創られ、お互いを助け合うソウルメートとして体も心も一体となるとされ、重要な関係です。結婚外での性的関係は不品行とみなします(Sexuall immorarity)。そのアメリカ人は「何もわざわざキリストの誕生のお祝いの日に、神様がしてほしくないことしなくたって、なぜよりによってクリスマスにするの?」と嘆いていました。日本人はキリストのことを知らないし、商業主義にあおられ、”みんながするからする”のです。
私はアメリカで家族がいないので、オーナーの家族のクリスマスに招待していただきました。オーナーの両親は昔日本に宣教師として30年住んでいたかたで、私にときどき日本語をなつかしそうに話しかけます。かれらは2人とも高齢なので甥や姪の家族とその子供の家族とが集まり大人だけで18人、クリスマス、キリストがこの世に来て下さったことへの感謝の祈りで始まり、食事やゲーム(任天堂のWiiでみんなでエキサイト!)を楽しめ、私は彼らの家族でないけれども家族同様に迎えてくれて本当にすばらしいクリスマスの時をすごせました。もっと多くの日本人にクリスマスの意味を知って、喜びと感謝を味わえるクリスマスを味わってほしいと願いつつ。Praise
the Lord!
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Dec. 25, 10 "天使って何"
「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。』」ルカによる福音書2章8-12節
天使というと、どんなイメージを持たれますか?羽が生えていて、白い衣を着てたり、太った赤ちゃんのような天使等。。。しかし、聖書ではかなり違うように描かれています。大体、天使が人間に現れると、彼らの第一声は「恐れるな」なのです。というのは、天使をみると人々の反応は”見てはいけない、そこにいてはならないものを見てしまった!こ、こわい!”というような恐れおおいもの、ひえ〜っというリアクションとなるから、「恐れるな」というのでしょう。
天使はとにかく超自然的な力を持つようで、他の箇所では、ユダ王国を攻めていたアッシリアの軍隊十八万五千人を一人の天使が一晩で滅ぼしてしまっとことも書いてあります(第2列王記19章35節)。またイエス様は御使いは結婚しないとおっしゃっている箇所もあります。(マルコ12章25節)
今日の箇所のようにキリスト、救い主の誕生を天使はまず王や祭司等偉い人たちに知らせたのでなく、一般市民に、それも貧しい羊飼い達に知らせたというのは興味深いです。また、「天使は仕える霊であって、救いの相続者となる人々(つまりイエスキリストを信じる人々)に仕えるために遣わされた」と書いてあります(へブル書1章14節)。私のような一般市民、それも信仰を持っているといっても、紆余曲折の歩みでどうしようもないものをも、目には見えないけれども日々天使を遣わしてくれて、色々助けられているんだなあと。
イエスキリストの地上での生涯においても、今日の箇所のように天使は非常に重要な役割を演じていて、「すべての民(ユダヤ人だけでなくて全て)に与えられる大きな喜び・救い主」としてイエスの誕生を伝えています。クリスマスイブの日、イエス・キリストこそが、私に与えられた人生で最高の神様からのプレゼントとして受け取れることを、本当に感謝しつつ。Praise the Lord! |
Dec. 23, 10 "クリスマスを祝う意味"
「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。父のみもとからこられた一人子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネによる福音書1章14節
今日から私はクリスマス休み、アメリカではお正月は1日のみ休みですが、クリスマスは割りと長く休みを取られる方が多いです。私のボスもコロラドへスキーに家族で出かけられました。この時期皆さん忙しそうです。休みに入る前に仕事を片付ける、クリマスショッピングで忙しい、パーティを主催もしくは参加等、クリニックの予約もキャンセルが多かったです。患者さんはホリデー前で気持ちはうきうきというかんじでした。
しかし、一人の患者さんは「クリスマスなんて、別に特に祝わないよ。」と全く関心なさそうに言っていたのです。ドクターいわく、彼はづっとアルコール中毒で、奥さんが働いて子供とご主人を養っているとのこと。先日も予約に立ち寄ったときお酒のにおいがしていました。なぜか歯についてはクリーニングに定期的に奥さんと一緒にきているようです。
今日の箇所で、「ことば」とはイエス・キリストのことを指します。神様の一人子が人となって私達の間に2千年前にすみ、人としての生涯の最後に、神の国について、福音について人々に語られ、病気の人を癒し、「丈夫な人には医者はいらない。私は罪びとを救うために来た」と言われ、社会的につまはじきにされている人々(ハンセン氏病の人、前科がある人、ローマ帝国のための税金取立屋、遊女等)に声をかけ食事をし、そして最後は私達全ての罪の罰を代わりに受けるために十字架で死んでくださった。それは、キリストを信じる人がその罪を全て赦され、救われて永遠に神様と天国で生きられるために。
クリスマスの本当の意味をわかっていないけど習慣で祝う人、祝わない人にも、キリストを通しての恵みと真理を受け取れますように。キリストが一人一人にために、神の子なのにこの世に人となって、その救いのミッションのためにこられたこと、それを知識だけでなく個人的に、神様の前に正しくない自分(神様の完全な愛の基準をパスできるという人がいれば、その人は”丈夫”なので”医者”・キリストは必要ないかもしれませんが、実際そういう方はいるでしょうか)の罪を赦すためにこられた救い主としてキリストを受け取って、クリスマスをお祝いする時となるよう祈りたいと思います。Praise the Lord! |
Dec.17, 10 "17世紀のイギリスの異端児"
「救いはユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です.」
ローマ人への手紙1章16節
私の祖母にキリストの話をすると、”キリスト様は西欧の宗教だから日本人にはあわないよ”といわれてしまいます。しかし、もともとは中東のイスラエルから始まって、その発展の過程でヨーロッパを通して回りに回って日本やアジアにも布教されただけで、もとは西欧ではないのです。神様はまずキリストが生まれるための準備として、ひとつの国民をアブラハムという人から起しそれがユダヤ人という民族になり、その王の一人、ダビデ王の血統にイエス・キリストが生まれるよう計画されたわけで、最終的に全ての民族への”良い知らせ”(福音)なのです。
この”西欧の宗教”は歴史的に本当にややこしいです。神学者等えらい人々の間でさえ、聖書の解釈はその時代や宗派によってかなり異なるからです。例えば植民地政策を取っていた時代のイギリスでは、このキリストの愛と平等の教えを植民地の現地人に知られては政策上都合が悪い為、インド人へ布教しないよう東インド会社を通して禁止されていた時代もあり。それこそキリスト教が”西欧の宗教”として政治に利用され、他の後進国には教えないよ〜状態!教義が政治に都合よく解釈され利用され、戦争も正当化されと、結局キリスト教の歴史はその本来の聖書の教えとはかけ離れていた時代を多く含んでいるのが非常に残念です。
そんな時、17世紀後半のWilliam Carey(ウイリアム・キャリー)というイギリス人で、インド人に福音を伝えたいという厚い志を持った、当時のまさに異端児が登場。彼はイギリス中の教会を回って、ヨーロッパ以外の異教国へも宣教師をおくる必要があることを主張、そのための資金集めも行い、遂に自ら危険を侵してインドへ宣教師として渡り、”現代宣教の父”と呼ばれたそうです。
インドや中国、極東の日本、一時は異教国への宣教は必要ないと言われた時代を経て、「全世界に出て行き全ての造られた者に福音をの宣べ伝えよ」(マルコ福音書16章15節)というイエス様の命令が、不完全な人間を通して神様の力が現れて、宣教が遂行され、今に至るというのは本当にありがたいです。キリスト教は人間の弱さゆえに”西欧の宗教”と化し、へんてこりんな宗教的な面も多々ありますが、聖書に書いてあること:キリストは全ての民族のための救い主で、その方を信じることで希望がもてることを、シンプルに、100歳の祖母にもわかるように、このクリスマスの時期にも説明を求められる機会があるときに伝えられればと願います。Praise the Lord!
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Dec.17, 10 "ハワイに隔離されていたハンセン氏病患者"
「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』」ヨハネ福音書 11章26節
皆さんはハワイへ行ったことがありますか?私は一度観光で行って、なぜ多くの人がハワイにまた行きたい!とリピーターになるのか理解できました。とても美しいところでリラックスできます。この美しいハワイ諸島の中のモロカイ島は、昔、ハンセン氏病(らい病)患者が隔離されていた場所であるのを私は先日、ハウスメイトから以下の話しを聞いて知りました。
このモロカイ島に19世紀後半、ベルギーからの宣教師、ダミアン神父がこの島の人々にキリストを伝えたいという思いが与えられて初めて宣教に渡り、当時島ではだれも患者の世話がなされていない、劣悪な生活環境を改善し、キリストの福音を伝えました。彼らにキリストの愛を伝えるのには時間と労苦がかかりましたが、患者さんたちと心を通わせられるようになってきた矢先、ついに彼もハンセン氏病に感染。彼は感染したと分かった後もハンセン氏病の人の痛み・苦しみを身を持って体験しつつ、引き続き49歳で亡くなるまで、最後まで島の人々に仕えたそうです。
今日の箇所はイエス・キリストが、ラザロという人がハンセン氏病で亡くなり、4日後お葬式の最中に家に到着し、彼の妹のマルタに言ったことばです。イエス様の力で死んで4日たっていたのに、ラザロは生き返ってお墓の中から出てきました。これはイエス様ご自身が後に十字架で死なれ、3日後によみがえることの予兆でもあり、またこの生き返ったラザロも年をとって後に死にますが、イエス・キリストを信じる者はたといこの肉体が死んでも、天国で新しい死なない体が与えられ永遠に生きることを、はっきり言われたところです。
イエス・キリストはなぜ、神の子なのに、わざわざ人間として赤ちゃんから生まれてくる必要があったのでしょうか?神様のままで、ジャーンとあらわれて、奇跡とか不思議な力を示して、恐れさせて、”私を信じろ〜”と言うこともできたでしょうに。それは、創られた人間の弱さ・痛みを同情されるためだとへブル書に書かれています。そして、罪という性質はまるでハンセン氏病のように広まっていき死に至るもので、その罪(自分を創られた神様を信じないという態度・自己中心)を生まれつき持って必ず永遠に死ぬべく人間を救うために、代りにその全部の罪に対する罰を十字架にかかられことで受けるという使命を父である神様から与えられ、それに従順に従われました。
ダミアン神父の働きと犠牲は、ハンセン氏病の人の痛み・苦しみを理解しつつ、キリストを伝えることに生涯をささげた人生、それはキリストの私たちへの愛の表れを思い起こします。クリスマスのこの時期、キリストが神様の愛を表すために、ご自身の命を犠牲するという使命のため、この世に来て下さったかを感謝します。Praise
the Lord |
Dec.16, 10 "昔のイタリアの交通事情"
「わたしは知る、あなたがたのとがは多く、あなたがたの罪は大きいからである。あなたがたは正しい者をしえたげ、賄賂を取り、門で貧しい者を退ける。それゆえ、このような時には賢い者は沈黙する、これは悪い時だからである。 善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス書 5章12-14節
私の勤めているデンタル・クリニックでは、その地域で30年近く開業しているドクターいわくイタリア系の移民の患者さんとその家族が多いそうです(最近は変わってきましたが)。先日、イタリアなまりの70代の患者さんと日本語アクセントばりばりの私が運転のマナーについて話しをしていた時、「昔のイタリアのローマとかナポリはすごかったよ。みんな信号・ルール守らないで運転していたからね。たまに警察につかまっても、ちょっとお金をあげると”OK,行っていいよ”と見逃してくれるのさあ〜」(この方が若い時のイタリアの話しですから今ではないですが…)と彼は言っていました。賄賂は、現代でもアフリカ等、いや日本にでさえどこの国でも程度の差はあっても横行。
いつの時代でも、上流階級でお金がある人は自分が犯した罪(たとえそれが殺人でも!)をお金で片付けたり、お金を払うことで正当な手続きを免れてなんでも許可されてしまうシステムが存在。今日の箇所が書かれた、紀元前イスラエルの国(北王国)でも、政治的には栄えていて王・貴族・祭司階級の間で不正と搾取、賄賂は当たり前に行われ、当時貿易で栄えた一方、国内自営農業をしていた人々がこの経済的変動によりダメージを受けて、土地を手放しそして、奴隷や売春に売られるという酷い時代だったそうです。
神様から預言者として任命されたアモスは、そういう酷い社会的搾取プラス金の子牛を礼拝をしていた北王国の王や祭司に向かって神からの警告と、悔い改めて立ち返るようメッセージを伝えました。残念ながら、彼らはその預言者からの警告を無視し、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。
今の社会はそれほど賄賂が横行していないし、ヒトラーのような独裁政治ではない時代であることに感謝します。どの時代であっても、政治がどうであれ、”賢いものは沈黙する、これは悪い時だからである”とありますが、”沈黙する”とはどういう意味なのか、その時になって神様に祈って聞かないとわからないなあと思いつつ、とにかく身近な交通ルールや社会の中での規則は守ろうと思いました。Praise
the Lord
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Dec.14,10 ”自分の魂に向かって励まし"
「わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって『おまえの神はどこにいるのか』と言う 。わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」 詩篇 42章10-11
今日の箇所は詩篇という詩の作者が心を注ぎだして神様に祈っている内容が書かれています。きっと、敵(もしくは自分に対してつらくあたる家族・知人でありうるかもしれません)から、傷つくことを言われたり、神様を信じていることをばかにされたりしているのかもしれません。
そういう時、自分が自分の魂にむかって”神様に状況をまかせようよ、助けてくれるから”と言って、逆に不満や不平、相手に対する反撃をいうのでなくて、神様を讃美、礼拝するという態度に変えられているのはすごいなあと思います。
時々、異常に落ち込んだりしていて、もはや人も何も励ましてくれないどころか、非難されたとしたら、自分自身に向かってはっきり、”なんで、おちこんでいるんだ?神様がともにいてくれるじゃない!”と言うこともできるんだと、そうして神様のほうに目をむけると、自然と感謝とか讃美の思いに変えられるのではと、今日の詩篇から励ましを与えられました。Praise
the Lord
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Dec.12,10 ”心の戸をノックされたら”
「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」黙示録 3章19-20節
今朝は友人のお子さん(2歳半)の洗礼式に参加。友人の教会はキリスト教の中のルター派という宗派で私は今回始めてその礼拝に参加しましたが、讃美歌も現代的なスタイルで、女性の副牧師さんが力強いメッセージをされていました。この礼拝では皆さんの笑顔と神様の祝福が満ちていて、洗礼式に参加出来てとても嬉しかったです。(洗礼とは?→11/26今日の一言を参照)
今日の箇所は聖書の一番最後の書簡:黙示録といって、イエス様の弟子で一番長生きし、老年になって迫害の為パトモス島という地中海の小さい島に流刑となり、その時神様から与えられたビジョンを書いたもので、たくさんの預言が含まれています。ここはイエス・キリストが7つの教会にあてたメッセージの一部。当時存在していた教会だけでなく、現代のキリスト教会の多くの宗派や、ある特定の時代の、もしくは後の時代の教会に適用されると様々な解釈がなされています。私は個人的に宗派の違いにはそう目をとめません。自分が祈ってここと導かれたところへ継続的に行き、徐々にその教会にコミットすればいいと。どの宗派がいいとか議論する時間はなく、地上で生きている限られた時間内に他にやることがあるわけです。神様は私たちが死んだ後、天国の門で”どの教会に行ってましたか?”とは聞くのでなく、”あなたはキリストを自分の救い主、主(つまり自分の主人、マスター)として従っていましたか?”と問われるかなあと勝手に想像しています。
では限られた人生の中で優先してやることとはなんでしょう?→キリストに従うことです。でも自分の持ち前の力・気質でキリストに従うとは、簡単なことではないです。ですから、神様に委ねる、つまり生活の小さなことから逆に大きな決断に至るまで聖霊(神の霊)によって導いてもらい、ベストの選択へと神様の導きで選択していく必要があります。今日の礼拝でも牧師が言っていましたが、生活の中で私たちはキリストとはどういう方かを忘れがちであると。その一番重要なことを忘れてしまうと、いつのまにか教会に行って奉仕をたくさんしていても、それが信仰がなくても成立する単なるコミュニティセンターでの働きに簡単になって、キリストを自分の心から出してしまう状態となりうるからです。だから、キリストは心の戸の外からノックして入れてねと頼んでいるし、またキリストをまだ信じていない人の心へもキリストはノックされ、食事に招いています。
今日の箇所のように、主(キリスト)の声を聞いて戸を開ける+共に食事をするということは、主の声に聞き従う、主と共に歩む信仰の歩みのことで、これを忘れないようにとキリストご自身がヨハネを通して現代の私たちにも言われていると示されましたPraise
the Lord |
Dec. 11, 2010 "関係の修復" 「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。…わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことをしない。」ホセア書11章8-9節
10月末に北海道へ行った時、ハンガリーからミッショナリー(宣教師)として在住している方で、地元のブライダルチャペル(結婚式場)にて、キリスト教の結婚式を司式している方と会いました。その式を見学させてもらった時、その宣教師は新郎と新婦に聖書でいう結婚とはどういうことか、そして”神様の愛”を紹介し、夫婦の間でのその愛の適用を励ますといった短く流暢な日本語でお話をされていました。聖書で結婚とは神聖なもので、神様の前で夫婦となることを誓い合う一種の契約です。残念なことに、様々な事情で夫婦関係が修復不可能となり、離婚となってしまう場合もあります。
聖書にはよく、神様とイスラエルの民(ユダヤ人)の精神的な関係を夫と妻の結婚関係になぞらえた表現が書かれています。ホセア記は旧約聖書の後半の預言書のひとつです。ホセアという預言者は、不倫をして他の男性のところへ行った自分の妻とその子(3人いて、一人はホセアとの子、後の2人は不明)を再び受け入れなさいと神様から言われます。当時のイスラエルでは、不倫をしたら石打ちの刑で殺されます。また男性の方からだけ離婚状を妻に出すことができ、今のように仕事がない女性にとっては離婚されてしまうと社会的に生活していくのは困難。また不倫をした女性と再婚することももちろんタブーであって、現代ではとても想像つかないような女性に不利な世界です。
ホセアを通して、堕落して神様から離れてしまったイスラエルの民との関係を神様は回復したい、戻ってきてほしいと願っておられるのだという神の思いを表しているそうです。当時、ユダヤ王国は南北王朝に分裂し、どちらもほとんど代々の王が周辺の王国に影響されて他の偶像(金や木で造った神々)を拝み、王や祭司から率先して社会生活の面でも不正をはびこらせていた状態した。そのような罪深い民に預言者を通してはっきり、悪いことは悪い、悔い改めよと戒めながらも、神様は忍耐して彼らを愛し、戻っておいでと言っています。
現代に生きる私たちに対しても同様に、神様は関係を回復したいと願っているので、2千年前にイエス・キリストをこの世に送ってくれました。”神なんて存在しない、自分とは関係ないよ”と思っている人に対しても、どんな状態であれ神様は一人一人をケアし愛している存在なんだと、そのことを信じてほしいとのメッセージをホセア記を通して、今日も示されました。Praise
the Lord
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Dec. 9, 2010 "成功 サクセス"
「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。
」ヨシュア記1章8節
最近、Social Networking ServiceのFacebookの創始者についてが映画化されたとのこと。また彼は20代にして億万長者番付に登場し、その資産の半分を寄付していたというニュースの記事も読みました。人はサクセス・ストーリ(成功物語)の映画やドキュメンタリーを人ごとなのになぜかわくわくしながら観たり読んだりします。貧乏から金持ちへの成功話し、50KGのダイエットに成功した話し、一から起業して成功等々。
聖書でいうサクセス(栄える)は少し意味合いが異なるようです。例えば今日の箇所では、この”栄える”(他の訳では”成功する”)は、サウカルというへブル語がつかわれていて、”賢く行動する”と言う意味もあり、原文ではそちらの意味合いで使われているそうです。古代ユダヤ人(へブル人)がエジプトで400年間奴隷となっていてそこから奇跡的に神様の力で脱出し、先祖がもと住んでいた土地、カナンへ移住する過程で、次世代のリーダであったヨシュアが神様から言われた言葉です。神様がヨシュアに与えたその時必要だった指示や律法に従うことで、賢く行動できるようになれるという意味あい。
お金、名誉、健康における成功自体は、感謝して受け取れればすばらしい神様の祝福だと思います。今日の箇所から、私は何をするにしても賢く行動できればいいなあと、しかしその条件に”神様の律法をことごとく守ること”と言われてしまうともうアウト。出来ない。だからキリストが、守れない人→私のような人を救うため登場して下さった、すべてどころか自分じゃ弱くて一つも守れなくても、キリストを信じるだけでいいんだという救いの時代にいられることを本当に感謝です。またキリストが来られた後、古代ユダヤ人に与えられていたたくさんの律法は重要な二つに集約されました:@神様を愛しA隣人を愛する。この二つの命令(律法)を守れるかどうかにおいて、神様の助けを頂きサクセスしたいです。Praise
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Dec.8、2010 ”とっさの質問に答えられず。。。”
「そして私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の表れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にさえぎられず、神の力にささえられるためでした。」第1コリント人への手紙2章4−5節
先日から、私の家のオーナーの友人が日本から旅行で来ていて、家に滞在しています。夕食後、このお二人のご夫人達と、うちの同居人のロゼッタと私とでアメリカと日本の文化や宗教の違いについて話に展開しました。一人のご夫人が日本人は自然も人間も神々も身近で親しみやすい関係であり、キリスト教のようにたった一人の神を尊敬したり畏れたりという関係と違うという意見をのべた時、もう一人のクリスチャンのご夫人が突然私に、「あなたはなぜキリストを信じたの?」ときかれました。
私はシンプルに自分にどうしようもない罪があると、ある時わかったのでイエス・キリストを通して赦されるという福音を信じたと答えると、彼女が「あなたはどうやって罪という観念がわかったの?」とまた質問された。私は「小さいときに教会の日曜学校に行って聖書から罪とはなにか?と知識として教えられていたから」と答えてから、何かおかしいと腑に落ちませんでした。。。それから、イスラム教はとかどんどん比較宗教の世界に議論が進んでいったので、私は夜遅いため先に失礼させていただいた。肝心なことを説明できなくて非常に心残りだったが。。
私が救われたのはクリスチャンホームで生まれたからとか、罪にかんする知識が与えられたからだけで、キリストを信じられたのではない。まさに、奇跡的に聖霊の力で信じるよう導かれたのであり、これを昨晩答えとしていうべきだった。というのはキリスト教の罪は何かという知識があっても信じない人の方が多い。たとえばアメリカでは常識としてイエスが私達の罪のために十字架にかかって死んだといわれている歴史上の人だと皆知っているし、聖書でいう罪とは何かというのもよく知っている。しかし本当にキリストを信じて生活している人は数字上より多くないようだと、こちらで生活して人々と接していて実感する。
もちろん、最低限の情報がないと何を信じたらいいかわからないし、知性でもって理解し信じる決断はしましたが、情報が与えられても、それを受け入れる心が必要です。受け入れる側が子供だから大人だからと関係なく、子供には子供なりの理解でシンプルに”ぼく信じるよ!”と信じた子供の話はたくさん聞いたことがあります。大人には何か苦しくて、心が空虚で満たされない思いや、救いを求めている状態、どの神だかわからなくても、困ったときの神頼みでも求めている人に、神様ご自身の力が働かれ、聖霊がその人の心に触れて、心の目を開き、奇跡的にこのキリストの救いを信じようと導いてくださる。次回はもっと、なぜ信じたかを聞かれたらはっきり答えられるよういつも用意していないとと、思わされました。Praise
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Dec. 7, 2010 (Tue) "大切な人を失った方へのなぐさめと希望"
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」
第2コリント人への手紙1章4節
先週、闘病されて、とうとうがんで天に召された友人の告別式に参加しました。式は牧師の司式のもと教会で行われ、数人が故人を偲んで思い出を語り、最後に牧師がメッセージをしてと非常によい告別式でした。故人を偲ぶにあたり、私たちは三つのこと:感謝となぐさめと希望が与えられるという話しを牧師はされました。
故人の人生を通して彼女への感謝を皆で共有し、特に残されたご家族には時間がかかるとは思いますが、この告別式での語られる故人の思い出を通して慰めを与えられるでしょう。そして希望についでですが、彼女は、最後に闘病された時の痛みも苦しみもなく、安らかに今天国にいるということをはっきりそうだと確信していれば、また天国でいつか会えるよねという希望があります。ご家族にとって感情的には悲しみに押しつぶされそうになる程お辛いとは思いますが、また会えるという希望によってこの深い悲しみが徐々に和らげられるようお祈りしています。
キリストを信じることによって、天の父のもと(天国)へいけるとイエス・キリストご自身もはっきりいわれました(ヨハネによる福音書14章1-7節)。唯一・真の神とその一人子キリストを救い主として信じていない人にとっては、その時代時代や個人の価値観で、神の存在や天国のイメージは相対的ではっきりしていないと思います。たとえば、“いい行いをしたから天国へいけるだろう、しかし自分はいけるんだろうか?でも、どれくらいのいいことをしたら天国へ行く資格があるんだろうか?まっ、死んだら終わりだから、考えないことにしよう。。。そう今が大切!”と。もちろん今、毎日毎日は大切な時だと、私も思っています。でも死んだら終わりでなくて、死んだ後もこの今、つまり自分の存在が永遠に続くか続かないかは、丁か半かの世界。All or nothingの2者選択です。
はっきりしていることは、いい行いをしなくても、キリストを信じれば天国へいけると聖書には書いてあります。しかし、イエス・キリストが自分の罪を赦すために2千年前に十字架に代わりにかかってくださった、そこに救いがあり、そのおかげで天国へいけるのだということを、意外と信じ難く、抵抗がある方が多いのではないかと思います。お葬式はある意味、キリストの福音をじっくり考える機会でもあります。この希望を信じ、慰められる方が一人でも多くいらっしゃるようにと願います。Praise
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Dec. 6, 2010 (Mon) "重荷にならない愛"
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」第一ヨハネの手紙5章3節
「その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。 」第一ヨハネの手紙3章23節
フィラデルフィアは先週から急に気温が下がり、いよいよ冬突入です。私は車で移動がほとんどなのでつい油断しがちですが、もうダウンコートが離せません。先週末はとうとう体調を崩し、2日寝込みましたが、なんとか復帰、今日はこれから仕事に行けます。
以前、私は神様を愛するとはどういうことかここの箇所を読むまではっきりわからなくて、漠然としていました。また神様の戒めはうーん、おそらく十戒?かなくらいのイメージのみ。とにかくとても私は守りきれないという思いがあり、生活と全然かけ離れたものでした。それに、私は神様を愛するなんて無理だ〜とあきらめモードでした。
しかし、”神を愛さなければならない”と、強制感や重荷になるものではないのです。(新改訳では3節は”そして、それは重荷にならない”と訳されています) 神様を愛したいという思いは、神様が自分をキリストを与えるほど愛してくださっているということが信じて始めて生まれるもので、キリストの愛、十字架の犠牲、復活の力を通して、これほどまで自分は愛されているんだ〜と思う応答が、神様を愛したいという気持ちになると思います。
そこで良いニュース(ゴスペル=福音)は、キリストを信じると、聖霊(神の霊)が与えられて、その聖霊が神の戒め:互いに愛し合いなさいというのを守ろうとする私を助けてくれるという約束が聖書に書いてあることです。神様基準の愛を、自分のもともとの性格でやれと言われたら、本当に重荷です。私の場合、重荷どころか不可能です。しかし、愛せるように神様が助けてくれるという話であれば、肩の荷がおります。私のすることはその愛を具体的に求めること。自分では他者を愛せないけれども、神様からその愛を注いでくださいとお願いすると、内に住む聖霊が直接助けてくれて不思議な作用が起こる、例えば緊張関係が緩和されたり、相手に忍耐できたり、親切にできたり。そういう話しを他のクリスチャンからも聞きます。また自分自身も過去の職場で体験したり。これからも毎日聖霊の助けを求め、自分では無理だけど、神様には可能!ということがもっと起こり、信仰を生活のなかで現実感を持って励まされたいです. Praise the Lord! |
Dec. 5, 2010 ”夢の解き明かし”
「そして王はダニエルに答えて言った『あなたがこの秘密をあらわすことができたのを見ると、まことに、あなたがたの神は神々の神、王たちの主であって、秘密をあらわされるかただ』。こうして王はダニエルに高い位を授け、多くの大いなる贈り物を与えて、彼をバビロン全州の総督とし、またバビロンの知者たちを統轄する者の長とした。」
ダニエル書2章47-48 節
朝起きて今見た夢を思い出せますか?私は大体すぐに忘れてしまいますが、たまに嫌な悪い夢は後になってまでも覚えています。人は大体合計すると一晩に2時間ほど夢を観るそうです。ちょうど脳は覚醒しているのに、体は休息モードに入っている睡眠状態(レム睡眠)の時に何度かにわけて夢が発生するそうです。脳に関しては現代の科学をもってしても未知の世界が多く、夢との関係についてもまだまだ確かな情報は得られていないようです。
聖書では夢に関する記事が幾つかでてきます。天地を創造された神様は、特別な時に人の脳の中に夢を通して介入されるようです。今日の箇所は、古代バビロニア王国のネブカドネザル王という人が(世界史の教科書にもでてきます)非常に嫌な夢を見て、その為眠られない程気に病み、しかもその夢がなんだったか覚えていないのに、周りの呪術師や賢者に”その夢の内容と解き証しを聞かせろ、さもなくば皆死刑!”と、なんとも無理難題を言った時のことです。ちょうどユダヤの国から捕囚で連れて来られた人の中に、神様から知恵を与えられ、バビロニア国の王宮に仕えていたダニエルという若者がいて、ずばりその夢の内容と解き証しを神様に祈って与えられ、みごと王に答えました。バビロニアではその当時他の神々が信仰されていましたが、王もさすがに『すごい!これは本物の神だ!』と感服。
ダニエルは、決して”自分はすごい能力を持つんだ!”と高ぶらず、これは唯一の神様から与えらているんだと王の前ではっきり主張したところです。彼は解き証しの能力だけでなく、王宮で仕える知恵・能力も与えられていました。もっと前の時代で、やはりエジプトの王(パロ)が奇妙な夢を見て、誰も解き証しができなかった時、ちょうどヨセフという神を信じるへブル人がみごと王に夢の解き証しをしたとき、『いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう』(創世記41章16節)とヨセフは神に栄光を返しています。
12月はアドベントと言って教会ではその4週間前からキリストの誕生(クリスマス)に向けて準備をする期間です。イエス・キリストの誕生について、その育ての親であるヨセフには天使が夢の中でそのことを告げました。私の日常生活では夢はさほどメインな役割とはなりませんが、キリストが私たちの救いの為に:神の子であるのにわざわざ人として、それも十字架で死ぬという目的のために生まれて下さった、その大きな神様からの救いのプレゼントを感謝してクリスマスに向けて心を備えていければと思います。 Praise the Lord! |
Dec. 3 (Fri.) "健康保険の恩恵"
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」第一ヨハネの手紙2章15-17節
今日は市の保健センターへ行ってインフルエンザと肺炎の予防注射を打ってきました。まず先生に会うまでの手続きに待たされること2−3時間。日本の大学病院も初診や夜間救急だとそれくらい待たされますが、初診プラス保険の手続き上、部署をいったりきたりが多く一度に物事が進まないため、結局最後の最後で、別の書類を先生に再び書きなおしてもらないとと判明、「今日はもう先生忙しいから来週火曜ね」と、あっさりソーシャルワーカーに言われ、一度にすみませんでした。ま、とりあえずこの冬を乗り切るためのワクチンはゲットしたので満足です。
日本で医療を受けるのは本当に簡単で、安全です。よその国に住んで始めて、どんなに日本人は医療・介護においても制度的に恵まれているか感謝します。もちろん、先進医療はアメリカや他国のほうが進んでいますが、ものすごい高額でお金持ちしか受けられません。一方お金持ちで高い保険を個人で入っていても、彼らの健康は絶対保障されるわけではなく、病気になればそれなりに自己負担も高額支払うことになります。日本はほとんどの手術や処置は健康保険適応です。しかし、アメリカは国民健康保険が存在しないので(今それを新設する法案が通ったばかりですが反対勢力が多くて実現するのか?!)日本のように、保険のカード一枚で好きにどこでも行けないのが現状です。
どこの国にいても、神様が健康やその他必要なものは最低限与えてくれるという安心はあります。今他国でお世話になっているのを感謝しようと思います。今日の箇所のようにこの世の中にあるもの(もっともっとほしいという欲望や暮らしの自慢)に心を奪われてしまうのでなく、神様を愛する(具体的には目に見える周りの人を神様の愛で愛すること)ことに目を向けられればと願いたいです。Praise the Lord! |
Dec. 2 (Thu) "良心基金"
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」第一ヨハネの手紙1章9節
朝、私は職場へ向かう時くねくね山道を通って、オフィスのある町へと約40分運転していきます。毎朝ラジオで同じスピーカーのメッセージを聞いいています。運転しながらなのでなかなか内容に集中できませんが、先日その牧師が”つぐない”のことを話していました(故テレサ・テンの歌でなくて→失礼、古いカラオケ歌う人しかしらない):身体的・精神的・物質的なダメージへの弁償において、人が何かしたことに対してする償いには限界があること。人々の償いきれないこと全ての累積、それを代わりに一挙に償ってくれたのがイエス・キリストの十字架刑だと。
その同じ日、ある記事を読みました。ある退役軍人が1974年、アメリカ政府に小切手を送って、そのメモにこう書いてあったそうです。「私は第二次世界大戦中にブランケットを盗んだつぐないとして、10ドルを送ります。今頃遅すぎて申し訳ないのですが、私の心が休まらないのです。私は神に会う用意をしたいのです。」政府は彼のお金を”良心基金”となずけて、彼だけでなく、その他の人からもう同様の申し出があり、それがなんと毎年の総額が平均45000ドル(70年代当時の一ドルの価値は現在の2倍以上。。)だったと。では、小切手を政府に送った人々はそれで本当に罪責感や後悔の念が晴れ、神と会う用意が出来たのでしょうか。
たとえ相手が赦してくれなくても、また赦してくれる相手に再び会うチャンスがなくても、もし人が自分が正しくなかったと、単なる後悔ではなく、悔い改めて神様と和解できれば心に平安が与えられます。つまり、イエス・キリストが十字架で自分のするべき償いを、代わりに全て引き受けてくれたことを信じること、そのことでキリストを通して神様がすべて赦し、なかったものとして見てくれるんだと受け取ると、もはや昔の後悔の念や自分の心の奥深くにある封印されている後ろめたい思いもなくなります。自由になれるのです。今日の箇所は10年前、私を自由にし、長らく失われていた信仰が再び与えられたきっかけとなった聖書のことばです。キリストが代わりに払うべきものは払ってくれたから私は良心基金を払う必要もないのです。
そして、キリストを信じた後、すぐに変わらない自分、同じ失敗を繰り返しがちな自分も、悔い改めれば何度でも赦してもらえ、そして徐々にキリストのような愛のある性質に変えられるという希望が、この地上において与えられるのが、本当に感謝で、ありがたいことです。Praise
the Lord! |