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Mar. 29, 2013 |
得意分野
「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。…すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
」ルカによる福音書 5章8-11節
あなたは何が得意ですか?もしくは、これだけは人に負けない、自分の誇りとする分野。それでご飯を食べている、もしくは趣味としてかなりいい線いっている分野があると察します。一芸を極めること、それはすばらしいですし、そのことで人生を楽しく、また生きがいともなるでしょう。
ペテロという人は、プロの漁師でした。いつ、どの季節にどこで魚がとれるか周知し、捕れない日もあることも知っていたはずです。ところがある日突然、近頃うわさの、何やら奇跡を行ない、権威ある教えをするイエスという人が、魚が夜通しとれなかった翌朝に、ペテロにこう言うのです。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と。この時ペテロはまだイエスの弟子になっておらず、彼は「先生、我々は夜通し働いてとれなかったです、(いくら偉い先生といえども漁については私のほうがよく知ってますがな、今日は無理)でも、お言葉ですから、そのとおりやります」とペテロは言い、( )の部分は私の想像ですが、その通りにしたところ網が破れるほど大漁となったという個所を本日読みました。するとペテロは”本当の意味で”イエスと出会い、自分が罪深い人間だと告白。自分の誇っていたものの限界を知り、イエス様の大きな力を目の当たりにしたからです。この時から彼は全てを捨ててイエスに従ったと書かれています。
現代に生きる私たちで、このペテロほど劇的に何もかも捨ててすぐ布教活動に入るという人はまれかと思います。しかし共通することは、本当にイエスを知ると、自分が罪深いものだと気付きが与えられます。例えば今まで自分の良心的に平気だったことも、”良くない”と示され、悔い改めに導かれます。すると赦されて、内側が変えられていくプロセスが起こり始め、責めが取り除かれ、逆に自由になれる、それが十字架の御業のゆえです。
ある教会で話される説教は、時に耳触りのよいことばかりで、ユーモアに富んだ小話、ヒューマニズム的感動話をいれ、そして神の愛、恵み、その愛を人にわかちあいましょう、良い行いを通して伝えましょうという内容。しかしそれだけでは、重要な部分が欠けています。耳さわりの悪い、罪と悔い改めのことです。実は自分の罪がわからないと、本当の意味で神の愛はわからないほど、両者はコインの裏表なのです。「多く赦された者が多く私(イエス)を愛する」とイエス様はある女に言われました。罪がなければ赦される必要もないから、イエスに出会う必要もない。罪がわからないと、十字架の意味もわからない、ただ「神様〜」と宗教活動をやるだけになる可能性も高いので、自分も気を付けたいと思います。私自身、もっと、聖霊によって日々罪を示され、悔い改めて十字架のもとに持っていき、仕切り直して前進したい、とGood
Fridayの夜に思わされました。 |
Mar. 23, 2013 |
真珠の生みの苦しみ
「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
」 マタイによる福音書13章45-46節
私は若い時、母の大事にしていた真珠のネックレスを不注意でばらばらにちらばして、だめにしてしまったことがあり、めったに怒らない母が、とても悲しげに感情を表したことがあります。その時初めて、真珠はとても高価なものなんだとわかったものです。真珠はどのように出来るかご存知ですか?天然真珠の生成は、貝に外部からの異物が入り込むと、その貝の膜が異物のまわりにいくつもの袋状の層を形成していく、それが美しい真珠になると、この自然の営みに驚きです。
今日学んだ個所は、この真珠のことを通してイエス様が天の国のことを説明されたところです。天の国とは、高価な真珠を買うために、ある商売人が全ての財産を売り払い、それを買うというのです。この商売人はイエスさまのことで、真珠はイエス・キリストを信じる人のことです。この地球上で、キリストの愛に応答し信じた人がたとえひとりであっても、そのひとりのためにも、神様はそのひとり子のキリストをこの世に遣わされたということです。それほど、神様の一人一人に対する愛は大きいのだなあと。
また、美しい真珠がで来るためには、異物が必要であること。人体に異物が入ると痛み炎症を起こしたり、一般的に苦しいことが多いですが、貝にとっても異物はイライラさせる存在でしょう。神様は私達の前に、イライラする物、人を置かれたり、もしくは問題が起こることを許可されます。しかし、異物の存在を通して美しい真珠ができるように、そのことを通して、私の心の内側の正されなければならない部分、悔い改めなければならない部分が神様によって取扱われて、キリストのような性質に変えられるためにあると、また、神様に委ねて耐え忍ぶ忍耐が与えらえるためだと、学ばされました。
皆さんにとって、異物はなんでしょうか?困難、試練、自分に良くしてくれない人、敵対する人、これを取り除くように祈るのではなく、そのことを通して自身の心が探られ、さらに神様に従えるようにと訓練なのかもしれません。異物は嫌ですし、できれば避けたい、逃げたいです。たとえば、私にとって苦手な犬が私の生活圏におかれた時ほど、辛かったことはなかったですが、それも振り返ると意味がありました。美しい真珠になりたいと願いつつ。美しくなるには大きな犠牲と苦しみが伴いますね(笑)でも、神様が助けてくれるというのが励ましです。 |
Mar. 16, 2013 |
大掃除の日
「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。 」 コロサイ人への手紙2章14節
日本では新しい年を迎えるにあたり、年末に大掃除をするように、人というのは一年の区切りにきれいにしたり、何かしらけじめをつけたいものです。大掃除は普段掃除で行き届かないところまでしますが、日頃からこまめに掃除をしておくと年末まで埃が山積みならずに楽にすみます。
今日は一年に一度の教会堂の大掃除の日でした。NYのマンハッタンにある日本人教会は、その建物が4階建のビルでとても広く、大勢の皆さんで協力し分担してお掃除。”教会をきれいにして、イースター(復活祭:今年は3月31日)を迎えましょう”ということで、私は部分参加でしたが、おいしいお昼も皆さんで頂いてとても充実しました。
クリスチャンにとってイースターは超重要、イエス・キリストが十字架にかかって3日後によみがえられたことをお祝いする行事です。いわゆる新しいスタートでもあります。このことは年に一度ではなく、ほんとうは毎日記念したい重要なことと、明日のメッセージの準備をしつつ、なぜキリストが十字架で犠牲に死ななければならないほど、私を神様は愛してくれたのか、大切に思ってくれるのか、深刻な神様との断絶状態だった自分のために、死んでくださったことを思い、本当に申し訳ないけど感謝でいっぱいです。
以前は自分のために生きるのが疲れて希望がなかった私、だけどそうせざるをえない私がいましたが、神様のこの大きな犠牲の愛を受け取れて信じ、自由になれました。私のように弱気なものは何かや人に駆り立てられて、責められて頑張るのは苦手です。しかし、イエス様のために生きるという新しい希望を与えられたので、もう自分の力で頑張らなくてもいいんだ、私のすることは信じてキリストについていくことだという慰め励ましが与えられたのです。
歩いていると足は汚れる、生きていると心も汚れる、傷つく、この体で生きている限り、信仰を持ちつつも試練や問題・病気は避けられません。だからこそ、この希望でもって、神様に日々の汚れ・悲しみをクリーンにしていただく。大掃除の日までため込むと回復するのも時間がかかります。そのためにはやはり聖書のことばによって、日々きよめられ、力が与えられ、回復されたいと願いつつ。 |
Mar. 12, 2013 |
二つの願い
「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」箴言30章7-8節
仕事の帰りにコンビニによると、おじさんたちが宝くじを買っていました。一獲千金を夢を見る、当たらなくても夢を買うとして決して悪いことではないし、日本では宝くじの余剰金は公共施設の費用に一部つかわれますので、寄付だと思うこともできます。他の神々は知りませんが、どうもキリストの神様は宝くじという方法ではどばっとお金を与えられないようです。というのは私の知る限りで、クリスチャンの人が、教会が生活に困った時、いつもなんらかのサポートで助けられる話は聞きますが、”神様に祈って宝くじがあたってしのげた”という証しは聞いたことがないからです。
今日読んだ個所は、アグルという人が書いた箴言で、神様に二つのことだけお願いしたところです。もし何でも願いをかなえてくれる、二つだけ願ってと言われたら、何を願われますでしょうか。私は〜 そうですね、恥ずかしいから内緒です(笑)。彼はなんと豊かな生活を望まず、@うそと偽りを遠ざけてほしいA必要な分の食物で自分を養ってほしい でした。これは驚きです。確かに毎日御馳走を食べれば、痛風・高血圧・糖尿病等と生活習慣病→脳血管性もしくは心臓疾患になるリスクは高い。普通の食事で満足するというのは心身ともに健康のもとでしょう。(たまにはおいしいもの食べたいです!)またAの願いがかなえば、うしろめたいことがない、責められることがない人生で平安を保てると思います。
私の人生後ろめたかったこと、後悔すべきことは山ほどありましたが、今はキリストがその恥も責めも十字架でおってくれたことを信じているので、人がなんと言おうと、悔い改めて赦された者、ある意味開きなおりです。一方でそのための大きな犠牲 on the cross と愛に日々感謝したいと思います。 |
Mar. 8, 2013 |
ミスをなくするサプリ?!
「もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう。」 申命記6章24-25節
「わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。」 ローマ人への手紙4章24節
私は通常ただのWEBメイルを使用していて便利ですが、一つだけその画面上の広告がとても嫌です。健康関係の広告が多いのですが、中年向けでアンタイ・エイジ向けの美容のこと、「仕事のミス、こんなはずじゃ…」みたいなキャッチフレーズで、だからこのサプリを飲めば頭の回転がよくなるという。外見も頭も若返りをアピール。広告非表示には毎月お金を払う必要あり、つまりどっちにしてもただではないという仕組みなのは仕方ないです。
確かに30代の時より頭の回転が悪く、何か仕事でミスしてもまず一番に、言い訳が頭に浮かびます。このミスはこういう状況が引き起こしたから、全部が私のせいじゃないと何か言い訳が頭によぎります。でも結局、事前のチェックや用意、また機転をきかせる必要があり、私のせいなのです。
誰も教えなくても子供のころから、自分が悪くない、正しいと責任転嫁や言い訳が頭に浮かぶのは人間の性(さが)でしょうか。いえ、すいません、私だけかもしれません。
今日読んだ個所は、約3600年前古代イスラエルの人々に、神様が初めて律法(法律)をモーセというリーダーを通して示されました。有名なのが十戒。そのほか細かい規定もあって、ようはこれを全部守らなければ、神様の前に人は正しいと認められない(全部守れば義と認められる→これを旧約、古い契約といいます)。しかし、律法自体は人間が社会的生活を平和に保つにも、神様との関係においても必要でよい物ですが、問題は人間はそれを完全に守れないということです。でも神様は人の弱さも御存じで、一方正しいことは通される、ということで、最終的にはこれらを皆守れなくても、イエス・キリストを信じればその信じた信仰で義と認めてくれる(正しいとみなす)という方策をとってくれました。つまり、イエス様が私たちが守れないこと全てに対する罰、咎を十字架で全部おって、帳消しにしてくれました。
だからこのことを信じる信仰で、守れなくても正しいと認めてくれるのです(これを新しい契約:新約といいます)。「いや、自分は何も人様の前に悪いことしていない」と主張するかたは、サプリを飲んでご自分で頭を回転させて完璧に人生を送られようとするのもそれもご自分の選択。しかし、その場合、この地上での生活が終わった後に、全員が神様の前に立ち、生前にやったこと全てを裁かれる時に、ご自分で言い訳を、つまり自分が正しかったことを証明する必要があると聖書は書いてあります。
ではたとえ生前に何をしようと考えようと、イエス様を信じるゆえに正しいとみなしてくれる、これほどの憐れみは有難いです。もちろん、信じたら、以前と同じ人生を送らず、聖霊の力で神様に祈りつつ助けていただいて、良いことをするように変えられていくというのが希望であり、またフェアだと思います。そうでないと生前やりたい放題して、最後に信じればいいでは、そもそも何を信じるのだろうということになります。使徒パウロは、「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない」*と。神様の恵み(イエス様の十字架の犠牲)を本当に受けたら、意識的に悪いことはもはや出来ないからです。しかし、弱さも未だにのこり、ですから頭の回転が悪い私にとって、旧約でなくてよかった〜と神様に感謝です。 *ローマ人へ手紙6:1-2 |
Mar. 7, 2013 |
右大臣・左大臣
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」マルコによる福音書10章43-45節 (人の子→イエス・キリストを指す)
お雛様の季節です。お雛様の両側にいる右大臣・左大臣の人形は衣装が異なるくらいで似たような風貌。どちらが偉いか?という質問がでると、左大臣のほうだそうで、しかし中国では右大臣でと。私にしたらどちらも国王や統治者の第2の位としてどちらも偉い位と思えますが、組織の構造、秩序を保つためにも上下をつけ、どちらが上かと考えるの世の常でしょう。
今日読んだ個所は、イエス様の弟子の二人がこっそりと「あなたが王様になった時、一人を右に一人を左に座らせてください」とお願いしたところでした。そしてそれを後から聞いた10人の弟子は腹をたてたとのこと、弟子たちはイエス様がこの地上でのユダヤの国の王として、当時ローマ帝国の属国でしたからその独立を果たしてくれると期待していたのです。
しかしイエス様はそのために来たのではなく、かえって十字架で人の罪をおうために来たということを、この議論の前に弟子たちにはっきり話ていましたが、彼らは何のことかわからず右から左に聞いていたようです。またこの弟子たちの人間的な”偉くなりたい願望”にこう言われました。「誰でも、偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい、人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも仕えらえるためではなく、かえって仕えるためである」と。イエス様は神の子であるのに人間となって、人に仕えるために来て下さり、そして互いに仕えあうよう、愛し合うよう模範を示して下さいました。しかし、弟子たちがそうであったようそれが出来ないのが人間、きれいごとでない現実に向き合います。
イエス・キリストを信じてその教えに従おうとする人には、自分の力、持ち前の性格で出来ないことを自覚しつつ、聖霊の力で、神様に助けて頂いて不可能が可能になるという希望があります。それはほとんど、心の内側の態度、それに伴う人間関係のことが主です。偉くなりたいとは思わないまでも、あまり下っ端の仕事をしたくないと思うのはノーマル。しかし、そういう思いがでてきたら、このイエス様のことばを思い出し、祈って助けを求めようと思わされました。 |
Mar. 3, 2013 |
シャコバサボテン(クリスマスカクタス)
「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。 ルカによる福音書13章8-9節
「このサボテンは昨年はきれいに花が咲いたのに、今年は咲かないのよ。」と夕食の席で家主の奥さんがいうので、「花が咲き終わった後、先端の節を刈りこむと翌年咲くんですよ」と、私は以前それを日本で育てたことがあるので言いました。すかさず横でインド人のITの学生がグーグルで生育方法をチェック。後は肥料や水、日当たりの良い所に置く等も必要で、植物は自然に花が毎年咲く種類もあれば、手をかけないと花や実がならないものもあります。奥さんが「え〜、じゃあ次のシーズンまで待つのおお」と。ご主人が、「忍耐が必要だよ。今年は咲かなかったけど次のクリスマスの時期までね。まるで今日の教会での説教の内容だね」と微笑みながら言われました。そこで、彼らの行っている教会と私の日本人教会と同じ内容だったのだと気が付きました。ある教会は一年間の説教予定の聖書個所が決まっていて、牧師はそれにそって話すそうで、お互い違う教会へいっていても話すお題が一緒になるようです。そういえば亡父も、アメリカでそれにそって日本人教会のメッセージを準備していたのを思い出しました。
本日のたとえ話は、ある農夫が植えたイチジクの木が3年経っても実がならないので、切り倒しなさいと言いましたが、園の管理人がもう「もう一年待ってください、肥料をやってみますから、それでもだめだったら切り倒して下さい。」というところです。このたとえから、互いに忍耐が必要だと。
私たちは待つことが苦手です。インスタントフード、4GB等何でも高速の世界にあまりにも慣れてしまい、すぐことがならないと切れたり、あきらめたりしがちです。また早くする理由はある意味商売での生き残り、お金儲けにつながり、とろとろやっていると競争相手に負けてしまう、短時間で効率的にという強迫観念で次から次へと走り続けているように見えます。
一方、キリストの弟子のパウロは「Love is Patient,」神の愛についての性質のTOPに”;忍耐”を上げています。キリストの持つ性質に変えられて、互いに忍耐、親切、ねたまず、自慢せず…*と。ああ、これを互いに持てれば争いが起こっても、歩み寄れるなあと。世の中の勝ち組にはなれないかもしれませんが、互いの間に平和があります。キリストはいつも愛の見本です、なぜなら彼自身が愛だから。内側が少しでもキリストに近く変えられたいと日々の生活にて 必死に求めたいと。
*第一コリント人への手紙13章4節 |
Mar. 2,2013 |
父の一周忌
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
」 エペソ人への手紙2章8-10節
3月3日は父の一周忌となります。突然の知らせから日本へ帰国し、なんとかの父の顔を見てお別れをすることができて、お葬式には出れなかったものの、教会で記念会を皆様にして頂いたこと、また多く方々の祈りによって私も家族も今元気でいられることを今を持って感謝しております。
お葬式にてその人の資質や価値がわかる、と一般的に言われるのを聞いたことがあります。参列者の人数とか立派な葬儀だったか、またその人の生前の功績によって評価されがちです。もちろん、遺族にとって葬儀の時の皆さまからの思い出のことばを頂くとき、どんなに慰められることか。しかしこの考え方では、戦争や、事故、また様々な理由で葬儀もされずに亡くなっていった人には、人としての価値は評価されないのでしょうか?何をもってして”いい人”なんでしょうか?私はそういう相対的な考えで人の人生や価値を推し量りたくはないです。
本日読んでいた聖書の個所とそのわかちあい(DailyBread:3/2/2013)を読んで「人生の終着点である永遠の居場所を決めるのは、その人が良い人だったということによらず、イエスが罪のために身代わりに死んでくださったという事実です」というコメントにタイムリーに励まされました。私は個人的に、自分が平凡で大した人間でないから言うわけではないですが、たとえ、自分の葬儀が立派でなくても、死んだ時に私の価値が評価されなくても、神様が私に価値があると見てくれているだけで十分です。イエス・キリストが私が天国へ行けるために、代わりに死んでくれるほど価値があると見てくれているからです。その罪とは、私達人間の基準で”いい人だ”とかいう相対的なものでなく、キリストを知らず、真の神様から離れて生きてきたという根源的な罪のためです。その点で、神様の前にはだれが”いい人だ”と言えるのでしょうか。良い知らせは、その人の行いに関わらず、神様の一方的な恵みで、キリストがその罪のために死んでくれたことを信じるだけで救われるということです。
まずその罪が赦されて救いの確証を頂いた結果として、その上で生きている間に、神様から助けを頂いて、内側が変えられていって少しでも良い行いができるように願いたいと思います。天国に入るために良い行い・いい人にならねば、という条件付ではないことはありがたいことです。そしていつか天国で父と会えることも平安を持って楽しみにしています。 |