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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

May. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



March 2011 April 2011
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October 2010 September 2010 August 2010
何を覚える日:メモリアルデー
大BBQ大会 無視抗戦 ミュージシャン@教会 ハウスメイトとのディナー
沈黙の意味 5つのマフィンと2匹のいわし 雨上がりの散歩と悲しい知らせ てんかん発作で苦しむ子
母の子への慰め:母の日 何か願いがかなうとしたら スピード違反 古里宮城助けたい
あんたの国に言われたくない 結婚 コートジボワールの非日常 うれしい春休み

May 30 "何を覚える日:メモリアルデー"
「イエスは涙を流された。」ヨハネによる福音書11章35節

今日は祝日(戦没者追悼記念日)で、アメリカでは多くの人々はこの祝日に墓地や記念碑を訪れたり、また家族で集まってパーティやピクニックへいく人が多いそうです。アメリカは軍人さんをリスペクトする国なのだなあと。一方それだけいつも戦争があり、戦死する人が多いということにもなります。日本は第2次世界大戦後、戦争をしてはいけないという憲法9条が定められているため、それ以降の歴史で戦没者が実質不在の国、そういう日を祝日として設定しようがないのです。
 もちろんこの日は戦死した人だけでなく、家族の中で亡くなった人のお墓参り日でもあり、その意味では日本もそういう祝日はあります。どこの国でも死んだ方を覚えることは重要です。実際、アメリカではほとんど家族で集まりBBQパーティをする人が多く、ちなみに隣の家でも大音響の音楽をかけ、パーティがされています。。。
 今日読んだ箇所は、イエス様が友人のラザロが死んだという状況で、そのお墓のところにマリアというラザロの姉妹につれられ、彼女とその周りの人がおいおい泣いているのをご覧になり、「イエスは涙を流された」と聖書は記録しています。英語では「Jesus Wept.」となり、聖書のなかで一番短く美しいセンテンスとも言われます。なぜイエス様がここでだけ泣かれたのかは神学的にいろいろ解釈はあるかもしれませんが、それはさておき、イエス様は大事な人を失った人の悲しみに、一緒に泣いてくださる方なんだと、その深い同情心・思いやりの心に私は感動します。神であるイエス・キリストが泣いてくれるんだと。そして、彼が死んで4日も墓のなかで臭くなっているのに、墓石を取り除けるように人々に指示し「ラザロよでてきなさい」といって、彼をよみがえらせたという劇的な奇跡をなさったのです。これはこのことを見た人たちが、神様はすごい!神様の力は死んで四日たった体を生き返らせる!と神様の栄光が表されるために、またこれをなさったイエス様が神様の子であることを人々が信じるためになさったと書かれています。
 もちろん、生き返ったラザロも他の人同様寿命で死にましたし、生き返っても肉的な死はやってくるのです。しかしイエス様を信じるものは、この肉的な死の後も生きると続いてイエス様は言われています。(25-26節)イエス様が十字架で死なれて3日後によみがえったのは、このラザロの生き返るのと異なり、新しいからだでよみがえり永遠に天で住める体です。人間を創造された神様の大きな計画では、人が罪のなかで肉体が滅びて永遠に死ぬのでなく、イエス・キリストを信じることにより、キリストと同じように永遠に生きれる新しい体が将来与えられるという希望があります。そのために、イエス・キリストをこの世に送ってくれて、一人でも多くの人がこの涙を流されるイエス様の愛、神様の愛を信じてほしいと願っているのです。今日はこのイエスさまが私の罪のために十字架で死んでくれたことその愛をメモリアルしたいと思いました。
May 27 ”ハウスメイトとのディナー”
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」マタイによる福音書5章3節

 今日は、ハウスメイト5人で集まり家で一緒に夕飯を食べる時を持ちました。いつもそれぞれライフスタイルが違うので、一緒に食べることはないので、定期的に交流の時間を持とうと企画されたものです。計画した一人もクリスチャンで、夕飯を食べながら、それぞれお気に入りの聖書の箇所とその理由をシェアしようというアイディアでした。一人一人短く分かち合ってくれてとてもよかったです。そして、それが終わると、あとは飼っている犬たちの話でもちきり。(犬が苦手な私はしら〜っと聞いていましたが)
 私は、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」という箇所をシェアしました。英語訳では「Blessed are the poor in spirit」で、つまり”霊において貧しい人は祝福されます”と。なぜなら、神様の前にどうしようもない状態であることを自覚してこそ、低くなってその足りないところをもっともっと神様に求めるから、求めれば与えられ祝福へとつながるからです。逆に自分は信仰深い、スピリチュアルだ!と思っている人は傲慢への罠かもしれません。
 私はこの”心の貧しい”という日本語訳で誤解していたのですが、最近ようやく自分が生活のなかでこれを体験しつつ少しづつ、リアルになってきたことを食事のとき皆にシェアしました。以前の自分は、神様の力は時々かりて、自分はなんでも自分でがんばって努力し、うまく仕事も人生もそこそこ、なんとか切り抜けてきたと思っていたので、無意識にも傲慢で”心が貧しい”という自覚がなかったのです。しかし、イエス・キリストがどういうお方か知れば知るほど、神様の恵みを知れば知るほど、どんなに自分が霊的に貧しくて、無力で神様の助けなしには前に進めないことが多くなってきているのです。生活の中で祈って、助けを求め、すると神様から力が不思議と与えられたり、状況が私の想像を超えたように展開したりと。職場で難しい患者さんと接するときも、車をこすられたり等いやなことが起こったり、言われたりで心に平安がなくなる時も、バイブル・スタディで自分が人に教えるとき、こんな状態で教えられないよ〜神様助けてくださいと祈るときも、神様に求めるほかないのです。
 それでも、ふと気がつくと傲慢になってしまうものです。そんなときは聖書のことば・神様のことばが私に教えてくれます。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録3章17節) 。忘れていたらまた思い出し、等身大の自分が惨めな状態であることを気がついたほうが勝ちなわけです。心が貧しいと自覚があるからこそ、助けて〜と求める、イエス様はそういう人のために来てくださったんだなと。ありがたいです。
May 25 "ミュージシャン@教会"
「ダビデと軍の長たちはまたアサフ、ヘマンおよびエドトンの子らを勤めのために分かち、琴と、立琴と、シンバルをもって預言する者にした。その勤めをなした人々の数は次のとおりである。アサフの子たちはザックル、ヨセフ、ネタニヤ、アサレラであって、アサフの指揮のもとに王の命によって預言した者である。 」 歴代志上25章1−2節

 ゴスペルは音楽のなかで一つのジャンルです。映画等でも黒人の聖歌隊の人が手をたたきながら、のりよくパワフルに歌うというイメージがありますが、あれはそもそも教会の礼拝の中で歌われる賛美歌で、その音楽性のすばらしさにより教会外でもポピュラーになったものです。クリスチャンでないかたも、ゴスペルを聴かれるとき単なるのりのいい音楽としだけでなく、その歌詞にフォーカスするとまた違った味わいがあるのでお勧めです。
 一方、プレイズ(Praise)というジャンルもあり、これも現代風の賛美歌です。これは聖歌隊が歌うというよりも、バンド・ミュージシャンのリードにより参加する会衆がみなで賛美する曲で、教会外には知られてないかもしれません。スタイルが異なっても歌詞はゴスペルと同じですべて神を讃える、感謝するという内容です。教会のなかで、賛美は礼拝の一部で、礼拝の表現でもあり、とても重用です。
 今日読んだ箇所に、そもそも神様への賛美はどう組織されていたかが書かれています。古代ユダヤの王であったダビデは、勇敢な戦士でもあり、才能に恵まれたミュージシャンでもありました。この時代の楽器はいろんな種類の琴があり、ダビデは若いときから琴を演奏するだけでなく、作詞もし、それが聖書のなかの詩篇という本にたくさん、かれの歌が残されています。そして、彼は王になったとき賢く国を治める役職、組織を作り、特に神様を礼拝するための組織はことこまかく、月ごとにシフトを組んで祭司の部族に当たらせ、そのなかでの賛美担当というのがあるわけです。賛美担当部門は賛美を歌い、琴を弾く、熟練された者たちで、また単に楽器を弾き歌うのでなく、預言(神様から言葉を預って人に伝える)もするという重要な役目もありました。ですからかれらの勤めには神様への信仰が必須です。
 私が以前いったことのあるいくつかの教会でも、オルガン等の奏楽者や会衆賛美をリードする賛美の奉仕チームは、才能を生かし、とてもレベルの高い演奏と歌でもって、私たちが神様に向かって集中して歌えるように、礼拝できるように整えら、訓練されている人たちでした。賛美の形態は古今東西異なりますが、基本は同じで、また奏楽者・賛美チーム・聖歌隊の役目は神様に向かって賛美するのと同時に、礼拝に参加する私たち会衆が賛美を心からできるよう仕えてくれることでもあり、そのことをあらためて感謝したいと思います。
May 23 "無視抗戦"
「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めてひとりびとり出て行き,ついにイエスだけになり,女は中にいたまま残された。」ヨハネによる福音書 8章7-9節

 最近、カリフォルニアの州知事やIMFの元専務理事による女性関係の不祥事記事がメディアにとりあげられています。昔から権力者はたくさんの奥さんやそばめ(側出)を持ったり、また今でも?!浮気が男の甲斐性だと開き直る等、しかし彼らがなんと言おうと、そのことにより周りの人へどれだけ負の影響を及ぼしているかは否定できないはずです。男女問わず、不倫:夫婦以外の性的関係は周りに不幸を及ぼすからです。
 イエス様が地上にいらした時代、ユダヤ人の法律では不倫は石打ちの刑(死刑)でした。当時の宗教家がイエス様を訴える口実を得るために、わざわざ神殿でイエス様が民衆に教えているところへ、その不倫の現場を押さえられた女性(相手がいるはずなのに女性だけというのも変ですが)を連れてきて、「あなたは、この女をどうしますか?」と挑戦してきました。
 イエス様は最初彼らを無視していました。こういう、相手を陥れようとして難問を吹っかける人には”無視する”という抗戦も知恵だなと思います。何でもすぐに答える必要はないと。そして最後に、ユダヤの法律も犯さずに彼らの悪意を覆すため、「イエスは身を起して彼らに言われた、”あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい”」と。みな呆然。だれも罪を犯したことない者はいないからです。一方で、刑執行を逃れた彼女には、「もう罪を犯さないように」と戒めます。
 イエス様はこの箇所のように不倫をした人も愛し助けてくれて、もうやめなさいと正しい道を示されます。いろんな罪はありますが、私たちの基準での軽い・重い、もしくは実行犯・心の中の空想や苦いねたみ・敵意であっても、神様の前ではひとつでも罪を犯せば、罪人なのです。ですから、互いに裁けません。そんな心の中のことまで責められたらどうしようもないじゃないですか?しかしここに希望があります。神様の前に罪を認め、悔い改めてイエス様を信じるとどんな罪でも神様が赦してくれるからです。たとえ殺人であっても、刑法的な処罰は受ける必要がありますし、また被害者の遺族は赦してくれないかもしれませんが、神様は赦してくれて、死んでからの魂の領域で罪は残らず裁かれません。そのために、イエス・キリストが十字架にかかってくださったからです。この福音は自分が”罪人”扱いされたくない人にとっては関係のない話かもしれません。
 生まれたからこのかた”一度も罪を犯したことないものがまず石を投げなさい”、といわれたときどうするか。。私は少なくとも投げられません。私は石打ちの刑以上に値するもの、イエス様はさらに人にむかって「ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」*1と私は何度今までばかと言い放ったことか。毎回この箇所を読むたびに、イエス様の愛と犠牲にただただ、感謝をします。
 *1マタイによる福音書5:22
May 22 ”大BBQ大会”
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」。 ヨハネによる7章37-39節

 東北、石巻市で先日、市営住宅前の広場等二手にわかれて行われた100kGの牛肉と野菜、30KGのチキンの大BBQ大会とアウトリーチが私の東京の母教会を中心とする救済チームにより開催した様子の写真を見ました。下記ブログに写真→ http://calvarytohokurelief.blogspot.com/ 避難所で生活している大勢の地域の方々が訪れ、BBQの列を待ちながら、始終演奏される賛美を聞き、また日本人スタッフおよびアメリカの教会から来た人々によりイエス・キリストについて、彼らが日本人のため助けに来た動機:イエス・キリストの愛を伝えるメッセージが話されていたとのこと。私はこのブログが更新され、彼らの活動報告を見るたびにわくわくします。
 多くの慈善に基づく救済団体はもっと多数で大規模に日本で貢献していますが、彼らの活動とは根本的に異なる点があります。クリスチャン団体は人々の物質的・物理的必要のために仕えながら、”心の深い部分、魂の必要”に仕えるという目的があるのです。一時的ではなく、現在から永遠に続く魂の必要を満たすのはイエス・キリストを通して表される神様の愛です。これを分かち合って伝えたいというのが彼らの動機です。そしてブログを読んでいると、強制でもなく、洗脳でなく、自発的に「信じたい」という地元の人が彼らのアウトリーチにより一人また一人と起こされています。奇跡だと思います。
 神様は信じる人に神様の霊(御霊、聖霊)を注がれ、注がれるだけでなく(イエス様は御霊を”水”と象徴されています)、その生ける水が川となって、その人の外へ流れ出る、つまり他の人への祝福となって流れ出ると今日の箇所ですでにイエス様が予告されているのです。キリストを信じてすでに聖霊を与えられているものは、自分のなかだけで神様からの祝福を抱え込むのでなく、更に外に流していく必要があるなと教えられました。そうでないと、まるでパレスチナ地方にある死海という湖のように、川が湖に流れてきてもでていく川がない、塩ばかりたまって生物が生きれない死海状態になっていまう。今おかれた場所で、自分をスルーして、神様の祝福・恵みが他の人へ流れるように、どういう形でかはわかりませんが、求めていきたいと思います。これは自分の力では無理だから祈るしかないんです。
May 20 ”てんかん発作で苦しむ子”
「イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。マルコによる福音書 9章24節

私は重度の知的障がい児施設にて短期間研修していた時(そこは親が自宅で介護が困難なほど重度もしくは、親の精神状態等が特別な事情のある知的障がい児が預けられる施設)ものをいえない子が暴れまわり職員たちに押さえつけられたり、また癲癇(てんかん)発作で痙攣し、泡をふいて倒れてたりという通常見ないすさまじい光景を見たものです。この子達がどうにか、癒されればなあと思い、聖書の今日のストーリーを思い出したものです。
 今日の箇所でイエス様が癒された子供の症状は、幼いときから火の中水の中に飛び込んで、ものも言えない、あわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまうといった、親はひと時も目を話せない、四六時中介護を要する状態でした。弟子たちがその病状を引き起こしている悪霊を追い出そうとしても追い出せず、”出来ないじゃないか”と宗教家達になじられていたところへイエス様登場。その子の父は「もしお出来るなるなら、憐れんで下さい」とイエス様に頼んだので、イエス様はその父親の信仰をはっきりさせるため、ただ癒すだけでなく、びしっと「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。といわれたのです。そして、父親やすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください」とお願いし、そしてイエス様はその子を癒されました。
 イエス様は当時、医学が発達していなかった時代、大勢の病人を癒され、イエス様が癒せなかったケースは記録されていません。しかし、イエス様が天に帰られてから現代に至るまで、信者が病人のために祈っても癒される場合と癒されない場合があります。なぜなのかは私はわかりません。医療が発達している今でも治療不能の難病もあり、奇跡を願いつつ、病気を抱える本人、またご家族の心労は想像できない程辛いものでしょう。
 現代において、医学にて最善をつくした上、祈った上で、更に問われるのは信仰だと思います。たとえ病気が治らないとしても、それには意味がある、私たちにはわからないけど神様の計画のなかで何かあるから、それに信頼してまかせるしかない、と。簡単にそう思えないのも理解できます。しかしイエス様は、私たちの信仰を見られます。その信仰がよわっちょろくなったときは、素直に、この父親のように”不信仰だから、助けてください!”という祈りもありなわけで、そう思えないときはこの父親のように祈ればいいのです。そうすると信仰が強められたり、与えられたりするからです。私も、自分自身ばかりみていると、落ち込みますそして、不信仰に陥りますから、この祈りはいつも必要です。
 信仰とは信じている自分・自分の信じ方を頼るのでなく、信じている対象:”神様ご自身に力がある”と信じること、そして”自分の思うとおりに願いがかなわなくても神様がすべてコントロールして良くしてくださると信頼すること”です。自分でがんばらなくていいです、なかなか神様に任せられない心の状態でも、そのまま、助けて〜と祈ればいいんですと今日のストーリから教えられます。
May 17 "雨上がりの散歩と悲しい知らせ"
 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(イエス・キリストの言葉)ヨハネによる福音書 5章39-40節
 今日は午後珍しく、雨上がりの散歩にでた。普段移動はすべて車という生活、足の筋肉を使わないため先日も子供と庭で走り回っただけで、筋肉痛。健康のために行かなきゃと思いつつなかなか散歩に行かない。それも、今日の散歩に行く動機が、家にお菓子を切らしていて、”どうしても食べたい”という欲求で仕方なくセブンイレブンまでいくという。。今逆に低血糖ぎみの私は、油断するといつかは糖尿病と思うだけで、懲りない。
 ところが、ハウスメートから悲しいニュース。彼女が暗い顔をしてその母と話しているのでどうしたのかと聞くと、彼女の友人(30歳)が糖尿病末期で昨日亡くなったと。先週のハウスメートの卒業式にも人口透析治療(腎臓が糖尿のせいで不全)の為行けなかった。先週土曜、家で一大卒業パーティを開き大勢のゲストに祝福されていた彼女は、その悲しいニュースに肩を落としていました。
 私は、大学時代からの親友が突然、それも理由も教えてもらえず、その夫から喪中のはがき一枚で、半年前に亡くなっていたことを知らされた時、ものすごいショックでしばらく落ち込みました。最後の会ったのは教会のイースター礼拝に誘ったら家族で来てくれた時。今でも、彼女のことを思い出します。大学に入って始めて出来た友達、卒業旅行も一緒にいきました。彼女がイエス様を信じていたかはわかりませんが、彼女はミッションスクールの高校へ行っていました。そして、私がクリスチャンホームで育っているのを知っていて、学生の頃教会にたまにしか行かず信仰から離れていた私に、「陽子、教会は行かないの?」とよく言ってくれたものです。その友人の、若くして突然の死を受け入れるには、私にとって時間がかかったことをハウスメートのことから思い出しました。
 人の死にあたり、永遠の命のことを思わされます。当時のユダヤの宗教家が聖書を一生懸命調べ、教えを守ることばかりで、神様との生きた愛の信頼関係がなく、神様が救い主として送られたイエス様を拒絶しました。彼らにとって良い行いをすること、神の法律を守ることが永遠の命を得ることなのです。しかし、誰も完璧に神様前に正しくありえないのです。だから、行いではなく、正しくない状態のままでも、キリストを信じる信仰さえあればいいんだと、神様は救いのプランを人間に用意して下さいました。キリストが自分の正しくない・罪のために十字架で変わりに罰を受けて死んでくれて、3日目によみがえったことを信じると、罪が赦され、神の子として永遠の命が与えられる、つまりこの体が死んだ後、魂が滅びず、天国で永遠の神様と生きれるという福音(Good News)です。ハウスメートの心に慰めが与えられるよう祈りつつ。
May 15 ”5つのマフィンと2匹のいわし”
「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。 」ルカによる福音書9章16-17節

 私はマフィンが大好き。ジャムをぬったり、チーズとツナ缶をマヨネーズであえサンドイッチにしてたべる、最高です!そして最近はかたくちいわし(アンチョビ)の缶詰をかって、パスタに使ったりして、たまにお魚を食べます。前にも書きましたが、ここではあまり新鮮なお魚が手ごろに入らないので(まあお金に余裕があれば別ですが)先日アメリカ人のハウスメートのパーティが家であり、ツナ巻に挑戦!が見た目がアウト。これは人様にだせるものでない。。しかしアメリカ人的にはSushi!と喜んでくれました。
 マフィンといわしの話しがでてきたのは、今日日曜の礼拝で牧師がおもしろいことをいっていたので書いたのです。聖書に、イエス様のお話が聞きたくて、5千人の群集(男性の頭数が5千なので、実際奥さん、子供いれたら、1万人以上)が集まっていましたが、日が暮れて辺鄙なところだったのでコンビにもなく皆がおなかがすいていたのを、イエス様はかわいそうに思って、弟子たちに「あなたがたで彼らに食事をあげなさい」と言われました。もちろん、弟子は「無理です、そんなお金ないっす。今解散させて自分たちでゲットしてもらってください」と。しかし「何かあるものを」とイエス様はいわれ、群集のなかで一人の子供が自分の持っていた弁当をシェアしてくれたのです。そして牧師が「そのパンは、悪いけど大きさがイタリアンブレッドみたいに大きくない、マフィンくらいのおおきさだし、魚っていったって、いわしくらいのおおきさに違いないよ」と解説し、”5つのマフィンと2匹のいわし”と言い換え、皆笑っていました。人の目に見て1万人にはたかがマフィンといわしサイズなものであっても、神様の目からはその持っているものを神様のために使ってくださいと差し出す、この子供のような心が大切なんだと、教えられました。そして、イエス様の奇跡の力で、どんどこパンと魚がくばっているうちに増えていき、12のかごにあまるほどに。
 私はつい、自分が持っているものが少なければ少ないほど、それをHoldしようとし、人にシェアするなんて心は自分にはないのです。でもこの子供のように、自分の分をイエス様に差し出す、そういうジェネラス(寛大)な心を求めていただきたいなあと。そうすると他の人々へ意外な祝福になるという大きな喜びが、小さい生活のなかでもあるのではないかと学ばされました。
May 14 ”沈黙の意味”
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
 私が日本で福祉の相談員をしているとき、患者さんや利用者さんとの相談援助の会話のなかで、なかなか本音というか、いいたいことを言いいだせない方もいて、沈黙が生じることがあります。素の私だとその沈黙に耐えられなくて、すぐに質問を続けたり、よけいな話をしがちですが(そうすると相手の思いをつかむチャンスを失いかねない)、しばらく、その沈黙をこちらが口出しせず待っていると、相手がぽつぽつと話しだしたりするものです。沈黙をおくということはいろんな意味があると思います。
 遠藤周作さんの小説で”沈黙”というのがあります(江戸末期キリシタンの迫害・殉教が背景)が、今日の聖書の学びで「あなただったら、踏み絵をふむか?」という話題がでました。私は正直、踏まない自身はないと、弱いものだから。。この小説を読んだときになんだか、あまりの内容の深刻さに心が重たくなりました。しかし、最後の部分で救われたというか。。。神はなぜこんな状況で沈黙しているのかと、神を責めているような調子から、神様が「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と踏み絵を踏んだポルトガル人神父に語りかける箇所で、ようやく神様の愛がこの小説で表現されます。そうです、イエス様は十字架ですでに人が極度の拷問を受けることの苦しさも味わい、死も味わい、そして弟子たちの裏切り(見捨ててにげた)も経験しておられるのです。だからこそ、今は死んで3日後によみがえり、天にいますが、人の痛み・苦しみ・弱さに同情できる方で、今もともに辛い状況の人と共に苦しんでくださる同情深い、慈愛の方です。
 この世の中で、理不尽なことや、災害が起こるたび、なんでこんなことが?と叫びたくなることがあります。あたかも神様が沈黙しているのか?みたいな。でも沈黙と私たちが受け取る状況にも、神様の計画のなかでは意味・理由があるのです。私にはわかりません。しかし、理解できることは、神様の視野や計画は人よりも広いこと。人はまるで大きな絵のジグソーパズルのなかの一部分しか見えない存在、一方神様は過去から現在未来へと時間を越えて全体の絵が見えて、計画を持って治めておられる方であると信じて、とにかくわからないなりに神様に任せようと思うのです。
 今日の箇所では神様がエレミヤというユダヤの預言者を通して、絶望のうちにある紀元前ユダヤ王国の状態(バビロニア国により民がみな捕虜となって連れ去られるという時期)に語られたことば、そして今現代を生きる私たちにも語られている神のことばです。神様は永遠という長い期間で見て、平安と、将来と希望を与えるからと。イエス・キリストのおかげで、この世の中のことだけでなく、罪が赦され魂が永遠に滅びず、永遠に生きれるという希望も含めて。そこにイエス・キリストにある希望が見出せるのです。
May 12 ”河北新聞記事:古里宮城”助けたい/宣教師カミングスさん=名取市”

「ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。 」
使徒行伝16章9-10節

 私のフィラデルフィアの友人でMatthew Cummingsさんという方が、今回の地震後、
名取市で宣教師をしているお父さんのところへ支援のため飛んでいった。彼だけでなく、他の兄弟を含み、このご一家の話が河北新聞で下記紹介されていました。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1070/20110508_01.htm
 私の家のオーナーのご両親も宣教師として30年近く新潟に住んでいました。今は90歳なのでリタイアして大分たちますが、今も日本のことを気にかけてくれています。彼らが色々ニュースを見ていて「宣教師で、放射能が怖いと日本をすぐに退去した人がいた!」とそのご夫婦が驚いていたそうです。もちろん、放射能がひどければ危険ですから退去するのはあたりまえです。でも、このカミングス家族のように、住んでいる日本人がいる限り、残ってくれてる方もいるのです。
 イエス・キリストを信じている人々は、自分の善意・人道的にただ行くのではなく、”神が行け”と示されたから、被災地に向かう方が多いと思います。今日の箇所も、キリストの弟子、パウロが幻でマケドニア州の人が「助けてください!」といっているのを見て、神がマケドニア州へ行くように示されたからそこへ行きました。そしてピリピという市にてパウロは伝道し、教会ができます。今回、このような大勢の方々が世界から駆けつけてくれて、本当に頭がさがります。日本のために、感謝です。そして、人々の物質的物理的必要に仕えるためのみならず、さらに人と人とのかかわりを通して、人々の心の深いところでの飢え乾きを満たす必要のため:キリストの愛を知ることにも、宣教師やリリーフ団体の方々が仕えられるよう、遠いアメリカで私は祈ろうと思わされました。
May 10 ”スピード違反”
「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」ヨハネによる福音書1章17節

 ああ、やってしまった。スピード違反。。それは、3月末友達を訪ねにワシントンDCへ車で行った時、高速道路で他の車も飛ばしているからと制限速度オーバーで走っていた。一ヶ月後、郵送で「え?何これ?」と封筒を開けてみると、私の車のナンバーがちゃんと写っている写真と、速度オーバーの記録、罰金の支払い命令が。。。。ひえ〜。でも、規則を破った私が悪いので払いました。
 法律は人を守るためにあって、法律そのももは良いもの、でも守らないと罰金や刑罰が伴います。また刑罰は悪いことをする人のため→私に存在するわけで。社会生活のなかでルールを守らないと罰!という、当たり前のことですがこれにいろんな面で私たちは縛られている面があります。
 聖書の旧約聖書と新約聖書と二つにわかれていますが、簡単にいえば、前者は神様と人との旧い契約:ルールを守れば祝福、守れなければ罰という呪い、それも自分の力で守らねばと、一方後者は新しい契約:信じるだけで、ルールを守れなくても、正しくなくても、イエス・キリストのおかげで赦してもらえ罰を免れ、正しいとみなしてもらえる、という契約が書いてあります。しかし、旧約は新約になるために必要なプロセスであり、旧約の意義は人が結局自分の力では、正しくいられない、全てのルールを守れない存在だというのがわかるために定められたのです。もちろん、私の罰金のように、社会で定められた罰則については、法律を破った人には課されるのが当然ですが。
 法律(律法)は、モーセという預言者を通して神さまから人に与えられ、旧約聖書にかいていある内容は人はとことん、それが守れない、神様に背いてきたという失敗の記録、それでも忍耐強く、愛して下さる神様の愛と、また、”まいた種は刈り取る”という厳しい面もあります。しかし、自分中心のゆえに神のルールを守れなくて罰をうけるべき(→つまり魂が滅びてしまうという罰)なのに、イエス・キリストがかわりに十字架で負ってくれたから、こんな私でも赦されて、天国にて永遠に神様とともに生きれる、これがまさに神様の恵みとまこと(真理)です。このことを信じる信仰が与えられたとき、生きる希望も与えられました。一方、日常生活ですぐに、わすれがちですが、いつもこれを覚えて、感謝しつつ、その大きな犠牲、キリストの愛を受け取って、この地上でキリストのために生きるとはどういうことかを日々の小さな選択肢のなかで、祈って聖霊により導かれつつ、神様が喜ばれることを選び取っていきたいと思わされました。
May 8 "何か願いがかなうとしたら"
「・・・『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことで一生懸命骨をおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも将軍に、何か話してほしいことでもあるか』彼女は答えていった。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております」
                                      第二列王記4章13節
 アラジンの魔法使いの話で、ランプをこすると魔神がそこから出てきて願い事を3つかなえてくれるといわれるシーンがあります。あなたでしたら、3つといわなくても、何か一つでも何でもかなうとしたら、何を願いますか?私は子供の頃一つだったら、”なんでも願いがかなう能力”を願おうと決めていました。なんと強欲な!すいません、でもこれが子供の頃から今に至るまでの素の私。今でもたくさん願い事ありますから。
 聖書には神様がソロモンという古代ユダヤの王様に「何をしてほしいか?」と聞くと、彼は「善悪を判断し民を治める心を与えて下さい」と求めました。そして神様は彼が自分のために富や長寿を求めずに民をおさめるための願い事をしたことを良しと、逆に求めなかったと富や誉も知恵に加えて与えました。ソロモン王の名は世界史の教科書にも古代ユダヤの王国で、当時最も栄えた国として書かれています。
 もう一つ、同様の時代背景でシュネムという街に住む裕福な女性が、神の人:預言者エリシャのお世話をしたとき、エリシャが「何か彼女のためにしよう」というと(エリシャは神様から奇跡を起こす力も与えられていました)、彼女は「私は民の中に幸せに暮らしております」と答え何も求めませんでした。しかし彼女には子供がなく、夫も年をとっている状況をエリシャは知り、彼女に「来年の今頃、男の子が与えられるよ」といって、そのとおり与えられたという話があります。
 イエス様は「神の国と神の義をまず求めなさい。そうすればそれに加えて、皆与えられる」と言われました。神の国とは、イエス・キリストを信じる人の”心のただ中”にあると、つまり国とは領域を示すので神様の治める心の領域が神の国という面もあり、キリストを信じる人がもっと増えるように、また神の義とは、神様に目に正しい(義)ことを人々が求めるようになるように、この二つをまず求めなさいという意味です。私は「〜がほしいです。」と思い、それが与えられないことにちと不満になると、この箇所がタイムリーに与えられ、信仰が試されます。私に必要なことは天の神様はご存知で、神様のタイミングで与えて下さることを信頼し、もっと大切なこと、神様の同じ思い・願いを求めなさいと。このシュネムの女性のように、現状に満足し自分の欲を求めず、神様と同じ願いをもつ心に変えられる必要が私にはあります。求めたいと思います。
May 7 ”母の子への慰め:母の日”

 今年は5月9日は母の日。聖書のイザヤ書で、神様と人の関係を母子の関係に例えられているところを見つけました。聖書では、神と人との関係を父と子の関係(完璧な父がいたとしたらそういう父の子への無償の愛、見返りを求めない愛)で表現されますが、神はご自分のことをこうも表現されています。
「母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰めを得る。あなたがたは見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように栄える。」と語っておられます(イザヤ書66章13-14節)。
 私たちには慰めが必要なときがあります。大事な人を災害・病気で失う、または自分が病気になる、失業する、孤独を感じるとき等。私は独身ですから、よく孤独を感じます。そういう時、本当に心の深い部分のむなしさ孤独を慰めてくださるかたは神様しかいません。神様しか自分を本当に理解し、ケアしてくれる人がいないからです。人の母親も完璧でないから、自分の親や兄弟でも限界があります。しかし、神様は人を創った方ですから、メーカーとして心の深い部分に何が必要かを知っているからこそ、魂に不思議な方法で慰めを与えてくださる、すると自分の内側に平安が与えられるのです。その約束が聖書に書いてあって、聖書=神の言葉で慰められます。
 私は特に今、日本の被災地にいる方々へ、この神様の母が子に与えるような真の魂の深いところへの慰めが与えられるよう、私たち一人一人をどんな状況にあっても養い、助けてくださる方だという希望がもてるよう、日々祈ろうと思います。
May 6 "うれしい春休み"
「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める。」箴言6章6-8節

 昨日から、約2週間ドクターが台湾へ行かれるので診療がお休みです。よって、私も数日オフィスに行って事務的なことや電話対応をするだけで後はお休み、今までが忙しかったので、ものすごく開放感を味わっています。次の長期休みはクリスマス休暇までですから、それまでがんばろう!と私にとって休みは体力的にもまた魂にも非常に重要で、ありがたいです。
 休みというのは、勤勉に働いているからこそ、それを満喫できるもので、ぜんぜん働かないで、いつも休みという状態だとあまり精神的にもよくないものです。何も外で仕事するだけが”働く”ではなく、学生だったら勉強すること、大人なら地域のボランティア活動、教会の奉仕活動、家の仕事、子供の世話等生きていればやることはやろうと思えばたくさんあると思います。ただ、休みは必要です。神様は週の7日あるうち、7日目は休みなさいと定めているのは、神様のためにという意味もありますが、私たちの肉体的必要にもケアしてのことです。
 イエス様は明日のことは思い煩うな、天の神様がカラスを養うように、野のゆりがきれいに咲くように養ってくれるからといってくださるので安心です。将来のことを思い煩う必要はないと。また、お金をもっともっと稼ぎたいと過剰に働きすぎて家族との関係を犠牲することは自分にも人にもダメージを与えます。一方で、神様は一人一人に才能や能力を与えてくれていて、社会生活で互いに助け合って生きる社会的存在として人を創られました。
 今日の聖書の箇所は蟻の勤勉さから学ぶよう、病気やしょう害があるわけでもないのに何もしないで怠けている人にははっきり戒めています。もちろん、病気の方は病気という状態に今おかれているので、治すこと・療養することが仕事です。何も何か見える形で活動するだけが全てではないからです。私は手術をしてすぐに、職場に早期に復帰して肉体的にも精神的にもきつかったとき、同僚のナースが「今は無理してはだめ、体をなおすのが仕事だよ」といって気遣ってくれたことは本当にありがたく、忘れません。
 人はどうしてもおのずと他者と比較し優越感もしくは劣等感を持つ、しかしこれが人を見下す思い、プライド、自己嫌悪と心に苦い思いをも作り出します。神様は一人一人をユニークに創られたのであって、その人の人生の計画も任せていることも違うから比較は意味がないのです。これが頭でわかっていても、気がつくと人と比較してしまう自分、気がついたら、神様の恵み(自分に与えられているものすべて)を思い出し感謝しようと思います。 
May 4 ”コートジボワールの非日常”
「イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、 目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。 そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。ルカによる福音書22章63-65節
 日本の被災地のほとんどの人たちは、いまだに避難所暮らしが続き、非日常の生活を強いられていて本当にお気の毒です。一日も早くせめて仮設住宅にでも住めるようにならないのでしょうか。
 非日常といえば、アフリカの多くの国では生まれてから大人になるまで20-30年といつも非日常の生活をしている人々がいます。難民キャンプ暮らしや、ひどい場合は森の中に隠れる!?”国境を越える医師団MSF”という医療NGOがあり、そこの報告を読んでいると、特に今回はコートジボワールというアフリカ大陸西海岸にある小さな国についてでした。ここは何十年も部族間の紛争で、民兵による一般市民に対する暴力は想像を絶し、どれだけ多くの人が暴力を恐れて森に隠れているのかわからないと。ですからこの団体が医療的保護をしようとしても、なかなか森の奥までいけず、リベリヤという隣国に逃げてきた人たちを手当てしているとのこと。脅迫、誘拐、レイプ、そして生きながら焼かれた人びとの話など、難民たちはMSFのスタッフに襲撃や森の中で経験した恐ろしい出来事について語っているそうです。
 こういう民兵は自分たちが何をしているかわからないのです。子供の頃から武器を持たされて人を殺すように大人たちから訓練されているからです。アフリカの歴史を学んだ人はご存知かと思いますが、そもそも現在のアフリカの民族間の紛争は、過去の欧米諸国の植民地政策が根源なのです。人の欲が人の国を勝手に占領し、奴隷化し、後から民主主義とかいう制度だけ取り入れてそれらの国を独立させてみてもうまくいくはずがありません。暴力というのは、良心がその教育やイデオロギー・宗教により麻痺されてしまうと、どこまでも行くのが恐ろしいです。
 イエス様は十字架にかかる前に、妬みに燃えたユダヤ人の宗教家たちにより、逮捕され、ぼこぼこに暴力をふるわれ、十字架という極刑に処せられました。始終、づっと無抵抗で黙っていて、死ぬまで、「父よかれらをお赦しください、何をしているかわからないのです」と自分を拷問し、処刑にかけている人々のために祈ったほどです。こんな愛は神の子であるイエス様にしかできないことだと思います。イエス様はいい人のためにだけでなく、全ての人のために十字架にかかられたのです。全ての人が赦されるために。アフリカの民兵に人がいつかイエス様の福音を知って、今の人生から方向転換してほしいと祈りつつ。
May 3 5/3/11 "結婚"
「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。」へブル人への手紙13章4節

 先週、英国でロイヤル・ウエディングがあり、全世界に報道されました。結婚式はそれが普通の一般市民のであっても、王室のであっても、簡素であっても豪華であっても、皆が祝福し喜ばしいものです。
 今日は日本から、以前アメリカに駐在していたご夫婦がお子さんを連れて出張でフィラデルフィアに来られていたので、お友達と皆で集まり楽しいときを過ごせました。その集まりにはご夫婦での参加や、小さいお子さん連れでの参加と、私の友人はみな年齢的にも結婚されています。
 聖書では結婚は神様が男と女を創造されたときから定められたもので、大きな祝福です。一方結婚しているのに夫婦のどちらかが他の人と関係をもつことを姦淫といい、また不品行(Sexual Immorarity:同性愛、近親相姦等)は聖書では細かくはっきり関係を汚すものとして禁止が書かれています(レビ記18章)。Sexは結婚している夫婦間においてのみ祝福であり、それ以外はいろんな意味で人間関係にダメージを与えます。よって、キリストを信じている人では結婚前のSexも不品行とされています。
 もちろん、神様に裁かれるようなどんな罪を犯しても、その人が悔い改めて神様に立ち返れば赦されます。そのためにイエス様が代わりに十字架で罰を受けてくれたのですから。人は弱いものです。私がイエス・キリストを信じる前にしてきたことを振り返ると、本当は裁かれべきものだったのに、それが赦されたこと、本当にその大きな憐れみに感謝します。また、厚かましいお願いですが、「人が一人でいるのはよくない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と神様が最初の男性アダムに女性エバを与えたように、私は今でも、神様がいつか夫となる人に出合わせてくれることを祈っています。神様が私の人生においてそれを計画されていればの話で、あまりそれにこだわらずに。今のままでも、生きていられるだけで十分満足ですから。
May 1 ”あんたの国に言われたくない”
 
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 」第一コリントの手紙13章4-7節

私は自分の国のことをよその国から批判とまでいわなくても”なんで日本はそうなの?”と批評されると、ついむっとしてしまいます。あんたの国に言われたくないと(笑、すいません相手を赦します)。変なナショナリズム見たいのが自分にあるんだなあと、ふと気がつきます。自分の身内のことを自分や身内同士で批判することは受け入れられても、他者から言われるとむっとするのと同じ心理でしょうか。
 その批評する人は日本という国をぜんぜん知らない人で、日本の文化的なことや、日本人の性質を質問し、説明するとその後にその人の価値基準をものさしにして「なんでそうなの?なぜこうしないんだ?」と必ず言うのです。国民性の違いだし、そういうものなんだとしか言えず、いらいらし、またその人がクリスチャンだったりするのです。今回の津波のことに関しても心無いことを言われ、相手に悪気がなくてもとてもいやな気になりました。
 クリスチャンと自称している人たち程(自分も含めて)、イエス様の教え:互いに愛し合いなさいを実行できないグループはいないのではないでしょうか?逆に裁きあうのです。また宗派の違いとかにこだわったり、先日もある人に、「おたくの宗派とは違う」と言われ、「でも同じ神様を信じているじゃない?」と言うと、「違うんだよ!」と言われてしまい、その後私は黙りました。私が裁くことではなく、神様とその方の信仰の問題なのです。そもそも皆全部違うものの集まりで、共通点は一つしかないんです。つまりイエス・キリストを信じることだけ。ここで一致しようとする他、歩み寄れない者同士。
 私が信じているイエス様は、”互いに愛し合いなさい”と言われました。イエス様は最初から私たちが愛し合えない者だとわかっていたから、イエス・キリストを信じた後でも、その弱さのゆえに分裂する、違いにばかり目を留め、自分が正しいと通そうとするのをわかっていて、弟子たちに、「だから互いに愛し合うんだよ」という戒めを十字架にかかる前に言われたのでしょう。
 今日の箇所のようにイエス様の意味する愛は、親切にする、寛容になる、人のした悪を思わない等、これがどんなに難しいことか。赦し合えない者です。毎日の生活のシチュエーションのなかで試されます。いや自分の力では難しいどころか、出来ないからこそ、”神の力で助けるから、やろうとしてごらん”と言っておられるのが救いです。そして自分でやろうとして出来なくても神さまは私を責めません。だけど、愛し合おうという方向に自発的に進むことは私の責任です。そうでないと、まわりからみても、結局クリスチャンとて何が違うんだ?と、キリストの証にならないのです。とにかく、ハウスメートを愛せるよう、神様助けて下さいと祈って、寝ようと思います。そして祈りは聞かれるから感謝です。。
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