Praise the Lord 本文へジャンプ
信条・Statement of Faith
♪Today's Sharing♪

Mar. 2012

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
Nov. 2011 Dec. 2011 Jan. 2012 Feb.2012
July 2011 Aug. 2011 Sep. 2011 Oct. 2011
March 2011 April 2011 May 2011 June 2011
February 2011 January 2011 December 2010 November 2010
October 2010 September 2010 August 2010
忙しい日々 祖母との会話 桜満開の季節 何がほしいか
上の指示を仰ぐ 父の死 3.11 そして父への追悼の祈り 心を注ぎだす
Mar.31 ”何がほしいか”

 「ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、『あなたに何を与えようか、求めなさい』…ソロモンは言った、『…それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう』。第一列王記

 職場という場所は、一番戦いの多いところだと私は個人的に思うのです。家族のような甘えは通用しない、また、自分と合う人ばかりが上司、同僚、クライアント(患者)ではなく、中には横暴な人、不正を行う人、うそをつく人、人のうわさ話・中傷を話まくる人もいます。「愛は怒らず、人のした悪を思わず」*という聖書のことばを思い出し、私は黙っているしかないのですが、時々私は顔に嫌悪感がでるのが問題です。今、もし何でも願いをかなえる、与えると神様から言われたら、何を求めますか?私は”キリストのようなあわれみの心、忍耐の心、柔和な心”を下さい、と求めたいです。お金、健康、いい転職を求めてもきりがないし、どうしても表面的な問題ですが、この心が与えられれば職場だけでなく、すべての人間関係に適応できるからです。
 今日読んだ個所は、古代イスラエルの王、ソロモンが神様から「何が欲しいか?」と聞かれ、彼は富や名声を求めず、王としてこの大きな国を治める知恵の心、判断する心を与えてくださいと求め、それが神の御心にかない、神様はそのリクエストに答えられただけでなく、彼が求めなかったもの、栄華も与えられました。”ソロモンの秘宝”というハリウッド映画があったほど、国が栄え、周辺国とも平和があり、彼の知恵を聞きたくて諸外国から訪問があったほどであったと書かれています。
 私自身も欠点だらけですし、感情的な人間です。人のことは裁ける立場にないのですが、しかし正直感情では、見下げたくなるし、関わりたくないと思ってしまいます。一方、神様は相手のためにとりなして祈る(相手のために祈る)ようにも言われます。偽善的に表面的に相手のために祈るのではなく、自分の感情を正直に神の前に言い、それを赦してもらったうえで、キリストがその相手を見る視点、かわいそうに思う心が自身に与えられない限りとりなすことなどできません。素の自分を偽らわず、かつ、できないことは、求めて相手をとりなせるよう自分の心が変えられる必要があると。
 同時に、単にヒューマニズム・人情でなーなーにしてしまうのでなく、私の個人的な正義感で裁くのでなく、神様の基準で悪いことは悪いと見極める知恵も必要です。時には愛をもって確固として対応する必要もあるでしょう。ですから、キリストのような心を与えてほしいと常日頃求めないと、やってられません。なぜなら、神様がどうしようもない私をかわいそうに思い、憐れんで、キリストという大きな犠牲を払って赦してくれたこと、その大きな愛を思い出し、自分も赦してもらったんだから、人をも赦し憐れみの心を持ちたいと思うのです。                      *第一コリント人への手紙13章5節
Mar.28 ”桜満開の季節”

「人はみな草だ。
その麗しさは、すべて野の花のようだ。
主の息がその上に吹けば、
草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変ることはない」イザヤ書40章8節

今年のフィラデルフィアの春は例年よりも早く、3月中旬より気温が上昇し花が咲き始め、通りは白やピンクの花々でいっぱいです。美しい季節の一コマです。しかし、しばらくするとそれらの花は散り、今度は新緑の世界へと変わっていく。大きな木々や道端の草に関しては、人が水をやらなくても人の手によらず自然は美しく季節ごとに装っていくのを見るにつけ、神様の創られた自然に感動します。
 今日読んだ個所は、古代イスラエルの預言者が神様から言葉を預った個所。どんなに美しい花も枯れてしまうように、人のこの体も永遠には生きられません。一人一人限られた寿命があります。でも神のことばは永遠に変わらないと。そしてそのことば=イエス・キリストを信じる者は、この肉体が滅びた後も魂は残り、そして今度は新しい不滅の体が与えられ神様と永遠に天で生きるという約束がキリストを信じる者に与えられています。また、この世にいる間は、「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイによる福音書6:30)とイエス様が言われたように、必要なものは毎日与えら「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 」と、(マタイ6:34)
 こういう一つ一つの聖書のことばは、今の時期の私にとって非常に、心の奥深く響いてきます。リアリティがあることがありがたいです。
Mar.20 「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものでなく、御霊と御力の現れでした。それはあなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、ささえられるためでした。」第一コリントの手紙2章4-5節


 
今もう明け方ですが、ようやくNY経由でバスを乗り継ぎフィラの家につきました。待ち時間それぞれ長くて異常疲れましたが、無事に着き感謝です。昨日アメリカに戻る日に、朝母と祖母と朝食をとりながら、会話をしていると祖母が「陽子ちゃんがいないと寂しくなるね」と。「でもまたすぐ来るから」というと「その時まで自分が生きているかどうか。。。」というので、「おばあちゃんは元気でまだいてよね。ママにとって今パパがいなくなって寂しいんだから、おばあちゃんがまだまだいてくれなくちゃ」と私が言いました。「そうだね」と自分を納得させるように祖母。101歳の祖母にとっても74歳の義理の息子が自分より先に逝ってしまったのはショックでした。妹が祖母に最初に告げた時、祖母は愕然とし号泣したそうです。そして、名古屋からお骨をもって私達が世田谷の家に戻ってきた時「秀夫さん、お帰り」と言って迎えてくれました。
 祖母は信仰の話になると、「私は信仰心が持てないたちでね。運とか、占いも信じないし、いくら説明されても信じる気がおこんないんだよ。」と以前、私の日本の教会の牧師が家にきて祖母に福音を語ってくれたことを思い出して語っていました。私は「おばあちゃんに誰も信じるように強制はしないよ。でもね、信仰心って、与えられるものなんだよ。あれ?なんで信じられるようになったのかな?こんな自分が?ってよくキリストを信じた人が後から言うからね。私は実は毎日おばあちゃんに信仰心が与えられるようお祈りしているんだ」と話の流れで言いました。すると、「ふーん、与えられるのかねえ。。祈ってくれてありがとう」と。祖母は今まで、私がキリストについて説明したことがあっても全く興味を示さないので、今回“ありがとう”といってくれたことに、驚きました。神様は私の祈りにいつか答えて下さると期待してます。。。。
 久しぶりに東京の母教会の日曜礼拝に出席できました。そこで引用された上記の聖書の個所を思い出します。 2千年前、ものすごい勢いで命をかけてキリスト教を布教した使徒パウロでさえ、“結局は、人が神を信じるようになるには、神の力、神の霊(聖霊)による”と言いました。人の説得、人の力ではないのです。しかし伝える管・手段として、人は用いられます。たとえ直接説明する機会がなくても、相手にキリストのように親切にすることで、また相手のために祈ることもできます。ここに希望があるなあと思わされました。
Mar.17 ”忙しい日々”


「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」第一サムエル記12:23−24節

 日本に帰国して約2週間、非常に慌ただしく、確かにすることがたくさんあったのですが、静かに祈るという時間をあまり取れないで日々が過ぎました。私にとって祈りは呼吸のようなもので、神様になんでも話すこと、また他者のために祈ること、また大事なのは今日という日に何か罪を犯した場合すぐに悔い改めて、ごめんなさいといううえでも、祈りは大切です。祈らないと、自己中心的になり、感情で動きがちです。もちろん、神様はやさしいですから、そんな私をもかわいそうに思って下さる愛の方でり、祈ってなくても、安心してありのままの自分を神様の前に持っていくことが出来る。これはすべて、キリストのおかげです。キリストが十字架にかかって死んでくれたから、そして3日目に甦って天国で神様の右となりにいて、これまた日々私たちのためにとりなしてくれるので、そこにすがれるわけです。キリストを通してどんなに神様が自身を愛してくれたかがわからないと、祈りも、しなければならないという宗教儀式となるか、単に自分の都合のよいお願い事をきいてもらうための手段となりかねません。
 今日読んだ個所は、祈りについてのもう一面を示されます。祈らないことが罪であると、古代イスラエル時代の預言者サムエルは言っています。もちろん、現代はキリストを信じれば、神様に従えなくても、罪を犯しても赦され、この当時の人々のように滅ぼしつくされません。しかし、私はもしキリストがいなければ、滅ぼされるような者なのです。それなのに、私は祈ることをつい後回しにして、今日すべきことをばーっと先にすまして、落ち着いてから机に向かい、聖書を読んで、祈ろうとしても、そのころには夕方か夜中になり、もう眠くてそのまま寝てしまうからです。
 祈りとは、神様と時を共に過ごす時間。キリストを信じる者にとって、優先順位のTOPはこれで、これを後回しにする、もしくは神様を信じていると言いつつ、自分の生活の中でそれよりも大事にしてしまうものがあると、結局は自身の内に真の平安がなく慌ただしく動き回る、自転車操業状態なのです。私は以前そういう時期がありましたが、「神の国と神の義をまず、求めなさい。そうすれば皆他のものはそれに加えて与えられる」とイエス様は言われたことを、本当に心にとめるようになったとき、自分の生活が変えられていきました。神様との時間を過ごしていると、何が神の国(神を信じる人の心、神の治める領域)なのか、義(正しさ)なのかを、徐々に教えられ、その他必要なものも与えられる経験をしています。私はもっともっと意識してこれを求めていきたいと、この忙しい帰国のなか思わされました。

Mar.14 ”心を注ぎだす”

「しかしハンナは答えた、『いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。 …ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。』」第一サムエル記1章16節

「心を注ぎだす」という表現は、”私の魂を〜に注ぐ”と英語訳にはしるされ、神様へ祈るときの態度の一つとして聖書では記されています。私は今まで魂を注ぐほど、神様に祈ったことは実は数回しかありません。よく覚えていないのですが、大体危機的状況の時か、ものすごい悲しみのさなかにあるとき。一人で、泣きながら、祈りというよりも、ぶつぶつ、とりとめもなく自分の心にあることを神様に訴えるという感じです。個人差があると思いますが、私は感情的涙腺弱い人間なのでそういう祈りをすることがありますしかし、いつもそうではなく、対外は静かに冷静に祈ることのほうが多いです。神様はどちらも聞いてくださいます。
 今日の読んだ個所は、古代イスラエルの国に、ハンナという不妊の女性がいて、彼女は長年子供ができないことを、もう一人の妻に苛まれ、非常に苦しみ、夫には非常に愛されていても不幸な女性でした。ある日、募る思いを神殿にいって、一人で心を注ぎだして祈っていたところ、それを見た祭司があまりにも尋常でない姿に、酒によっているのかと間違えるほど、彼女は必死に、神様に長い間祈っていた個所です。まさに、「心を注ぎだす」祈り。そして神様はその祈りを聞かれ、男の子を授けます。その子が後にサムエルという国を指導する預言者となります。神様は「私の子を神様のために働く人として捧げます」という祈りをする女性を、イスラエルのちょうどこの時代に待っていたのです。預言者を産む女性を。
 神様はどんな小さいことでも、祈って、求めてほしいんだなと今日示されました。何もいつも髪振り乱して必死に祈れと言っているわけでなく、素朴に、子供が親にお願いするように”アバ(お父さん)、あのね〜”と呼びかけて相談してほしいと。すると、不思議と私たちの祈りの内容も神様の願いに近づくように変えられていくということを、私自身も経験しています。神様はそれぞれの人生で何がベストな道なのか、この私を創った方なのでよくご存知です。しかし私は同じ”〜をください。〜してください”と願うにしても、私の動機は近視眼的ですが、祈っていくと神様のご計画・意思にそう願い・動機へと変えらていくことがあります。ハンナの場合も、子供をかみさまに仕える者に捧げますという祈りに変えられたとき、祈りが聞かれ、そしてその後何人も子供が授かるように。
 祈りは、形式ばる必要もないし、内容が神の御心にかなう祈りかどうか、そもそもわからない方が多く、それがノーマルなのだから、”わからないけれど、とにかくこう願います、教えて下さい”と祈ろうと思わされました。
Mar.11 ”3.11 そして父への追悼の祈り”

「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネによる福音書 11章25−26節


 3月11日、それは日本人にとって心が痛む、追悼の日。日本全国で国家主催の大きな追悼記念式典から小さい家庭に至るまで、昨年の東北大震災により亡くなられた方々のために祈りが捧げられ、復興への希望が語られた時。
 アメリカに在住する私は、フィラデルフィアの日本人教会でその追悼記念礼拝に参加する予定でした。ところが、この一週間ですべてが変わってしまったのです。津波が突然、家族や大切な人の命を奪いましたが、私の父の死もあまりにも突然でした。そしてこの3月11日にまさか自分の父のための追悼の会を東京で自身が参加しているとは、思いもよらないことでした。
 父は誰にもお別れも言わず、突然、眠るように天国へ行ってしまいました。愛知県刈谷市の小さな教会で牧師をしていた父は、日曜日にいつものように礼拝にでてこなかった。そして教会堂の隣の牧師館にて、寝たまま息を引き取っていたのが教会の方に発見されたのです。検死の結果死因不明。脳梗塞でもなく心臓発作でも外傷もなく、安らかな顔で布団に横たわっていたそうです。あんなに元気で、持病もなく、人一倍健康に留意していた父。最後に母が話したときは中古車を買ったばかりだから、来週、母が刈谷に来るとき駅まですてきな車で迎えに行くよと楽しみにして話していたのです。人は、明日のことはわからないと、今回の父のことでつくづく実感します。だから一日一日を、大切に生きる必要があると。
 刈谷でのお葬式(3月5,6日)と東京でのお別れ会(3月11日)と多くの方々がご出席頂き、また電報やメイルでもたくさんの方々からのお祈りと励ましのことばを頂き、母も妹も私も大変慰められ支えられなんとここまでこられました。本当にありがとうございます。父は多くの方々に愛されていることを知るにつけ、これもまた大きな慰めです。
 突然の父の死を受け入れるには感情的には時間がかかりますが、私どもキリストを信じる信仰が与えられている者は希望があります。死んだら終わりでなくて、死んだらどうなるのかという不安もなく、この体が死んでも、霊魂は天国で永遠に生きると信じておりますので、天国でいつか父にも会えるという希望だけが、大きな慰め、励まし、また確証です。大切な人を失った当人にとって、悲しみは深いものです。しかし神様は全てをご存じで、その人を慰めるために、多くの目に見える人々を通して慰めを与え、また直接目には見えない神様も与えてくださるのが感謝です。私は今日の聖書の個所を頂き、イエス様の言われたこの希望を再び思わされ、父が一生懸命彼なりに伝道していたイエス・キリストによる福音を、これからも私なりに一人でも多くの方に伝えていきたいと思わされました。

Mar. 4 ”父の死”

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「平安があなたがたにあるようにと言われた。 」ヨハネによる福音書20章19節

それはあまりにも突然で、涙がとまりません。昨夜から一睡もできませんでした。
3月3日夜中に妹から連絡あり、父が日曜朝(日本時間4日朝)、教会の礼拝にこないので牧師館に信者の人が見に行くと、ベットでなくなっていたのが発見されたと。
 一晩泣きあかして、「神さま、慰めを与えて下さい、聖書の言葉を与えて下さい」と祈っていつもの毎日読むデボーションの本からこの箇所が与えられました。イエス様が十字架で死なれて、復活されてから、突然、弟子達がいる家の中に、現れた箇所です。弟子としてイエスについてきた人々がイエス様の壮絶な十字架での死の後悲しみと、また自分たちも殺されるのではという恐れの中にいたときに、復活されたイエス様がふっと現れて、平安があるようにと言われたのです。
 父の人生は波乱万丈。サラリーマンをしていて、独立起業し、そして倒産して借金を返しつつまたサラリーマンとして定年まで働き、50代後半になってから神学校へ行き、60代で牧師として再出発しました。性格もくせがあり、牧師っぽくないと言われつつ、その牧師っぽくないところが飾らなくていいと、信者のかたからも愛されました。最初は広島で、そしてアメリカフィラデルフィアの日本人教会で、最後は愛知県刈谷市の教会でと、牧師として仕えた時期は12年くらいでしたが、本当に恵まれた人生だったと思います。母が父をづっと妻として大変な時期も支えてきました。米国フィラデルフィアで夫婦で日本人教会で牧会できたのが、父の人生で一番充実していたのではないかと、そのおかげで今私もここに置かれています。
 肉親を失う悲しみがこんなに辛いとは想像がつきませんでした。父とはけんかばかりしてた、もっと電話しておけばよかったと、今は天国にいると信じているけど、やはり悲しいです。この悲しみの中において、イエス様が「平安があるように」といって、私のそばにいてくれると慰めを与えてくれました。ちょうどタイムリーに聖書のみことばを与えられて、ありがたいです。今週, 日本に葬儀の為に帰国してきます。
Mar. 1
”上の指示を仰ぐ”

「ヨシュアはかれらを呼び寄せて、彼らに次のように言った。「あなたがは、私達の中に住んでいながら、なぜ、『私たちはあなたがたから非常に遠いところにいる』といって、私たちを欺いたのか」ヨシュア記9章22節
私は基本的に人のいったこと、やったことをそのまま信用し、任せてしまいがちです。アメリカに住んでいると、そのことでたくさん痛い目にあいました。何事においても、相手方のしたことを詳細にこちらでもチェックしないと、必ず間違えているか、抜けているか、ミスが多いのです。それはお店のキャッシャーのレベルから、会計士も、銀行も、保険会社も、行政の書類も全て。まさかという、単純ミス。一方、友人関係に関しては、利害が絡まないのもありますが信用できるというのは感謝なことです。
 今日読んだ箇所は、古代イスラエルの人々が、ある民族からアカデミー賞なみの演技力で、まんまと欺かれたという話でした。彼らはすぐ近くに住んでいるのに、非常に遠くに住んでいるものですからと、彼らの持ち物がいかにも遠くから旅してきたように古びて見せかけ、リーダーのヨシュアも族長も騙されます。しかし、ヨシュアも神様に祈って支持を仰がなかったと(9:14)、彼の落ち度も聖書はしるしています。もちろん、騙すほうが悪いのですが、だまされる方も、騙されないように、自分ですぐ決めず、上の支持を仰ぐことの重要性を学ばされます。
 私は”騙される”という経験はあまりなく(小さいことはあったかな?しかし忘れました)、対外、相手の仕事を信用しそのミスで被害を受けるといった程度です。相手の心は見えないし、先の見通しに関しても完全ではないので、様々なことを決断する際に、迷います。私の場合、なんでもその場の相手の勢いにまかせて、即決しがちです。そこで勢いに押されず、一度持ち帰って、一番信頼できる神様に祈って支持をあおぎたいと。神様は、祈りに答えてくださるかたですから、聖書のことばや、他の信者の人を通して、牧師を通して、ガイダンスを示してくださるはずですので、それを選び取っていきたいと思わされました。
 一方で、騙されたり、不当な扱いをうけたとしても、「愛は・・・怒らず、人のした悪を思わず」*という姿勢も忘れずに、その愛を与えられたいと願います。職場ではいつもこれが迫ってきますから。
 *第一コリント人への手紙13章5節
inserted by FC2 system