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信条・Statement of Faith

Bryant Park@NYC, May 2011
Today's Sharing

June 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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涙腺弱い 中国オリジナルの賛美歌 詩的センスゼロ ユニークな日本人宣教師さんとの出会い
後ろ向きな考え The only way v.s. one of ways シンデレラ物語 刃物もってけんか!
10代の子の苦悩 人が気になる 大胆な発言 正確でない体重計
りんごのランチ ポーの一族(漫画) 初めの愛:First Love

ロバロバ・カフェ

June30
ユニークな日本人宣教師さんとの出会い

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 マタイによる福音書28章19-20節

 先日、突然ハウスオーナーから「日本人女性で、北朝鮮人への宣教師の人と会った。今フィラデルフィアに滞在しているので陽子の連絡先を教えておいたから」といわれた。北朝鮮??あそこの国は宣教師はおろか、そんな簡単に入国できないはずだけど、どうやって?と。彼女も詳しくは話しを聞いていないとのこと。
 そして、その方が先日私が仕事からの帰宅途中に連絡を下さり、これから家に来てくれるというので、家に何もないため、せめて茶菓子でも用意せねばと思い、店によって帰宅。私は彼女の情報を全く知らなかったので、初めて会って色々お話を伺った。なんと、私の叔父と神学校で同級生だったという。世界は狭い。共通の知人もいて、話に花が咲く。
 彼女は非常に気さくで、しかしやっていることはウルトラ・パワフル。アジアの国を何ヶ国もまたがり、もともとは中国人に宣教したいという思いが与えられたと。そして、中国にて地下教会(家の教会)の人々と関わるうちに、北朝鮮からの脱北者を助け、福音を伝えと、それこそ神様の守りがあったからこそ、今までご無事でというような宣教活動をされている。詳しくは彼女のとても面白い”ずっこけ宣教道”(下記サイト)をご覧下さい。http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=000243
 短い時間ですが、脱北者の方や中国のクリスチャンの現状、また日本の被災地にて一ヶ月間救済活動を教会を通して行ってきた話等、非常に興味深い話を聞くことが出来、私はとても励まされた。神様は彼女を通して、過酷な状況にいる人々、虐げられている人々を助けつつ、キリストの愛を伝える宣教の働きをされていることを知り、非常に感動。私のような平凡な者にも忙しい中、会いに来てくれて感謝しつつ、これからは、彼女のためにお祈りで支えられたらと思う。イエス様を信じ、下記のイエス様のことばをそのまま実行している同胞のために。
June28
詩的センスゼロ

「神はわたしのように人ではないゆえ、
わたしは彼に答えることができない。
われわれは共にさばきに臨むことができない。
われわれの間には、
われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。」ヨブ記9章32-33節

詩を自分で作ったことがありますか?学校の授業で作るように言われて、子供なりに、ああ自分はセンスがない、がんばっても作れないと自覚したものです。短歌もだめ、川柳くらい作れればと思うのですが、無理。作れないだけでなく、有名な人の作品も中身を解説してもらわない限り、その良さがよく分からないのです。詩的文学的センスがないのでしょう。
 毎年、この時期に聖書の中でヨブ記を読み始めます。最初の部分はストーリーとして分かるのですが、正直、3-41章までは”詩的文学として優れている”といわれても、これまたぴんと来ない。他の書以上に解説が必要です。
 ヨブは自身に突然襲った艱難、病気にとっても苦しみます。3人の友達は最初は彼を慰めようとしてきたのですが、ヨブと問答しているうちに慰めるどころか、追い詰めてしまう。物事には原因と結果がある、罪に対しては罰、神は正しい、等々。そんなこと言われても、彼の苦しみへの答えにならないのです。ヨブはその詩的文章のなかで「私と神の間には、仲裁者がいない」と。ヨブは仲裁してくれる誰かが必要だったのだと解説されて、ぴんときました。
 幸いなことに、神様と私との間に、仲裁してくれる人:イエス・キリストが与えられているんだなあと。もしキリストがいなければ、私は、なぜ、どうして?とこの世の理不尽や自分の身に起こったことに苦悩し、原因を探し、自分・人を責め、神という存在との大きな隔たりを感じていたままだったでしょう。シンプルに神様、イエス・キリストを与えてくれてありがとう!と思いました。
June27
中国オリジナルの賛美歌

「信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」使徒の働き8章2-4節

 私の職場はドクターが台湾人のため、一部の患者さんは中国語スピーカーの方々。私は横で聞いていて、なんとか一言でもキャッチできたらと耳を澄ましますが全くだめ。一言も聞き取れません。中国語がわかったらなあと。
 以前、中国のクリスチャンの人たちによって作られたオリジナルの賛美歌を聞いたことがあります。非常に独特でパワフルです。楽器がなくてもみんなで歌える唱歌のようなのりです。
 中国の貧しい農村地区では、まさに今日の聖書の箇所のように、家の教会と呼ばれるキリストを信じる人々が、政府公認のキリスト教でないため、公安局に迫害されています。リーダーは捕まると牢獄へ入れられ、他の散らされた人々は他の村々へいってまたキリストを伝え、賛美歌を歌いながら福音が普及していくそうです。以前そのドキュメンタリーDVDを見たことがあります。すごく、パワフルでした。
 政府公認のキリスト教@中国では、教会で私達が使っている聖書の一部しか使われず(例えばダニエル書とか黙示録は除かれます)、牧師の説教の内容も公安にチェックされるそうです。共産国である中国がキリスト教を部分的にも認めてるようになったのは逆に興味深いです(資本主義とセットなのでしょうか)。家の教会では、こっそり海外から入手した我々が使っているのと同じ聖書をもとに、リーダーが教えます。ですから中国の家の教会の人たちは全員が聖書を持てないわけで、2千年前の人々が聖書を持っていなくても、口伝えでイエス・キリストの福音がどんどん普及していくという、まさに2千年前の初代教会の時代を思い浮かびました。
 使徒の29章だなと思いました。えっ、ちょっとまって29章はないですよ?そうです28章までです。「使途の働きは今でも続いている、つまりそれが29章だ!」と表現した牧師がいます。なるほどと思いました。
 使徒の働きでは弟子達がキリストの福音をエルサレムから始まり、当時の世界とされるローマ帝国内の地域へ町々を歩いて、口コミで普及していき、教会(当時はそれこそ家の教会に近い)が形成される様子が書かれています。今も、中国だけでなく、ITというツールでもって最先端の方法で福音は広がっている。この中国のDVDをみて、私のように神様の憐みによって先に信仰が与えられた者は、自分のおかれた場所で、それぞれの方法でキリストの福音(御言:神のことば、聖書)を伝えたいなあと励まされました。 
June25 涙腺弱い

「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。 」使徒の働き7章57-60

 私は昔から涙腺が弱く、感動する映画を観ても泣く、悲しくなると涙が止まりません。また、10代の時演劇部だったのでよくその役になりきって、すぐに涙を流して演技ができたという利点もあります。しかし、冷静に話し合いをしなくてはいけない時、感情を抑えないといけない場面、どうしても涙がでてしまうのは、いまだに私の課題です。
 毎年聖書を一年かけて最初から最後まで通読を始めて、数年にもなりますが(もちろん、読めない日あり飛ばすこともあります)。読んでいて、いつも涙がでるところは同じようです。今日の箇所はその中の一つ。キリストの弟子ステパノという人が殉教する場面。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」←私はこのことばに反応。ステパノは、キリストを救い主として伝えることで、当時のユダヤ人から憎しみで、石打の刑にあっている最中(じりじりと石を投げつけられていく、一気に死ねない処刑)に、どうして、石を投げつけている人々をケアすることが言えるのか?彼はイエス様が十字架にかかったときと同様のことを言ったのです。イエス様は「主よ、かれらを御赦し下さい。かれらは何をしているかわからないのです。」と最後までその場にいた人々からあざけられ、見捨てられ、ばかにされ、もっと残酷な処刑方法である十字架上で命を引き取りました。イエス様は神の子なのですが、そのとき人間の肉体を持っていたから、まさに痛みはフルインパクト。ステパノがイエス様と同様にできたのは、聖霊(神の霊)の働きだと思います。
 そして、ここにサウロと呼ばれてたクリスチャンの迫害のリーダーだった人が、石打の刑の証人として着物の番をしていたというのも、驚きです。神様は、元迫害者サウロを回心させ、なんと大使徒パウロとして、世界に伝道旅行へ行かせ、新約聖書の多くの手紙の著者として、用いてしまう。これは神業だなと。だからこそ、パウロ自身、自分が以前どういものだったかをよく知っているので、低い姿勢。誇らない。すべて神様の恵みで、今の自分があると自覚できる人です。すべて、私も、今ある自分は、神様の恵みのおかげであること、自分の努力とかたくさん祈ったからではなくて、信仰さえもプレゼントしてもらったんだ。神様の一方的な憐れみだとうことをいつも覚え、感謝したいなと。
 聖書を一人で読むときは、涙腺弱くてもいいや〜と思ったりします。
June23 刃物もってけんか!

 「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。 」使途の働き6章1節
今日は水曜日。仕事を終えて、教会のバイブル・スタディから夜遅く帰宅すると、なんと家の前にPoliceの車が2台もピカピカひかって止っている。近所の人も家から出てきて見物。なんだか物騒で、ハウスメートに「何かあったの?」と聞くと「向かいの家の女性同士が、刃物もってけんかしてたらしい」。アメリカ人(と、ひとくくりにすべきでないが)は激しいというか、まあ、鉄砲でなくてよかったです。一応、治まったらしく、Policeは帰っていきました。
 今日読んだ聖書の箇所は、初代教会内で、人数が増えるにつれて、そのやもめ(未亡人)の間の食料の配給のことでいざこざがおきた話です。ここでのやもめたちは刃物こそは持ち出しませんが、クリスチャンといえども、人が集まるとちょっとしたことでも もめごと・争いが起こるものです。クリスチャンは聖人ではなく、私も含め、神様の前に罪びとで、信仰が与えられてから、徐々に内側の性質が変えられていく開発途上中ですから。もちろん、使徒達はこの件を賢く治め、逆に、それをきっかけにますます、キリストを信じる人が増えていったと記録。もめごとがあることはノーマル。それをけんかして終わりでなくて、祈って建設的に話し合えればベストです(使徒6:2-7)
 今晩は、アメリカ人の教会ですが、賛美と祈りと、聖餐式の時が持ち、本当に感動して、力を受けて帰宅したのですが、現実の社会は厳しいと感じざるをえません。しかし、こういう現実にて生活するために、神様の助けと、守り、そして信仰を強めていただきたいなと思いました。
June21 シンデレラ物語

「モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。エステル記4章13-14節

幼児のベイビーシッターをしていたとき気がついたのは、誰も教えなくても、女の子はプリンセス・王女の洋服や話を好み、男の子はスーパーヒーローのキャラクターや車・機関車トーマス等で遊ぶ傾向性があるようです。女性は結婚式でも王女様のように主役として美しく着飾りたいものです。シンデレラの話は、女性の潜在的な願望を具現化した物語なのでしょうか。個人差はありますが女性はいくつになっても美しくありたい、男性はヒーローでありたい、かな?
 今朝読んだエステル記は、聖書の中で女性にとってはシンデレラス物語としてだけでなく、ハラハラするエキサイティングな内容です。ユダヤ人である、孤児のエステルは、おじのモルデカイに養育されていました。紀元前5世紀、その当時世界を征服していたペルシア帝国の王よりみそめられ、彼女は王妃に抜擢。ものすごい人数の中から選択されたので、ラッキーというより、まさに神様の技。その後、ユダヤ人を虐殺しようとした時の大臣ハマンの策略を、その王妃のポジションを利用し、その計画を阻止できたという話です。王妃といえども、王がその人を呼ばない限り、勝手に王の前にでていくと死刑という法律があったため、エステルは死を覚悟して王に嘆願、今日の箇所は叔父のモルデカイが、エステルに「もしかしたら、お前が王妃に抜擢されたの、このためだったのかもしれないぞ!」と言ったところです。
 ユダヤ人の習慣では今でも虐殺から免れた日を記念し、プリムの日とし、ユダヤ暦でアダルの月の十四日を年々祝うそうです。
 私はユダヤ人ではないけれど、この話を通して、神様はイエス・キリストを2千年前にこの世に誕生させる系図、それはアブラハムという人からおこったユダヤ民族、その中のユダ族というダビデ王が含まれる王の系図から生まれるように、何千年も前から計画されていたこと(創世記49章10節)、そしてユダヤ人が撲滅されたら、民族が終わってしまい、系図も絶たれるという危機に介入されたと思うのです。神様はこのエステルというシンデレラストーリーを通して、不思議な方法にてキリストが生まれる民族を決して絶やさないようにされたんだなあと。一方、我々一般人に対しても一人一人が生まれてきたことに計画をもっておられ、たとえ紆余曲折、いろんな危機があっても、救出してくださる、イエス・キリストという救世主を与えてくださる、恵みの神様なんだと、思わされました。
June20 The only way v.s. one of ways

「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。」使途の働き5章29−33節

 今朝、いつものように出勤時にラジオをつけると、他の局がかぶさってしまし、いつも聞いているFMが聞くことができず、仕方なくちょうど持っていたMP3プレーヤーで、運転しながらなので、てさぐりでてきとうに選んで聞き始めました。すると、なんと内容が(日本の母教会の牧師の奥さんの話でしたが)私の心にぴったり必要な内容、昨日からあった心が騒ぐこと、悲しい思い等に対する励ましが、聖書のことばを通してメッセージされていたので、驚き。神様は、ちゃんと私の必要な心の糧を、いつも聞くFMがきけなくても与えてくれた、すごくうれしかったです。
 今西欧や日本で、イエス・キリストを信じているからといって迫害されて、殺されそうになったりは幸いにありません。しかし、中近東ではクリスチャンになるイコール死刑だったり、クリスチャンというだけでアフリカでは大殺戮が現代でも行われています。今日読んだ箇所は、初代のキリストの弟子達が、復活したイエス・キリストよりミッションを受け、聖霊を与えられて大胆に伝道しだすと、ユダヤ人の宗教家達から迫害を受けました。しかし、彼らはそれをものともせず、牢獄にいれられようが、むちうたれようが、死刑になろうがその信仰を譲ることはなかったのです。しかし、現代の迫害がない国でも、言論による攻撃、批判、中傷はネット上や出版物・面と向かってもたくさんあります。
 教会にはいろんな方が訪れます。特に海外にある日本人教会は、日本人だけでなく、キリスト教を信じてなくても日本の文化・日本語に興味があるという理由で来る方もいます。教会はオープンですからどんな動機であれ歓迎ですが、たまに、ご自分の宗教をたてに議論を仕掛けに来る人がいます。昨日はたまたまそういうアメリカ人の方も含め幾人かでランチを食べていた時、その方がキリスト教がいかに悪い宗教かを私と牧師に議論を始めたのです。”仏教はもっとやさしい、ひろい。あなたがたのキリストだけが唯一の神への道だという信仰、聖書を見字どおり信じてること、それがいかに狭く、排他的か、そのせいで過去の歴史で戦争をし、人に強制的に改宗させてきたじゃないか。キリストだけという信仰に固執すべきでない”というのです。もちろん、キリスト教を政治に利用して戦争をしてきたのは悲しい事実です。しかし、その戦争をしてきたトップの人たちはキリストの教えを一つも知らないし、キリストに従っている人たちではないことは確かです。イエス様は一言も、他宗教を攻撃しろとは言っていないし、逆にイエス様の教えは”復讐はするな”、”自分に良くしてくれない人に良くしろ、敵を愛し、祝福を祈れ”です。キリストが神の子で、キリストを通しての唯一の神を信じる信仰を持っているならば、戦争はしないし、強制して改宗させないはずです。彼女のポイントは、すべての宗教の神を認め、キリストはその中の一つだという、one of ways 広い考えを我々に持ってほしいということでした。私達は聖書を神の言葉として信じていますので、彼女の意見に従って、信仰を変えることは出来ないのです。会話は平行線でしたので、最後に”くりすちゃんはだからマイノリティーで、アウトサイダーなんだ。人のために祈るんじゃなくて、もっと自分のために祈れ!”と彼女は牧師に向かって言い放った後、我々が黙ると「私は議論するつもりはないのよ、ディスカッションをしているだけよ!私もJesus好きよ」と。
 今朝の励ましのメッセージを聞いて、こういう議論をぶつけてくる人とこれからも会うことは多いと思いますが、議論はせず、黙ってその人のために祈ろうと、気がつかされました。イエス様は彼女のためにもすべての人のため、十字架で死なれた、そのイエス様の愛を知ってほしいと招いているから。
June20 後ろ向きな考え

「イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。」ルカによる福音書9章62節

私は日本でOLをしていた時、飲み会・食事会・旅行等、会社の多くの人と広く付き合いがあり、おしゃべりだったので、社交的だと思われ自分でも比較的明るい性格だと思っていました。しかしある人から「お前は根暗だろ」と言われて、すごくむっとしたことがあります。認めたくなかったのです。しかし後になって自分の傾向性が非常に根暗だと気がつきました。つまり、いつもこう考えがちだったのです。”あの時、ああしていたら、こうならなかっだろう。。。”と過去のことを振り返っては、もう起きてしまったことに対して別のシナリオを立てて空想し、現在の不満足な状況の言い訳をしていたものです。だから、根暗なんです。(なぜ、奴は見破れたんだ!?)
 信仰が与えられてから、その後ろ向きな考えがでてきたら、それが意味のないものだとストップし、大分そういう習慣はなくなりましたが、たまにやります。もちろん、過去の失敗・経験から学び、それを繰り返さないという教訓として振り返る、フィードバックは必要ですが、私の後ろ向きな考えは建設的でないどころか、それに拘ると前へ進めないのです。
 今日礼拝で学んだところで、2千年前、当時のユダヤ人の間で、”この人こそわれらが待ち望んだ救世主だ!”と人気があって、お弟子さんが付いてきた状況のイエス様のところへ、ある人が来て「あなたについていきます。あっ、でもその前にこれこれがあるからそれ終わったら〜」と言いました。するとイエス様は「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」と。手をすきにかけるとは、すき(犂)で畑を耕し始めること。いったん仕事にとりかかったら、前をみないと進めません。単調な作業ですから、一心に前に向かって耕す、もし後ろ向いてすきをふりあげていたら危ないです。ついていくと決めたら、後ろを振り帰るなという原則を言われています。
 私はもともと、神の国にはふさわしくないものです。イエス様は、はっきり原則は言いますが、だからといってその人を拒否しません。逆に自分がふさわしくないと認めてキリストのところへ行けばいいのです。イエス・キリストのおかげで、ふさわしくないのに、その大きな愛と十字架の犠牲のゆえ赦されて、変えられ、今の世の中と死んだ後の両方において希望が与えられるからです。イエス・キリストを信じる信仰は、ふさわしくない自分、神を拒否していた自分を含めた過去の罪が赦されるために、キリストの十字架があると信じることも含みます。だから過去のことはもうおしまい。これからどう生きるかです。そして、将来の犯すであろう罪ももちろん、悔い改めれば赦されるので、やり直しがなんどもきく。また、たとえすべてこの先どうなるかわからなくても、神様がなんとかしてくれるという信頼感が不思議と与えられ、例えば自分の性格のどうしようもないところ、悪循環的習慣等、諦めていることさえ、”助けて〜”と願えば神の力によって変わることが可能であるという希望です。私は何度もどん底へ行き、助けて〜と祈って、気がつくと、状況が変わり、助けられ引き上げられてきたという経験があり、ああ、今回も助けられた。。とその変わらぬ慈愛・忍耐に感謝です。単純にその愛に応答して、失敗だらけですがイエス様についていきたいと願います。
June17 正確でない体重計

今日は朝から非常にブルーになることが発覚。(くだらないことですが、女性陣には共感していただけるかと。。)2週間前いつも使っている体重計で量ると、5パウンド(約3KG)も痩せているので、やった〜♪と大喜び。でも一時的かな、暑かったし水分だけ減ったからすぐ戻るかとも、しかしその後も計り続けるとそのままなので、油断してたくさん食べていました。するとだんだん、5パウンド減ったわりには洋服のサイズが変わらない、おかしいと思い、別の体重計で量ってみると、なんと7パウンド増えているではないか!!!つまり、壊れている、正しくないので図っていたので、やせたつもりが、それは事実ではなく幻想、だまされていたのです。おかげで2パウンド増。ちなみに、台所にあった20パウンドのお米の袋で、どちらが正しいか確認。結果、別の体重計が正しく、もうがっかりです。
 たかが体重の話ですが、秤が正しくないというのは不正にもつながります。昔は現代のように世界的基準グラム、メートルがなく、その地方独自の枡やはかり・単位を用いていたし、だれも厳しく検査する人がいないので、秤売りをする場合不正もあったようです。ですから聖書に「あなたがたは、さばきにおいても、物差しにおいても、はかりにおいても、ますにおいても、不正を行ってはならない。 あなたがたは正しいてんびん、正しいおもり石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。」(レビ記19章35-36節)と神様が預言者モーセを通してはっきり正しいこととして教えられています。
 基準というのは、ある意味相対的です。その国、時代、宗教によって異なり、それが正しいと教えられその人の価値基準となっていく。しかし他の国へいってみるとそれが通用しない。海外に住んでみると実感します。それでは、みんな相対的だから、なんでもOKかというと、そうなると戦争・不正・人間関係における問題が増大し、それが社会・世界問題です。互いの違いを受け入れるというのは必要ですが、人として根幹の倫理については相対的では困ります。
 神様の愛は、相対的でなく、時代や社会によって変わりません。そしてその愛が正しい基準だと相互が認め、やろうとして出来れば理想です。例えば、「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 」(第一コリント人への手紙13章4-7節)こういう愛について、だれも否定しないでしょう。しかし、人間の素のままではこの愛が実行できないのが現実です。これが壁にかかげた理想でなく、これが生活の中で我々の現実へと適用となるために、イエス・キリストが2千年前に来てくれました。どうしても自己中心でこれらの愛の実行ができないという罪、その私の罪ために十字架で変わりにその罰をおって死んで、甦られ天に今はおられます。そしてこのキリストを信じると、罪が赦されるだけでなく、神の愛が実行できるよう、少しづつ変えられていくという希望の約束があるから(ローマ人への手紙5章1-5節)、信じられるのです。難しい基準だけ与えられて、自分の力でやれというほど辛い修行はないですが、神の愛は求めれば注がれる、つまり自分になくても不思議と与えられるという、小さいことですが生活の人間関係の中で体験しています。私にとっては聖書に書いてある神の言葉が、日常生活での量りであり、相対的でない・騙されない・幻想でない基準であることが感謝です。
June15 大胆な発言
「王はわたしにむかって、「それでは、あなたは何を願うのか」と言われたので、わたしは天の神に祈って、 王に申しあげた、「もし王がよしとされ、しもべがあなたの前に恵みを得ますならば、どうかわたしを、ユダにあるわたしの先祖の墳墓の町につかわして、それを再建させてください」。 」ネヘミヤ記2章4-5節

私は10代の時、好きな科目は世界史でした。他の国の昔がどうだったのか知るのがわくわく。世界史の先生の教え方も良かったので恵まれていたと思います。ですから、以前よく旅行に行くときも、遺跡とか歴史的建造物がある国を選びました。
 紀元前一世紀前後は、地中海沿岸の世界が文明が栄えていて、さまざまな国が新興し、覇権を握ってはまた後からおこった国に支配されると戦争の歴史でもありますが、その関係で人々が移動するとき文化の交流もあるようです。今日の箇所はその時代背景で、古代イスラエル人がアッシリア帝国、バビロニア帝国、そしてペルシャ帝国により次々と征服され、捕囚として他の土地へ移されていた時代です。征服された国の人々の中から優秀な者が選ばれ、王の宮殿で仕えさせるためペルシャの教育を受けていました。このネヘミヤ記を書いたユダヤ人(イスラエル人)は当時のペルシャ王(アルタクセルクセス一世)の献酌官(王様にお酒を給仕する側近)でした。彼は、祖国エルサレムの町、と国城壁がバビロニア帝国により破壊されたままであることを聞いて、非常に嘆き悲しみ、また祖先および自分達が神様に逆らったことを悔い改めて祈っていたところですが、どうしても悲しい顔を王の前で隠させなかったのです。そこで、王は「どうしたのか?」とネヘミヤに聞くと、その理由をそのまま説明しました。その当時、ペルシャ王は西はギリシャそして東はインドまで征服した大王で、比較的今までの帝国とは異なり、非征服民族に寛大で彼らを祖国に帰還させる政策を採っていたのです。
 ネヘミヤの大胆なところは、王から「では、あなたは私に何をしてほしのか?」と聞かれた時、天の神様にその場で心の中でおそらく”神様、なんと王に答えたらいいでしょうか?”と祈ってから口を開いて、的確な嘆願を王にしたことです。”私の祖国エルサレムの町を再建したいのです”と。命がけのお願いだと思います。帝国の王は気分次第で人を生かしも殺しもできるパワーをもっていたわけですから。しかし、ネヘミヤは人間の王よりもはるかに力があり、世界史をもコントロールしている天の神様に頼っていたので、恐れず、続けてこれこれの期間お暇をとらせていただき、再建のためのこれこれの材料を下さい、またこういうサポートもお願いします、と王に言って、みごとに許可をもらえました。
 私のような平凡な小さい存在にとって、大きな集団のトップや、偉い高官と話す機会は人生にないでしょうか、それでも生活において、何か的確に相手に何かお願い・相談する必要があるとき、ネヘミヤのように瞬間的に、”神様、なんと答えたらいいでしょうか?”と祈れるようになりたいなあと、この箇所を読むたびに思わされます。そして、自分にはない勇気やふさわしい言葉が天の神様から与えらと信じています。
June14
"人が気になる"

「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。」ヨハネによる福音書21章21-22節

「私の死んだ祖母・祖父/母・父はどうなるんですか?」日本では先祖崇拝という伝統があり、家に仏壇があったり、亡くなった祖先・家族を大切にしますから、キリストを信じる話をすると、よくこのような質問をされます。そこで、私はこう聞き返します「もし、どうなるか答えが得られたとしたら、それが”あなたの”イエス・キリストを信る、信じないという決め手になるのですか?」と。するとたいがい「いや、そうではなく、ただどうなるか知りたいのです。」と。更に「キリストの福音を知る機会がなく、亡くなった昔の方々がどうなるか、聖書に書いてないので私はわかりません。ただわかることは神様は公平なかただし、憐れみ深く情け深い方だということです。」と私は答えます。もっと納得のいく答え方があるかとは思います。しかし、信仰はあくまでも、自分自身のことです。もしかしたら、人がどうなるかを気にしているのは、無意識にも自分の深い部分の問題に向き合うのを避けようとしているかもしれません。
 もちろん、社会の中において、他者がどうするかを確認することはある程度、礼儀・節度として必要です。しかしながら、人生の生き方に関しては固有のもの。他者の生き方は参考になりますが、その人にはなれないし、真似もできない。なぜなら人は指紋が一人一人異なるように、世界で一つの存在だから。親や先生が10代の頃に色々教育、指導を通して、大きな影響を与えることはできますが、その人がその子供の代わりに人生を生きてあげることはできません。ある程度強制はできても、心の中まで強制はできないし、いつか爆発するものです。本人が問題と向き合う必要があります。
 今日の箇所では、イエス様の12弟子の中でペテロという人が、イエス様と自身の今後の大切な話をしていたのに、別の弟子・ヨハネのことを見て、「この人はどうなのですか?」とイエス様に質問しました。3年半、イエスについてきた弟子達は、いつも誰が偉いかと議論していたくらいですから、どうしても他の弟子のことが気になってしまうのでしょう。すると、イエス様は「それがあなたと何の関わりがあるのか、あなたは、私に従ってきなさい」とびしっと言われました。所詮あなたはあなた、人は人。「あなたは、どうしたいのか?信じるか/信じないか?従うか/従わないのか?」と現代に生きる私達一人一人が、イエス様よりそれぞれの段階で、問われるのではないでしょうか。
 信仰を持つことは家族の宗教がなんであれ、無神論であれ、結局自身が情報を得て、どれが信じるに値するかを見極め、自分で決めるという面があります。キリスト教は、イエス・キリストを信じる信仰です。漠然とした神様ではなく、もっとパーソナルな神との関係が与えられ、自分の罪からの救い主としてキリストを信じる、またキリストを通して信じる父なる天の神様は、人間を愛するために創られた神であることを信じて、従うことです。家族のことが気になるのであれば、自分がキリストを信じてから、家族のために祈ることができます。また、すべてのことがわからなくても、神様に任せようと、あれこれ思い悩まなくなります。信仰のもう一つの面は、プレゼントであること。何も努力しなくても、ただ”ほしい”と思えば信じれるように不思議と心がかわっていたりします。神様は一人でも多くの人が救われてほしい、死んだ後も、魂が滅びずに永遠に天国でいっしょにいてほしいと、選んで、招いて、プレゼントをうけとってほしいと待っていてくれる、愛の神様です。
 私もかなり人と比較し、人がうらやましいと思ったり、人が気になる者でした。しかし、キリストの愛により、私の内面が少しづつ変えられ、”人はどうであれ、自分は神の前にどうしたいのか?”というのを意識するように変えられつつあるのは不思議です。これは素の自分ではなく、聖霊によって変えられているのだなと感謝です。
June13 "10代の子の苦悩"
「イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。 ところが、その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒して、引きつけさせた。イエスはこの汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった。 人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。」ルカによる福音書9章41-43節

 ”アメリカでは1分間に3人の10代の子が自殺、フィラデルフィア市では10代女子の90%が妊娠”という統計を、アメリカ人の牧師から聞きました。日本も毎年3万人の人が命を自ら命を絶つという悲しい現実がありますが、アメリカもかなり酷い現実に驚き、胸が痛くなりました。アメリカの犯罪は日本より20年進んでいるという話を15年前聞いたことがあります。薬物中毒・児童虐待・猟奇的殺人等。日本で児童虐待防止法、ストーカー行為等の規制等に関する法律ができたのは本当に最近です。アメリカではすでに犯罪のレベルが著しく法律で規制せざるを得ない状態だったので、その手の法律は日本よりもはるか前からあるわけです。
 牧師のメッセージのポイントは、”われわれ大人(特に親)は、なんとしても、この状況の中において子供達をジーザス(イエス)のところへ持ってかないと!”ということでした。彼らは親がいなかったり、低所得で教育もきちんと受けられない環境。また周りの大人が薬中、盗み、不道徳なことをしているのを目の当たりにしていたら、感受性の強い、情緒がまだ安定していない若い10代はどうしたって影響をうけます。学校だけに頼れません。たとえミッションスクールに行っていても限界があると。(私も日本でミッションスクールに通っていたので、学校教育だけでは限界があることは知っています)やはり、親が、教会が子供を正しい方向に導く義務があるんだなと。自分自身は子供がいないけれども、私の今の出来る範囲で、ジーザス(イエス)の教え、愛をサンデースクール(子供向けの教会学校)で教えていきたいと、強く思わされました。
 私達は、この犯罪が横行し、戦争や内戦で虐殺・レイプ・人身売買が現在も世界のどこかでおこっている中で、出来る事は限られているけれども、現実を知って、子供達のために祈りつつ、何かしていかなければと思わされました。今日の箇所は、子供が悪霊につかれて、今で言う自傷行為を続け暴れまわってしまう、火の中水の中に自らを飛び込ませてしまうほどコントロールがつかない精神状況で、その親がイエス様に助けてくださいとお願いしたところです。弟子達には出来ませんでした。神の力で可能だという信仰が足りなかったからです。その状況に、「ああなんという、不信仰な曲がった時代か!」とイエス様は心から嘆かれ、悪霊を追い出し子供を癒されました。
 現代でも一分間に3人もの子供が希望もなく、アルコール・薬物中毒等で自ら自殺してしまうのも同様、絶望状態なのです。しかし、希望は一つだけあります。子供たちをイエスのところに持っていくのです。これは、2千年前も現代も同じだなと、犯罪が凶悪化し、IT化し時代は変わりますが、イエス・キリストなら、絶望状態からその本人、家族に助けが与えられること。キリストには力があると信じる信仰、その約束、言われた言葉(神の言葉)を信じて祈り、イエスに助けを求めるとき、奇跡がおこる。神の偉大な力が現されてほしいと思わされました。
June10

ロバロバ・カフェ

「・・・そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれた時、弟子たちの群れは皆、自分達の見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声で神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ、主の御名によってこられる王に。天には平和。栄光は、いと高きところに」」ルカによる福音書1935-38

 私の東京の実家の近くに、ロバロバ・カフェという小さなカフェがあります。通りすがりでまだ入ったことはないのですが、とてもおしゃれなカフェで、ろばろばというネーミングがなんともかわいいので、動物好きの私と妹はとてもその名前が気に入ってその名前を思い出しては二人で盛り上がります。ロバというと、昔は庶民的な家畜であり、人や荷物を運ぶ手段でもあります。一方、馬はそれに比べれば大きく、早く、力もあり、王様や兵士は馬を乗りこなします。でも私としては庶民的なロバのほうが親近感があります。

 今日の箇所は、イエス・キリストが子ロバにのって、エルサレムに入られ、ユダヤ人の群集・弟子は大喜びで、「ホサナ!」(今、救ってください!の意味)と叫んで、イエスを迎えたところです。普通、王の凱旋や行進であれば、馬や戦車、ロールスロイスにのって、窓から手をふるとかそういう立派な出で立ちで行進するはずですが、イエス様はロバなのです。当時の(現在も)ユダヤ人は聖書に預言されているメシヤ(救い主、王)を待ち望んでいたので、奇跡を行い・権威のある教えをされるイエスがそれかな?と期待していたのです。でもかれらの期待する救い主は、この世の政治的な、またユダヤ人だけの救い主でした。神様はすべての人の罪からの救い主として、イエス様を送られる計画を最初からされていて、その計画は十字架にかかって人間の罪を負うというミッションを持つ王だったのです。このことは聖書の中のイザヤ書53章にも書かれ、またロバに乗ってくる王というのもゼカリヤ書(9:9)にて預言されています。

 イエス・キリストは王であり、救い主ですが、政治的な王ではなく人の心を治める王です。”神の国は私たちの心のただ中にある”とイエス様は言われたように、心を神様の愛で治められている人が増えていくとき(つまり神をキリストを信じて、神に任せる、神に従う人)、神の国はすでにきて広がると。イエス様は神の子であるのに、人としての誕生も、貧しい馬小屋でしたし、イエス様の活動はいつも社会の弱者のために仕えられ(病人・悪霊に疲れた人を治し、売春婦、前科者、ローマ帝国への税金の取立て屋等、一般の人から見下されたり、見捨てられていた人々)最後も何も悪いことをしていないのに、当時の宗教家の妬みで十字架刑に処せられるという、人として低い、位置にいてくれたのです。

 子ロバにのってこられる王、イエス様は、その柔和で低く、天の父なる神様の計画に従順に従って、苦しみの十字架刑へと向かわれたので、3日後に死からよみがえられた後は、天に帰られてから、神様はイエス様を高く上げられ、今は神様の右の座におられると書いてあります。イエス様の低さ、神様への従順な態度はいつも私の模範です。それがいつも生活のなかで、どうしても自分の自我が心をしめ、神様が心を治めていない状態:愛のない状態になってしまいがちなので、神様の霊(聖霊)により、気づかせてもらいたいなと今日も祈って、一日を始めようと思いました。

June 8 "初めの愛:First Love"
「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。」黙示録2章4-5節

First Loveというと、いわゆる初恋と訳され、歌にも、映画にもあります。男女間の純粋な・ほろ苦い愛だったりしますが、私は初恋ってあったのかなあ?と10台の時から惚れっぽかった私は、どれが最初だったか確かでないですが、とにかく小学生のとき男の子として意識した人は、もちろん私の片思いのまま、まもなく転校してしまいました。大人になってあるとき彼が夢の中にでてきたことがあります。
 男女の愛は、初恋に限らず、結婚においてもしばらくたつと、”あの結婚したばかりの最初の愛はどこへ?”と、その最初の愛を持続するには夫婦とも努力がいると、既婚者から言われたものです。どの人間関係においても、初めの頃の感動的な熱情的な感情の部分を自分の力で持続させるのは確かに困難ではないでしょうか。自分ががんばっても相手方がいることですから。
 今日の箇所は、「あなたは初めの愛(First Love英語訳)から離れてしまっている、どこから離れたか思い起こし、初心に帰れ。」と初代に出来た7つの教会へイエス・キリストからのメッセージが書かれているところです。キリストの弟子ヨハネにより、神様から啓示が与えられて書かれた黙示録の部分で、ここはエペソへの教会へ。彼らは、初めてイエス・キリストによる愛を知ったとき、その十字架での犠牲の愛と、死んでよみがえられ天に帰られたイエス・キリストを信じる信仰で、神様からの恵みを受け、人生に希望をもてたとき、本当にイエス・キリストを熱心に信じ、愛した(神を愛するとは、神の命令を守ること、つまり互いに神の愛で愛し合えというのが実践)。しかし、クリスチャンがものすごい勢いで広がり、また教会(今のような豪華な建物でなく、当時家の集会)が成長すると、同時にローマ皇帝を神として拝めと命令する当時の政府より大迫害を受け、また、偽教師もでてきて嘘の福音を伝えて信者を惑わしたり、すでに教会と呼ばれる集合体のなかでたくさんの問題がおきました。エペソの教会はそんな中、正しい信仰を守ろうとし迫害の中忍耐したことはほめられましたが、後半で”初めの愛へもどれ!”といわれてしまうのです。
 いつのまにか、最初にキリストを信じた時の感動、自分がどんなところから救われたのか、引き上げてもらったのかを、私もすぐに忘れます。目の前の状態にぶつぶつ不平をいったり、人と意見の相違でぎくしゃくしたり、人を裁いたり、争いを傍目で見て失望したりします。最初の愛から離れるとは、要は神様の恵み、神が自分の人生にとって何をしてくださったかをすぐに忘れてしまう、近視眼的なものなのです(第2ペテロの手紙1章9節)。しかし、いつでも悔い改めれば赦されるところに希望があり、感謝です。そのためにキリストは十字架で死んでくれたのですからありがたいです。そしてこの神様の愛は、すべての人間関係に適応が出来るから、祈って助けを求めることができます。神様が解決してくださるから、自分ひとりでがんばらなくてもいいのです。今日の箇所は今に生きるクリスチャンにもいつも示される、アラームだと。アラームのありがたささは、目が覚めること。スヌーズにしてだらだらまどろまないようにしたいと思わされました.
June 7 ”ポーの一族 (漫画)”
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」 ヨハネによる福音書17章3節

 私は子供の頃、少女漫画ばかり読んでいました。時代がばれますが、なかよし、リボンといった雑誌で、とくに普通の恋愛ものよりも、ちょっとミステリアスな、禁断の内容にとってもひかれて、単子本をせっせと購入して読んだものです。この間、ニュージャージー州にある日本の古本屋にいったとき、ついなつかしくて昔読んだドラキュラ(吸血鬼)の話”ポーの一族”を立ち読みしました。彼らは人間のふりをして密かに生活し、人の血をすって年をとらずづっと何百年も生きると。ただ、なぜか十字架で心臓をさされると、ちりになって消えてしまうというおちです。漫画ですが、人の血まですって不老不死になりたくないですね。(笑)
 ”永遠になんか生きたくない、永遠なんてあきる、つまらない、人生太く短く生きて、死んだら終わりなんだ”と多くの方が思われると思います。しかし、もし死んだ後、魂は永遠に続く、つまりあなたという人格は永遠に続くとしたら、その居場所が@神様とともにいる場所Aゲヘナと呼ばれる、いつも火が焼きつくし、うじがつきない、死にたくても死ねないところ だというオプションがあるとしたら、私は@がいいです。私は脅されてそう思うのでなく、神様はすべての人に@に来てもらいたい、一緒に永遠に天国に住んでほしいと思って、そのためにイエス・キリストをこの世に2千年前送られたのです。なぜなら、素の人間は、自己中心、創造者である神を否定、自分勝手に生きる(これらを罪とよびます)者。だからキリストを信じてその罪が神の前に悪かったと悔い改め、神様と和解する必要があるからです。そのためにキリストは十字架で処刑されました。私たち一人一人の罪の処罰をかわりに受けるために。人がその友のために死ぬこと、これほど大きな愛はないと、イエス様はおっしゃって、ご自分がそれを実行され、一人一人に対する愛を示されたのです。その大きな犠牲の愛に私は応答し、キリストを信じて、天国で永遠に住みたいと思っています。恐れではなく、愛が動機です。
 聖書では”永遠の命”ということばがでてきます。これはいわゆる一般に考える不老不死ではありません。今日の箇所ははっきりと永遠の命とは何か?とイエス様が弟子たちにはっきり教えられました。つまり、本当の神様とその子イエス・キリストを知ること。知るとはただ知識として知るのでなく、信じることです。もちろん、イエス・キリストを信じると、この肉体が死んでも、魂が永遠に生きるという時間的な意味もありますし、また魂だけでふわふわ天国でいきるのではなく、キリストがもう一度、この世に裁きのために現れるとき(再臨といいますが)、キリストを信じてその時生きている人も、信じて肉体が死んで魂が天国へ行っている人も、新しい体が与えられ、永遠に天国で住むという約束が書いてあります。イエス様が十字架で死なれて3日後によみがえられて、幽霊としてでなく、新しいからだで弟子達の前に現れたように、私たちの肉体は死んでも、いつか新しい体が(イエス様によると結婚もないし、御使い:天使)のようだと、そして天国は悲しみも苦しみもない世界です。
 死んだ後このことばかり考えて、現実逃避して生きるのではなく、生きている間は、やることがいっぱいあります。天国でも任されることがあるとイエス様は言ってます。一方、一人一人その寿命はどうであれ、神様はこの世においてもその人への計画があるからです。それはすぐには分からないのですが、祈って求めていくと、一歩一歩示されていくようです。もっと先が見えればいいなあと。でも神様の一人一人への、日常生活での地道な計画は、暗闇の中で足元をともすランプのようです。でも必ず神様の恵みによって導かれるという、平安が与えられて前に進んでいきたい、永遠の命は、この世においても進行形なのだなあと。
June 5 ”りんごのランチ”
「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、またあなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」           ヨハネによる福音書15章17節
 私の仕事へ行ったときのランチはいつも、りんご一個とクラッカーやクッキーと簡単なものです。ドクターがそれを見ていつも笑いながら大丈夫?と。でも私は夜はしっかり食べますし、間食は何度もしているので、かえってそれが私にとって調子よい。りんごやオレンジとフルーツを食べるたびに、これって、実がなるまでに時間がかかっているんだよなあと、思いつつがぶっとかじります。
 りんごがなるまでには、農家の人が非常に手をかけています。肥料、防虫剤、刈りこみ(実に栄養が集中するためいらない枝を切る)、また日本の大きなりんごなんかはひとつひとつに袋をかけて、霜からまもったりと、大量生産の気候のところのりんごはそうでないかもしれませんが、とにかく、当たり前のようにして食べているフルーツは、自分で栽培しているかたはご存知ですが、時間と労力がいるのです。
 イエス様は3年半弟子たちとすごし、教え、最後に十字架にかかる前の晩に、弟子たちに多くのことを教えられました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。・・・あなたがたは枝である」(15章1、5節)イエス様が木で、天の父なる神様が農夫、枝がキリストを信じる者として相互の関係を説明されました。枝が枝だけでは実がならず、木から栄養をもらわないと、また農夫が肥料をくれたり世話してくれないとりんごはならないのです。キリストという枝につながっているとは、キリストを信じて、従っていくこと、そうすれば実をむすぶといわれました。実とは何か?キリストの愛の実践です。相手を赦したり、忍耐したり、怒らない等々。これは枝だけの力ではできません。そんな愛は自分たちの持ち前では作り出せないと、神様はわかっているから、だから、キリストにつながって愛をもらって、とにかく神様が実を結ぶよう助けるから、感情的にはできなくても、愛そうとしてごらんと。
 クリスチャンと自称している、私を含めた人々は、神様の愛が何か聖書を学び、そしてイエス様の命令「互いに愛し合いなさい」を知っているはずですが、その人たちが一番教会のなかで互いに愛し合おうとしないものだなと、何か意見の相違がおきると痛感します。感情がこじれると、投げるのです。投げないで、感情的には相手の顔を見たくない、関わりたくないという状況であっても、イエス様がそういわれるんだから、助けてもらって愛そうとしようと決める。すると、時間がかかるかもしれませんが、ぎくしゃくしていた感情がなんだか素直になれて相手と穏やかに話せる、そんな経験をすると、ああ神様が実を結ばせてくれていると、感動します。これからも神様の愛が与えられることを信じ、前へ進んでいこうと。実を結ばせるためには神様がその願いを聞いてくれると今日の箇所で約束があるから。ただ農業は時間がかかる。一晩で実は結ばない、とりんごをみるたび思い出そうと。
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