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信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Nov. 2011

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言



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明けの明星
感謝と不平 アフリカン・ナイト 横暴な?上司 教会での奉仕
朝ごとに新しく 格差反対デモ 火傷 えこひいき
よく引っ越す人 来て、見てみて! 狩のシーズン 明るいお葬式
Nov. 30 ”明けの明星”

「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。 」第2ペテロの手紙1章19節

 聖書での”預言”というと、一般的な予言(将来のことを予告すること、何年にこの世の終わりがくるとか。。)以上の別のニュアンスがあります。人が”神様からことばを預かる”と読んで字の如し。特に聖書の前半の旧約聖書:キリストが2千年前に来る以前に書かれた書物には、多くの預言者によってこれからおこること、すでに成就したことも含めたくさんの預言が書いてあるそうです。イエス・キリストの誕生の場所とか、十字架・復活については約300箇所、そしてキリストが将来また地上に来られること(再臨)については1500箇所以上あるそうです。
 今日読んだ旧約のエゼキエル書38章では、キリストが来る前(終りの日の前)にロシア軍?がイスラエルを攻めると、解釈できる預言のところでした。昔の地名ですからロシアとは書いてませんからはっきりはわかりませんが地理的にそうとれると、そしてそこでロシアが同士討ちをすることとなり軍は壊滅。非常に興味深い預言です。私は聖書のことばをそのまま私的解釈をせず、みな神のことばと信じているので、世界のニュースを見る際も、こういう聖書の預言を視点において世界情勢の動きを観察します。
 クリスチャンにとって、「夜明け」というのはイエス・キリストが来らる時でもあり、それを待ち望みつつ、その明星が心に昇るまでは、暗い中でも聖書の預言(ともしび)に目を留めているとよいと、キリストの弟子ペテロは手紙に書いています。ともしびですから、全てが今は見えませんが、聖書に書いてある約束・心に与えられている聖霊(神の霊)を確実な希望・保証として、淡々とこつこつと生活しながら、待ち望みたいなあと思わされました。 
Nov. 27 "教会での奉仕"

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」第一ペテロ4章10節  賜物=ギフト

  私は小さいころピアノを習っていましたが、才能がなかったので中学でやめました。ところが、以前アメリカに留学時、ある日本人教会にいくと、いきなり「あなたピアノひける?ちょうどよかった、人がいないの。じゃあ、来週から賛美歌ひいてね。はい練習用キーボード」といきなり礼拝での奏楽を頼まれ、その後へたくそなので大変でした。練習に練習をかさねても、礼拝の当日はあがって不協和音が会堂に響き渡りと。ましてや、実はあの時私は教会には慣習ではいっていましたが、信仰をはっきりと持っていなかった為、日常生活と信仰が乖離していた苦悩の時代。自身の教会での存在価値が奏楽であるかのように勘違いし、私の信仰にとって遠回りの活動でした。
 才能が先ではなく、信仰が先です。才能とか、何かをしているからそれが教会での自身の存在価値であっては、当人にとってつまずきとなります。私がそうだったからです。キリストを自分の救い主として信じて、キリストに従っていこうという人が、キリストのために、キリストの共同体である教会の人々に互いに仕えあうため、教会の様々な役割を小さいことでも分担するのが、教会での奉仕の目的と意味です。よってまだ信じていない方、模索中の方は、気軽に来ていただき、とにかく聖書のことばを聴き、教会の様々なイベントや集会に参加していただくことが、有る意味重要な役割かもしれません。
 もちろん、お手伝いはその方が自発的に手伝ってくださるのであれば、おおいにお願いしますし、共に働くことは喜びですし、クリスチャンが信じている信仰に触れる機会となるからです。一方信者であっても、神様から与えられた才能を自分で得たかのように誇ると、教会の中でバランスが崩れてしまいます。今日の箇所は、信者にむけて書かれた手紙の内容ですから、信仰をもった上で神から与えられたギフト・恵を良く管理しつつ、誇らずにそれを用いて互いに仕え合いなさいという文脈ととります。私も小さいことですが、神様から与えられているギフトを神様のために、忠実に用いて相手に、またキリストの愛を知らない方々に仕えられるよう求めようと思わされました。
Nov. 25 ”横暴な?上司”

「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」「僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それは喜ばれることである。」第一ペテロの手紙2章13,18-19節

 私の現在の上司はとてもやさしく、私の健康に気を使ってくださる方なので、ありがたいです。今まで様々な会社や病院/施設等で働いてきましたので、上司が必ずしも自分とうまが合うとは限らないし、仕事だから仕方なく従いますが、裏でぶつぶつ同僚と文句をいっていたことがあります。会社員が飲みに行って上司・同僚の悪口、批判で盛り上がるのはよくあることですが、今はしないようにしています。今日の箇所を読んだからです。
 今日の箇所を始めて読んだとき、「え〜?」と正直思いました。この訳では”気難しい主人”(現代で雇用関係での雇用者に適用します)となっていますが、他の訳では”横暴な主人”と訳されています。横暴な上司でも、主(神様)のゆえに従いなさいと、そんなのいやだなあと。おそらく、キリストを信じているとはいっても、この部分を無視すると、大きな単位では革命や戦争を起こしてその横暴な政府転覆をはかったり、小さいレベルですと、上司と喧嘩して辞めるとか。いずれにしても平和的ではないです。これを聞いてからは、感情的には嫌でも、上司に従う路線でと決めていますので。(時々ぶちきれてしまう不完全な者ですが:笑)、以来、転職する際いつも平和的であったのは感謝です。
 もちろん、現代は自由に雇用関係を結べるので、例えば不正なことを従業員にさせる会社に勤め続ける必要はないでしょうし、人を殺せという政府に従うべきでないと、なぜなら”神に従う”という点でコンフリクトしますし、自分の良心が汚されてしまうのであれば、祈ってどうするか知恵が与えられて決断する必要があるのではないでしょうか。
 これが書かれた約2千年前は、奴隷は主人を変えることはできないという点で、酷な主人の場合、不当な苦しみを神を仰いで耐え忍ぶしかなかったでしょうから、現代の我々は恵まれているとも思わされました。
Nov. 23 ”アフリカン・ナイト”

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。」へブル人への手紙11章14-15節

 今日は元ハウスメイトの家にパーティがあり行ってきましたが、メインのお客はアフリカのウガンダという国から来ていた方々と、またアメリカの大学のプログラムで、ウガンダへ研修にこれから行くという学生達とそのOB、そして私の今のハウスメイトであるケニア人も来ていてと、今晩はアフリカン・ナイトでした。(ホストはアメリカ人ですからアメリカの食事でしたが)
 ウガンダという国はどんなとこなんだろう?と彼らの会話から垣間見つつ、想像してみました。ケニアの話はちょこちょこ、ハウスメイトから聞けますが、私の乏しいアフリカのイメージはサファリパーク:ライオンとキリンがいる草原。実際のアフリカの国々は近代化と昔ながらの生活の入り混じった空間?、また内戦・飢餓もありと、想像を超える世界。私は学生の時、アフリカの政治を勉強したことがあり、特にザンビアに行ってみたいと思ったこともありましたが、今となっては私の人生でおそらく行く機会はないと思います。
 今日たまたま聞いていた牧師のメッセージが、「あなたは見たことがない、天国に憧れて(思いをはせて)いますか?」という内容でしたが、まだ行ったことのない場所に思いをはせるというのは、そこへいつか行きたいという強い希望・憧れ・理由が必要です。私は、なかなか日常生活のなかでそう思えない、目の前のことで精一杯というのが正直なところです。
 多くの信仰の先輩たちはこの世では旅人、寄留者であって、天国というふるさとを求めていたと、今日の箇所で学びました。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」*1、こういう信仰をもっといただきたいなと思わせれました。
*1 へブル人への手紙11章1節
Nov. 22 ”感謝と不平”

「「主に感謝せよ、主は恵みふかく、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と、
主にあがなわれた者は言え。主は彼らを悩みからあがない、
もろもろの国から、東、西、北、南から彼らを集められた。」詩篇107編1-3節(主→神)
 
 人が感謝を言い表しているのを聞くのは、聞いていてとても良いものです。子供が、小さいことにも”Thank You”と一言いうよう、幼い頃からしつけられているのをみていても、とても微笑ましいです。
 逆に、人が、例えば毎日のように自分の配偶者の不平不満を職場の人やクライアントにこぼしていることほど、聞いていて嫌なものはありません。本人はそれを話し、自身がどんなに大変か、自分に同情してもらいたいから話して、憂さ晴らしをしているのかもしれません。もちろん配偶者がアル中、暴力を振るう、不倫・借金という深刻な話であれば、建設的に方策をともに考えるという意味で相談にのる必要があります。しかしそれ以外のぐち、不平不満をこぼすことは回りに毒をまきちらかしているのと同じです。その人自身の根底の苦い思い、いつも満足できず、感謝しない心、”自分がいつも正しくて相手が悪い”という観点での批判・ぐちは自分自身の心を蝕み、聞いている相手をも汚染することに気がつかないからです。残念ながら、人は悪口を言い合うことで盛り上がったりすることは職場、家庭でもよくあること。聖書ははっきり悪口をいうなといっています*1。私も以前信仰がないときは、ばりばり盛り上がっていた者ですが、今はそれがどんなに良くないことだと知ったので、しないよう気をつけています。舌をコントロールするのは聖霊の助けが必要です。*2
 人との比較ではなく、自身と神様の関係のなかで、どんなに神様が良くしてくれたかを感謝できることは幸いです。たとえどんな境遇にいてもいつも感謝できることは一つあります。それはキリストが自分のために十字架で死んでくれて、私の罰をおってくれたこと(これを”あがない”といいます)、そのおかげで今の自分が新しくこの世で生きることができ、また天国で永遠に生きられるようにして下さったこと。本当はそんなことをしてもらうにふさわしい人間でないと、己を知れば知るほど、申し訳なくて、神様の多きな恵みに対する感謝が大きくなります。今週はアメリカでは感謝祭のある週ですが、そのことを覚えてお祝いしたいと思います。

*1(ヤコブの手紙4章11節)  *2(ヤコブの手紙3章5-10節)
Nov. 20 ”えこひいき”
  
「しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。」ヤコブの手紙2章8-9節

 子供に聖書のストーリを教えていると、シンプルな質問されるので逆に学びます。たとえばノアの箱舟の話をしていると「えっ、それって神様えこひいきじゃん」というコメントをする子がいます。私は神様はえこひいきはしないこと、皆に平等にチャンスを与えるかただと説明しました。
 今日は”いい人とか悪い人だからではなく、天国に行くか行かないかは、神様・イエス様を信じるか信じないかによるし、一人一人が決めるんだよ”ということを説明すると、「他の教会でもそういってたけど、そうなんだ、自分できめるんだ」と子供なりに納得していたようです。また紙芝居を見せていると、「なんでこの話が本当のことかわかるの?」との質問。「聖書にかいてあるからだよ」とシンプルに答えました。そしてお祈りのリクエストを聞くと「〜のポケモンが与えられるように、便利だから〜」と小学生らしいお願いごと、微笑ましいです。
 子供にシンプルなことばで、神様はえこひいきをされないかたで、一人一人を大切に思っている優しい愛のかたであること、皆に天国にきてほしいことを説明したいです。一方で、子供の理解力に応じて、私たちはロボットのようにプログラムされて、神の命令に従う存在ではなく、一人一人自発的にその神の愛の招きを受け取ったうえで、ルールとして強制的に守ろうとするのでなく、神の愛に応答してその命令「自分を愛するように、あなたの隣人をあいせよ」に取り組むこと、それは具体的に少しづつ説明していければなあと、それには神様の上からの知恵が必要と思わされました。
Nov. 17 ”火傷”

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」へブル人への手紙12章1-2節

 朝、いつものようにコーヒーをドリップし、終わったと思ったフィルターをゴミ箱に捨てようとしたとき、まだ熱いコーヒー液と粉が中に残っていてそれが右足の甲に思いっきりかかってしまい、かなりひどい火傷をしてしまいました。痛いよ〜どうして?とショック。火ぶくれができ靴もよくはけません。ちょうど余計なことを思いめぐらしていたときで、その内容がよくないから、こうなったのか?とつい思ってしまいます。そう、いつも不意の怪我やうっかり車の運転での違反時は、上の空なことが多いのです。
 痛い思いをすると、次回は気をつけようと思うものです。しかし、私は不注意なため、小さい生傷が耐えません。怪我だけでなく、習慣的なことについても私は人生で、痛い目や恥ずかしい目にあい”もう2度と繰り返さない”と決めたことを簡単に繰り返してしまう、意思が弱い者なのです。
 キリストを信じる信仰が与えられてからも、自分の性格、気性、習慣的なもので神様の目から見て良くないもの、また自身でも問題意識があること、それらがすぐに変えられないことに忍耐を要します。神様の憐れみによって、ものの考え方は以前とは180度変わってきていますが、まだそれが全ての態度や行いに反映するまで時間がかかるのです。しかし、自分の意思だけでがんばらず、キリストから学ぼうとすれば、神様が助けてくれるという約束があるので本当に感謝です。そうでないと私のようなものはつぶれてしまうか、あきらめてなげやりになるか、前進がないからです。
 信仰的な面でも、自分の内側でなかなか変わらないところについて、あきらめたくなるとき、神様がキリストを十字架の死から3日後に復活させたと”同じ復活の力”で、神には何でも可能なんだと信じ、キリストに目を向けて、前進しようと今日の箇所を読んで励まされました。
Nov. 16 格差反対デモ

「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。 」へブル人への手紙10章23-25節

先日、フィラデルフィアのダウンタウンへ行くと、市庁舎の周りにテントがたくさん設営されていました。そう、NYのウォール街で始まった格差反対デモは世界中に広がっていて、ここでも同様に繰り広げているわけでます。
 人は何かを訴えるときデモンストレーションを行います。一人より、二人・三人・・・と集団のほうがダイナミクスが生まれ、時には国を動かす政治的な力ともなるからです。一方でデモは暴力的・破壊的な行為に発展する危険性があり、そのために死者や被害者を生み出してしまうという悲しい面もあります。
 同じ集まりでも、静かでかつパワフルな集まりがあります。それは初代のクリスチャン達の集会で、そこではデモをして自分たちの信条を世間に訴えたり、ローマ帝国下の圧制や迫害に対し集団で訴えたのでなく、家や集会所に集まって、使徒たち(キリスト)の教えを守り、祈り、パンを裂き(聖餐式)、フェローシップ(キリストにある交流)のため集まっていたと聖書に記録されています。(使徒2章42-47節)この小さな静かな集会が基礎となり、その後、全世界にキリストの福音が伝えられていきました。残念なことは、その後”キリスト教”という宗教制度へ変わってしまってからは、中世の歴史にみるように政治的になり、もはやキリストの教えは忘れられ、宗教をたてに戦争をしていることです。
 イエス・キリストは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」といわれました。互いにというのは、一人ではできません。相手が必要です。一人で「自分は神を信じているから、教会に行く必要ない」という方がいたら、それはイエスの教えに従わず、自分勝手な宗教・神を作り出しているのではないでしょうか。初代教会から数十年たって、すでに集まることをやめてしまっていたクリスチャンがいたので、今日の箇所はその人たちに対して、集まって共にキリストにある希望を確認しあい、愛と善行を励ましあうようにとの勧めです。
 自分ひとりだと、いかに自身が他者を愛せないものかがわからない、自分と異なる考え、世代の人と集まってみて初めて自分に愛がないと自覚します。そこで、神に求め愛せるように変えてもらうところに、神様の力が流れます。共通点はキリストを信じる信仰だけ、それ以外の多様性・相違点があるのは当たり前。しかし争うために集まるのでないので、本来の目的を忘れず、もともと互いに愛し合えないものだという自覚をし、だからこそ神に祈って助けてもらおうと思わされました。
Nov. 14 朝ごとに新しく

「どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
しかし、わたしはこの事を心に思い起す。
それゆえ、わたしは望みをいだく。
主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」哀歌3章19-23節

 フィラデルフィアエリアは、すっかり紅葉が深まりました。毎朝、通勤の山道にて、時には落ち葉が雪のように風で待っている様子は壮観です。
 私のような贅沢な環境にいる人もいれば、かたや同じ地球でそうでない環境にいる人のことを昨晩思いました。教会からもらった祈りのリクエストで、クリスチャンという信仰をもっているがゆえに、南米のコロンビア、アフリカ、アフガニスタン、北朝鮮で、その信仰のゆえに殺され、牢獄に長いこと入れられ、強制収容所みたいなところにぶちこめられているそうです。またコロンビアだけで過去5年間で300人以上の宣教師が殺害。コロンビアの過激ゲリラ勢力にとって、クリスチャンは脅威なのです。自分たちがリクルートしようとする若い世代を取られるからです。
 私は直接海外のそんな危険なところへ行けないし、アメリカ国内でさえ自分の行動範囲内のところしかいけません。昨晩は、迫害にあっている人々のために静かに祈りました。私の小さい祈りも、他の人たちの祈りと共に神様に届けれることを信じ、また祈りを聞いてくださる神さまの力に期待して。
 今朝読んだ箇所は、哀歌という悲しみの歌です。へブル語での聖書のタイトルは「ああ」で、これは書き出しのことばからとられています。”ああ”と叫ぶ、ため息をつかざるをえない状況、人それぞれ異なるでしょう。その嘆きが何であれそれを真に理解し、慰めを与えることは人には限界があります。しかし神には可能です。神を信じていると、絶望のなかでも今日の箇所のように「(主のいつくしみ、あわれみは)朝ごとに新しい」と言える、まさに驚くべきことです。そして、これを読む私たちへの大きな励ましです。キリストの弟子パウロも、様々な困難にキリストのゆえにあい、その中で神からの慰めをうけたのでこう書いています。
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第2コリント人への手紙1章3-4節
Nov. 10 ”明るいお葬式”
「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い」へブル人への手紙5章4-6節  (幕屋→この地上での体、その上に着ようと願うもの→復活して与えられる新しい天国での体)

 今日は、葬式に行ってきました。故人のご主人がアメリカ人だったので、黒人の方が集まる教会でのお葬式で、それはまるでゴスペルコンサートのように、すばらしい声の持ち主が次から次へと賛美歌を歌い、また牧師が熱く、その故人が信じていたイエス・キリストがどういう方かメッセージで語っていました。まあ民族性というか、牧師がワンセンテンス話すたびに、”ハレルヤ〜、そうだそうだ〜 ジーザス!”と叫びますので、とてもにぎやかなお葬式でした。一方、家族のかたは悲しみで号泣。その方をティッシュを片手にうちわ!?で扇ぐ係りがいます。でもそんな悲しみのなかでも希望と喜びがあるのが不思議な空間です。
 お葬式での希望といったら、死後の世界のことしかありません。それ以外に、故人がどんなにすばらしい功績を残した人でも、亡くなってしまったので、故人を偲ぶしかないですが、それだけでどうやって遺族や友人達は真の慰めや励まし、希望を得られるのでしょうか?もう二度とこの地上では会えないのは確かです。ですから、ここでイエス・キリストを信じる信仰がある人は、必ず天国で故人と会えるという確信があるので、そこに希望があり、明るいお葬式なわけです。
 他の宗教にも極楽とか人が勝手にイメージした天国があるかもしれません。そこはよい行いをした人しか入れないでしょう。でも良い行いとは?時代や民族によって相対的ではないでしょうか。しかし真の神様がおられる天国に入るには、行いではなく、キリストを信じるだけです。すると、神と人とを隔てている人間側の罪が赦され、心に神の霊(聖霊)が与えられ、それが天国へ生けるという保障となると、聖書の書かれています。そのために、キリストは十字架で死なれ、復活され今は天国で毎日人のために祈ってくれているという、これこそ福音(ゴスペル)です。
 日本や海外で図らずもキリスト教式のお葬式に参加して、この福音を聞く機会がある方々が、その希望と神の恵みを受け取れますように祈りつつ。
Nov. 9 ”狩のシーズン”

 アメリカ東部では、秋は狩猟の季節だそうです。患者さんの一人で鹿狩りが趣味の方がいます。驚いたことは、彼は弓で鹿をしとめるそうで、とってもエキサイティングだと話していました。弓矢は昔から武具としても使われていましたが、弓の扱いは的が固定されていても難しいのに、ましてや、動く標的をしとめるというのはかなり訓練がいることでしょう。
 ダーツをやった経験のある方は想像つくと思いますが、なかなか的の真ん中にねらっても当たらないものです。”的外れなことをいう”、”的を得た”という表現がありますが、何にしても的を外さないでいる、というのは容易なことではありません。
 聖書で「罪」と訳されているギリシャ語は「ハ・マルティア」で、「的を外す」という意味です。刑法的な罪というより、もっと根源的な罪、つまり、もともと神様が人間を創られたとき、神と共にいて、神の思いに従っていた状態から、人間が離れてしまい、自分中心の、自分で善悪を決め、自分の人生自分の好きなように生きるという態度となってしまい、神の存在さえも否定する、もしくは神を自分の願いをかなえてくれるだけの都合のよい存在としてしまう。これが的外れ状態なのです。神様の基準は完璧な的であって、人間のメーカーであるので、何が人間が共に生きるうえで大切なのかよくご存知です。それは神の愛だと、聖書を通して教えられます。
 神様はその的外れな状態の人間との関係を回復したいと願い、イエス・キリストをこの地上に2千年前送ってくれました。神の子を十字架で犠牲にすることで、神様がどんなに人を、私を愛してくれているか、その愛を示してくれたことを固く信じたいと思います。すぐに外れてしまうという弱さをもつ私を思いやってくれる方、キリスト、神様に助けてもらって、日々生活していけるよう願います。

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 」へブル人への手紙4章15-16節    この大祭司→イエス・キリスト
Nov. 5 ”来て、見てみて!”

「イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。」ヨハネによる福音書1章38-39節

“百聞は一見にしかず”ということわざがあります。ある人のことについて、たくさんの情報を得ていてもやはり実際会って、話してみて初めて知ることってありますよね。聖書を学ぶと、イエス・キリストがどういう方かが、ただ頭で知るだけでなく、もっと心の深いところで知るようになり、目に見えなくても“イエスと出会う”ことができます。
 昨日の聖書の学びではキリストが弟子を呼ばれる箇所でした。まず、イエスは「何か願いがあるのか?(何を求めているのか?)」、と彼らに聞かれました。この質問は現代に生きる私たちにもいつも問われていることではないかと、参加されている一人の方が学びの最後にコメントされていました。
 私たちはいつも何を求めているのでしょうか?安心、健康、将来の保障、家族のきずな、愛情、お金、楽しいこと等。もちろん、これらを求めることは必要なことですから、神様は求めてれば答えて下さる優しい方です。祈りは私が願っていたことと違った形で答えられる場合もありますが、神様は私にベストを良いものを与えようと良くして下さります。求めている内容も、何が優先順位なのかということが自分の中ではっきりしてくると、おのずと変化していくようです。
 私にとって優先順位のトップは、なんでも神様に任せられるという信頼関係に基づいて、今私が置かれている場所と時で、神様が何をされたいのかを求めることです。私自身の願いというのはどうしても表面的、一時的、もしくは遠い未来を思い煩うとの次元ですので、それらはもう神様に任せ、もっと大きな視点で、自分に対する神様の計画は何だろうと知りたいと、徐々に変えられてきているのは不思議です。
これは、神様がキリストを犠牲にするほど自分を愛してくれていることに実感がわけばわくほど、神様の視点にいくようです。これは一晩では構築されないと思います。やはりまず、イエス・キリストに出会って、「来てみなさい、そうしたらわかるだろう」というイエス様のことばのとおり、来て、実際ついていってみて初めて分かっていくというプロセスであると。神様がどんなに良くしてくれたか、その恵みを体験すればするほど、神様に対する信頼関係が与えられ、深められて、その恵みに応答していくのかなと、私も気がつかされました。
 折に触れて、今自分は何を求めているのか?と立ち止まって問うてみること、また永遠に続くこと:神様との関係にそった願いへと変えられていくよう、祈り続けようと思います。
Nov. 4
"よく引っ越す人"

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」へブル人への手紙1章1‐2節   (御子→イエス・キリスト)

 私は人生のなかでよく引っ越しをしますが、また今回引っ越すことになりました。(神様は私の祈りを即効で聞いてくれました!!感謝!→10/29初雪@フィリー参照)前の家の近所ですが、静かな場所です。荷作りで本当に疲れきってしまいましたが、アメリカに2年前来た時は、スーツケース2個だけだったのに、なぜこんなに物が増えるのかと不思議です。当分引っ越したくはないのですが,私の生活スタイルは今まで約3年ごとに、職場もしくは住む場所が変わってきているので、いつも変化があるようです。また引っ越すと予想しています。仕事で海外駐在の方は、2−3年ごとに家族で国から国へ移動の辞令がだされる場合もあり、その大変さに比べたら、私は身軽ですね。
 神様は天国に住んでいると、子供の頃教えられました。信仰が与えられてからは、神様の存在はイエス様をとおして、遠い遠い存在ではなくいつも私のそばにいてくれるんだなと、徐々に実感がわいてくるのは感謝なことです。また神の霊(聖霊)として、信じた後私の心の中に住んで下さっているんだなあと。色々心が揺さぶられることが日々おこりますが、そのことを思い出すと、安心です。
 今日の箇所では、昔は神様はご自身を、人間に預言者を通して、どういう方であるかを表されましたが、イエス・キリストが来てからは、キリストを通して人間をどれだけ大切にし、愛している方かを示されていると書かれています。キリストの生涯:病気の人を癒し神の国を伝え、人々を助け、そして十字架に人間の罪のためにかかり死なれて、復活して天国に戻ったその様子を通して、キリストの父である神様がどういうかたかを物語っています。また聖書と言う形で読んで分かるように残してくれているのがありがたいです。
 天国にいったらもう引っ越ししなくていいのかと思うと早く落ち着きたい、と思う反面、まだまだ生きている限りすることがあるので、その間どんな場所でも文句をいわず落ち着きたいものです。
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