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Feb. 27 |
船酔いと嵐
「それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。…彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。」
マルコによる福音書6章45・49-50節
以前ダイビングを少々かじったことがあります。いつも困るのは、小舟で沖に出てダイビングスポットへ行くのですが、船酔いで具合が悪くなります。時には、船から吐いてお魚に餌をやり(すいません汚い話で)すっきりしてから、潜ったものです。舟というのはサイズが小さければ小さいほど波に揺られて酔うし、波が高くなると怖いものです。
先日、エルサレムに旅行へ行かれた方の旅行記を見せていただき、非常に聖書の中のストーリーが立体化し、感銘を受けました。そこで、今日の個所は、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖という大きい湖に小舟で渡った際、強風に襲われたところですが、弟子たちはさぞこの小さな船で波がかぶりまくり、死ぬかもしれないと恐れたのではとその現地の写真から臨場感をもてました。
イエス様は弟子たちに”強いて舟に乗り込ませ”、ご自分はその間群衆を解散させて陸地に残っておられたとあります。そして、夜中に湖の上を歩いて舟に近づかれました。弟子たちはすでに波で揺れて困難な状況の上に、向こうから夜中に湖の上を歩いてきた人を見たら、仰天するのも仕方ないです。しかし、イエス様は「恐れるな、私だ」と言って、風に命じて波が収まってしまい、ほどなく向こう岸の目的地へついてしまったという話です。
人生で嵐は不意に起こります。自分ではコントロールできない、想定外のことがおこった時は、あわてますし恐れるのがノーマルです。しかし、イエス様がそのことが起こることを許可されているとしたら、それはイエス様を信頼して恐れず、助けを待てという訓練なのだと、自身の生活への適応を学びました。嵐はまじで嫌です。しかし必ずイエス様が助けて下さることを信じ、その信頼関係が強められるためにも、この弟子たちの訓練のことを思い出したいと。 |
Feb. 26 |
美しいハーモニー
「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。」マルコによる福音書6章10-13節
先日はある教会にて韓国人のゴスペルコーラスグループ(”陶器師”)のコンサートがあり、お友達と行ってきました。彼らは、日本語で訳された歌をアクセントなく美しいハーモニーを奏でてくれて、聞くのものに感動を与えました。彼らの目的は、歌でイエス・キリストを伝えることです。その曲のいくつかは10年以上前に英語でよく聞いていたことあるゴスペルだったり、私は涙がでて、心のなかで共に讃美しました。
アメリカには大きな韓国人コミュニティがあるため、私は以前から多くの韓国人クリスチャンと会う機会があります。そのなかでも日本人に福音を伝えたいという日本語べらべらの人々、牧師さんとの出会いがあるにつけ、感謝です。統計的にも世界で宣教師派遣の数が一番多いのが韓国だと聞いたことがあります。
今日読んだ個所は、イエス様が12人の弟子をペアにして町々に伝道に送り出したところでした。そしてイエス様がなされたように悔い改めを説き、病人を癒し、汚れた霊を追い出す権威も与えられたと書いてあります。そして、その町で一軒の家に滞在し続けなさいと、するとその家には平安が与えられると。一方ある町は彼らを拒絶する場合もあり、そのときは足の裏のちりを払い落としなさいと言われました。面白いジェスチャーだなと、毎回読んで思うのです。足のちりをぱっぱっと払う。
多くの宣教師の方々は異国へ行って、伝道するうえでの多大な苦労を察します。しかし、彼らはイエス様が、「全世界に出ていき福音を宣べ伝えなさい」*と命令されたミッションをそれぞれが受けて働かれています。彼らのためにも祈りで支えたいと思わされました。
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マタイによる福音書18:19-20 |
Feb. 21 |
借金帳消しと土地のお休み
「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。」レビ記25章10-11節
土地というのは休ませる必要があることをご存知でしょうか。土地にはたくさんの栄養分が含まれていますが、毎年同じ作物を植え続けるとその栄養が作物にとられ、土地が貧しくなる、よって一年おきに別の作物を植えたり2毛作にしたりと昔の人は工夫していたようです。現代は化学肥料をばんばんまいて、大型トラクターで大量生産の時代。これでは土地が、あたかも人がご飯を食べる暇も寝る暇もなく、栄養ドリンク飲まされて働かされているような状態に思えます。個人的には今日は久しぶりにゆっくりできたお休みでした。
今日の個所は、聖書で7年に一度土地を休ませるため、7年目は種を蒔かないという掟がかかれています。では休ませている間作物がなくなると考えますが、6年目の収穫は向こう2年間食べられる分、神様が豊作にすると。また、50年目(ヨベルの年と呼ばれる、7年X7=49の次の年)は人の借金も帳消しにするという掟も神様によって定められました。貧しくなって、自分の土地を手放した人は50年目に返してもらえる。奴隷になった人(身売り)も解放される。富の配分を再調整するというかんじでしょうか。
自己責任が問われる資本主義・個人主義ではありえない考えです。一方2000年に、”ヨベルの年運動”として、実際この聖書の発想を基に、アフリカ・アジアの累積債務帳消し運動が行なわれ、一部の債権国(イギリス等日本も含む)がその運動にある程度こたえて、帳消しにした債務がありました。これは何も人の怠慢に対して甘やかすのではなく、アフリカの国々のように構造的に債務を背負わざるをえない境遇(南北問題)、もしくは様々なハンディキャップがある方々への福祉制度の一環ではないでしょうか。人々には様々な負担からの解放が必要で、それを社会がすると。金持ちは既に有り余るほど持っていて、それが少し減っても十分でしょう。
それをずるいと思うか、神様の弱い人に対する愛の配慮と思うか。私には憐れみ、慈愛の心が欠けているものです。だからこそ、神様のこのような愛の現れの掟に感謝して、借金から解放された国や人々と共によかったね〜と喜ぶものになりたいと思います。自分もたくさん神様から赦されて、イエス様のおかげで全ての罪と罰、恥を帳消しにしてもらったからです。最終的な解放(悲しみ、涙、苦しみ、貧しさ等々)は天にあることを期待しつつ。 |
Feb. 16 |
ナイロン:合成繊維
「あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。」レビ記19章19節
皮膚のトラブルで最近困っている私として興味深い情報は、肌に直接触れる衣類は、綿100%やシルク、自然の繊維で作られた物が皮膚によいと聞き納得したものです。例えば、ナイロン。ナイロンはスポーツウエアや水木、レインコートに使われる、非常に便利な化学的に合成された繊維です。人はよく
いろんなものを合成し、品種改良、更に遺伝子組み換えまでして、安価で、大量に効率的に作れる品種を作り出しています。ところが、あまり自然のものをいじって、それを体内に食物として取り込むとどうなるのでしょうか。化学繊維やビニール等、化学で合成したものはゴミの始末も大変です。他の自然のゴミと異なり、土地に捨てられても分解されずに残ってしまうからです。環境のバランスも化学で手を加えたものをあまりに取り入れるので、アレルギーとか、喘息、その他の昔はなかった環境が影響している病気も引き起こしているでしょう。残念ながら、資本主義が台頭しているこのご時世、自然や環境、人体への作用より、利益が優先されるようです。
今日読んだ個所では異なる種の家畜をかけあわせ交わらせること、2種類の異なる糸で織った布地の衣服のこと、一つの畑に2種類の種をまくことについて、これらはしてはいけないと神様のおきてが書かれていたのに目が留まりました。全てのものに種類というものがあって、それは一つ一つユニークに、意味があって神様が創られた種類・区別があるとしたら、それをやたらと混ぜ合わせると、結局副作用というか、負の影響が出てきて、その蒔いたねを刈り取るのは自分たち人間です。そしてそれをカバーするため、またさらにと自然のバランスが、現代はかなり狂ってきているのではないかと案じます。
これが何千年前に神様からしてイスラエル人に与えられた戒めとして書かれてあること、現代でも神妙に受け止めたいと思いました。 |
Feb. 14 |
恐怖のバレンタインデー@インド、ニューデリー
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」 エペソ人への手紙2章14-16節
昨晩、食卓の会話でニュースが報じたインドの事件いついて持ち上がりました。インドでバレンタインデーを祝うカップルがレストランで食事をしていると、インドの極右派グループが突然入り込んできて「結婚していないカップルは出てこい!」と脅し、かれらを次々殴りつけたという事件がおきたそうです。インド人のハウスメートにそのことを聞くと、彼らは”インドの文化を保持し、外国の悪影響からインドを守る”というイデオロギーを標榜するマイナーなグループで、バレンタインデーのデートなぞ、西洋の悪がもたらしたイベントだとし、特にインドでは欧米や日本のように自由な恋愛文化がないそうです。(例えば結婚するまでもちろん、一緒に住まない、結婚を前提としない気軽なデートはありえない等)では、インドではクリスマスもだめなのか?と聞くと、それは問題ないとのこと。宗教の自由はあると(クリスマスはクリスチャンの祭りだから)ちなみにイスラム教国のサウジアラビア共和国はバレンタインデーを法律で禁止しているそうです。
イデオロギーほど怖いものはありません。彼らの主義がこれまた宗教とくっつくと怖いものです。自分たちの主張だけが正しくて、それに反する者は暴力を持って排除していくのは、戦争に繋がり、過去の人間の歴史をみて来ると人ごとではありません。
イエス・キリストは決して暴力を指示しません。彼の教えは愛です。なのになぜキリスト教を標榜する人たちが暴力を振るってきたのでしょうか?彼らはイエス・キリストを個人的に救い主として、信じて従っていないからであって、単なる自分たちの利害・要求・イデオロギーをキリスト教でカバーしているに過ぎないからです。残念ながら、今まで世界平和が何度も政治家や宗教、グループによって歌われますが、この何も共通点のない、自己中心の人間の間で世界平和、世界が一つになるというのはあまり、現実的ではないと思わざるをえません。宗教になりさがったキリスト教も同様です。
キリストの使徒のパウロは今日の個所で、イエス・キリストが二つのものを一つににし、隔ての壁を打ちこわし、平和を実現すると言っています。二つのものを一つにする、和解させるとは何をさしているのでしょうか?まずは家庭の中から、そして友人、職場、学校、そして教会の中と身の回りの人間関係について言っています。世界情勢を見るとキナ臭いことばかりですが、それらは起こるべきして起こる、しかし個人的には淡々と日々生活しつつも、苦しんでいる人のため、迫害されている人のためには遠隔で祈ることが出来ますし、そして自身もキリストの平和に預かりたいと願いたいです。祈っているだけで、何も動かない!と他人は言うかも知れませんが、私たちイエス様信じるものは、見えないものに目を留め、その神様の力と神様が最後には必ず帳尻を合わせられる公平な方であることを信じていきたいと思わされました。 |
Feb. 12 |
灰の水曜日
「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」
イザヤ書53章6-7節
昨年、ある水曜日に患者さんがオフィスに来たときに、彼の額に墨(実際は灰)で描かれ十字架を見つけました。私はアメリカ生活が長くないので、初めて見てぎょっとしましたが、後からあれは灰の水曜日といって、イースターの40日前の水曜日に教会でつけてもらったしるしだと知りました。
「チョコ絶ち」「コーヒ絶ち」等、何か誓願をかけたり、健康のため等自分の好きなものをある一定の期間絶つということは良く聞きます。私はどれも続いたためしがないのですが、自分のためにやろうとするとどうも続かないのです。クリスチャンの間ではレント(受難週)といって、イエス・キリストが十字架に掛かられて3日後に復活されますが、その復活の日からさかのぼって40日前(その間の6回の日曜日は除くので実際は46日前だそうです)から、キリストの受難を預かるために祈る、断食をする、慈善をすることで悔い改めを表すというのが、古代キリスト教会から慣習として行われてきたそうです。(聖書に実際、40日間そうしろとはどこにも書いていませんが、40という数字は聖書では苦難・試練を表す数字と言われます)人や宗派によりますが、ある人は肉を絶ち、ある人は御馳走を絶ち(レントの前日に食いだめする人もいるとのこと?!)、慈善をする等、意味をわかってするかたは立派だと思いますが、ややもすると儀式的にその”行為”だけが独り歩きするのではと。
個人的には、これは何もレントの期間に限らず、ほんとうは一年中毎日することだと思います。(自分はできていませんが…)イエス様が苦しまれたのはなぜか、それは自分が罪から救われるため、自分がふさわしくない者なのに、神様にキリストを通して近づくことができるようになり、また永遠の命を頂けるようになるには、誰かが犠牲にならなければならなかった。それをイエス様が十字架で引き受けてくれたことを感謝し、忘れずにいたいと思います。
その大きな犠牲を思うと、私が何か小さな犠牲を払うとしたら、その動機が自分の誓願や自分がいい人間になる、悟ために何かを絶つのではなく、イエス様の尊い犠牲を思い出すためにしたいものだと思わされました。 |
Feb. 10 |
2回楽しめるお正月
「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」 マタイによる福音書25章44-45節
本日は、中国のお正月だそうです。家主の奥さんは中国人なので、朝からごちそうを作っていて、夕飯にハウスメートと家主ご夫妻、息子さんとガールフレンドと大勢で新年をお祝いしました。初めて食べた中国正月料理の一つは、豚のひじ肉(肘から手首までの部分)。まず1時間油であげて、そして一時間煮るという、非常に手のかかった料理でして、柔らかくてとてもおいしかったです。その他魚料理は必ず新年に食べるそうで、あと日本と同様お餅。あんこの入った餅は日本のようでした。ああ、満腹です。フィリピン人のハウスメート(華僑系ですね)も、彼の国では同様のものを食べると。アジア人の共通項は餅ですね。アジア人の友人を持つと、正月を2回楽しめるかもしれません。大勢で食卓を囲み、ワイワイ出来るということは、幸いです。
今日はマンハッタンの日本人教会にて礼拝に参加しました。この教会ではかならず礼拝後にお昼がでますので、地下の広いお部屋で大勢で食事を頂けます。それが楽しみでもあります。今日は1997〜8年に私がNYにいたときご一緒だった方々と再会。平日の夜、定期的に若い人たちでディスカッションの時を持ったことや、「あの時は〜だったね〜」と彼女たちはづっとNYに在住組ですが、私は日本在住のブランクがありますのでなんだか懐かしい感じがしました。私はどこへ引っ越しても、どの職場に勤めていても、所変われど教会での人との出会いは大切ですし、いつも大変な時、共に祈り、助け合い、話し、またたわいのないことで笑い合いと、貴重な友人です。皆さんバックグランドが異なりますが、共通点は一つ、イエス・キリストを信じていること。自分の持前の性格ではできませんが、イエス様が今日の個所のようにそうしなさいと言われたことを目指し、互いに仕える、また見返りを求めずに人に仕える、なかなか頭で計算してしまう私には身につかないところです。願うしかないです。これからも新たなつながりをNYで広げていきたいなあと願いつつ。 |
Feb. 8 |
嵐の日の日本からの客人
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主人がいつ来られるか、知らないからです。」
マタイによる福音書24章42節
今朝から雪が降り続けています。かなり大きなストーム(嵐)が来ているとのことで、本日仕事は早めに終わりとなり帰宅しました。するとちょうど日本から学生さん二人が、ホームステイ体験として2泊この家にとまるということで、この大雪のなかなんとか無事にNYに着いたのです。金曜の夜は通常はバイブルスタディがあって家に不在ですが、本日は嵐が来るのでお休みにしたので、ちょうどこの客人たちと一緒に皆で夕飯を食べ、とても楽しい時が持てました。彼女たちはアメリカに来るのも初めて、英語もあまり話せないということで、少しは通訳に役にたてたと思います。
この家主は人をもてなすのが非常に長けています。定期的に留学生やホームステイを受け入れてきたようで、外国人にとっても親切です。奥さんが中国人であるというのもあって、普通のアメリカのホームステイよりも奥さんが同じアジア人なので理解があるがのかもしれません。
私はこの家に住めて本当に感謝だなあと。仕事から疲れて帰ってきても、奥さんがおかえり〜(英語でだけど)と迎えてくれて、「今日は仕事どうだった?」と色々短く、話を聞いてくれるのです。私は受けるばかりでなく、与える方にいつか変わりたいと願います。いつか定住できる家に住めて、客人をもてなしたいと、まあそれができないジプシー生活でも満足できますが、ジプシーは家にてもてなすということができませんから。(笑)
今日の個所は、いつイエス様に会えるか、その日は突然に来るし誰も予言できない(よく何月何日に世界が終わるとかいう人がいますがあたったためしなし)とイエス様が言われたところです。ですから、多くを求めず、一日一日を大切に生きようと、何か苦い思いが出てきたらその場で神様に悔い改め、日々の恵みを感謝し、一方、泣きたい時には泣く、すると神様が今日のような心温まる出来事を与えてくれて、慰めてくれますから。神様今日もありがとうございました。 |
Feb. 2 |
山積みの洗濯物
「イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
」
マタイによる福音書21章21-22節
私は洗濯ものをためたくないので、週に最低1-2回は洗いたいのですが、アメリカ人(人によりますが)のようにためてためて、まとめて洗濯機を回して、乾燥機にかけるというのに合わせなければならないのが窮屈に感じてしまいます。部屋を間借りするというのは、家主のポリシーに合わせなければならないので仕方がなく、小さいものは手洗いでまめに洗うしかない。前の家主たちも最低1-2週間は洗濯物をためていて、私がまめに洗濯機を回していると「なぜもっと洋服を買って、まとめて一度にしないんだ」と言われたこともあり。そういう問題ではなく、その間服の汚れを放置しておくと落ちないじゃないかと、というのが私の論理ですが、これは人の好みです。
洗濯ものに限らず、例えば山のように何かが(ゴミや、物、問題等)積もっていると、そのまま置いておくのが嫌で早急に片づけないと気が済まない、安心できない性分です。逆になるべく物事を先回しに、ぎりぎりまで伸ばすタイプの方も多いと思います。前者のほうが損なようです。
今日読んだ個所は面白い表現でした。イエス様は「山に向かって動いて海に入れと言えば、その通りになる」と。しかし山を海にいれていったいどうするんじゃ?と。要はどんな山のような大きな問題、もしくは動かしがたい現実、山積みの問題があったとしても信じて疑わず信仰を持って、天の父に祈って頼めばことは動くということのたとえなわけです。信仰がキーです。神様になら出来るということを信じる、すると信仰は電気が流れるスイッチと同様、Onにすれば電気が流れる、ように神様の力が流れる、信仰をOffにしておくと神様の御業はなされず、何もおこらないということをイエス様は言われました。
現時点での私の山のような問題は?洗濯物ではなく、仕事で早く一人前になることでしょうか。私は今までたくさんの新しい分野で転職を繰り返してきましたが、大概一ヶ月で慣れてきたものです。今新しい職場に移って一ヶ月経ちました。今までになく困難な状況であり自分の能力ではお手上げです、信仰をOnにして必ず出来るようになると信じて助けを求めようと思います。仕事をきちんとやることは生活の糧を得るのに必要なことですので、神様は必ず人間関係も、技量能力も助けて下さると信じて。
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