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信条・Statement of Faith
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July 2013

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言





資格はどこから アルファ・オメガ 1857年:
最初の金融大恐慌@NY
あなたの娘が病気です
飢饉 故障に続く故障 見えない風 向こう岸にわたる
賑やかな地下鉄
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July 29, 2013
賑やかな地下鉄

「すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 」。マルコによる福音書 10章26-27節

 NYの地下鉄はとても賑やかです。ラッシュの合間に、地下鉄の車両の中では必ずといっていいほど、歌を歌ったり、太鼓たたいたり、ギターやアコーディオン演奏、それもみなが芸と言えるレベルの高いものではないのにかまわず、様々な人々がパフォーマンスをして小銭を求め、一駅区間ずつ車両を回っていきます。さらにお菓子や偽造DVDなどを売りに来る人や、物乞いの人は必ずきます。ここの乗客達は、うるさくても誰も「うるさい、黙れ」といいませんし我構わずです。イヤホンの音漏れも甚だしく、誰も注意しない(撃ち殺されるか刺されかのリスクを負ってまでしないのでしょう)仕方なく自分のイヤホンで音に対しては音で消すしかないのです。
 今日の仕事の帰りも、いつものごとく、また一人の男性が大きな声で話し始めたので、「またか。。」と最初は気にも留めませんでしたが、よく聞いてみると聖書の話をしているのです。そう、NYの地下鉄では車両の中で、伝道説教をする方もいるのです。この青年は20分近く、非常に良いメッセージを語っていました。(20分というのは日曜のアメリカ人の礼拝での牧師がする説教の平均時間とほぼ同じ。)無関心の人がほとんどでしたが、数人の若い男性は聞いているようでした。彼はイエス・キリストの愛を語り続け、人生の苦しみ、空しさから自由にしてくれる方だと、また現生の命だけではなく、天での永遠に続く命を与えてくれる方、そのために十字架に掛かって死んで、3日後になんと超自然的に神がよみがえらせたのだと熱く車両のみなに語り続けました。
 おそらくこの車両の中で唯一にこにこしながら、聞いていたのが私だったのでしょう、熱い伝道メッセージが終わると、彼は私の方に近寄ってきました。「私もクリスチャンなんですよ、あなたはとても勇敢ですね、地下鉄のなかで福音を語るなんて!私なんて自分の言語であっても出来ないわ」と彼にいうと、彼は「いや、できるよ、神には何でも可能なんだよ。僕は皆に伝えたくて仕方がないんだ!そして神から行って、皆にキリストを告げ知らせるように言われてるからね!」と目をきらきらさせて話していました。私たちはその後、地下鉄を降りるまでキリストのこと、伝道のことで話が盛り上がりました。彼はブロンクスにある教会で仕えていて、まだ信仰をもって一年ちょっと(その短さでここまで簡潔な的をえた説教ができるのはすごい!)、奥さんも子供も皆クリスチャン。私が初めて会う日本人クリスチャンだそうです。お互い神様の祝福を祈りつつ別れました。
 私はこの熱心な男性と会うことで、とても信仰が励まされました。NYはチャレンジな場所でもありますが、こういう励まされる出会いもある。”そうだわ、神様には出来ないことはないんだ”と。私も人を恐れず、機会があるごとに勇気をもって福音をわかちあっていこうと。誰もが地下鉄の中で演説するようには神様から呼ばれていないし、NYならでは許されることで、日本の地下鉄ではありえませんが、人の体の各器官各々役割があるのと同様に奉仕の働きにもそれぞれ役割が与えられている、と聖書にも書かれております。自分に与えられたことを、だめだとあきらめずに、祈りつつ神には可能だと信じ、一歩ずつ踏み出していこうと思わされました。
July 27, 2013 向こう岸にわたる

「だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。 昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神にかけて信じている。 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。 使徒の働き 27章22-26節

 私は船が苦手です。船酔いをするので、海や湖がたとえ静かであってもあの揺れが苦手であり、ましてや船に乗っていて海が荒れる、難破しそうになるという恐怖は考えただけでも足がすくみます。
 今日読んだ個所は、使徒パウロがエルサレムで彼を迫害するユダヤ人たちに訴えられ、殺されそうになった時、当時ユダヤを治めていたローマ帝国の役人たちによって保護され、裁判を受け、そして現代の最高裁判所に相当するローマ皇帝の前の裁判に上訴した為に、船でローマまで送られた時の話です。地中海も他の海と同様、季節により海が荒れるため、航海には非常な危険が伴います。そしてパウロとその他の囚人たちが乗船していた船が嵐で難破しそうになり、最後には積荷を全て捨て絶望的に船が流されるままになっていた時。パウロが皆に「元気をだしなさい、命は助かります」と励ましたところでした。これはパウロが嵐の中で、天使を通してそう言われたからであって、またパウロはイエス様に事前に「あなたはわたしのことをローマでもあかしをしなければならない」*1と言われていたので、必ずローマに生きてたどり着くことは信仰で信じていたのでしょう。”ローマに行けると神が計画しているなら、その道のりもスムーズにして下さいよ!”、と私なら神様に要請しそうです。
 イエス様は弟子たちに「向こう岸にわたろう」と言われてガリラヤ湖を船で渡ろうとしました。しかし途中で、嵐がおこり船が沈みそうになった時、プロの漁師である弟子たちはパニック。そんな時イエス様は艫のほうで寝ていて、弟子たちはイエス様に半分責めモードで「私たちは死にそうです(どうして寝てるんですか!)」と助けを求めました。するとイエス様は起き上がり、風と荒波をしかるとすぐに収まったのです。*2
 私たちも人生の中で、神様が私たちに祝福と平安、恵みと愛と希望を約束してくれているのに、なぜその途中で嵐(予想外の困難、災害)がおこり、”なぜこんなことが起こることをあなたは許されるんですか?”と神様に文句をいいたくなります。イエス様が「向こう岸に行こう」と私たちに言われる時、それは単に平和で何も問題がなく向こう岸へ行けるとは意味していないのです。しかし、イエス様がその向こう岸に何かを計画している、用意しておられるのは確かで、途中で嵐がおこっても、生きて向こう岸に行けるという希望を信仰で持たなければと、励まされました。このところ、毎週のように想定外というか、色々なことがおこり、それをすぐに神様に委ねればいいのに、心の中でぐるぐる自分の思い、予測、シナリオを回して疲れてしまいがちでした。とにかくイエス様が用意しているものに目を留めて、一歩一歩信頼して、進んでいこうと思わされました。

*1 使徒23章11節 *2ルカによる福音書8章22-25節
July 22, 2013 見えない風

「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。
わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、
主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、
その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。」 詩編27:4-5

 NYでは猛暑が続きましたが、今日は突然気温が下がって大分涼しくなり楽でした。しかしまだまだ、これから残暑はぶり返すことが予想されますが、NYは緯度がかなり北ですので、夏はそれほど長くはないはずです。後もう少しの間、私の部屋にはクーラーがなく、扇風機だけなので、なんとか夏を乗り越えられればと願います。
 昨日、教会で子供たちに”聖霊とは何か”を説明しました。イエスさまが言われたことからそのまま説明しました*。扇風機の前にハンカチをおいて見せて、「風は吹いているのが見えないけど、物がその風で動くことによって風が吹いているのがわかるでしょ。聖霊も風のようで、音は聞こえるけど、目に見えない。聖霊も目に見えないけど、イエス様を信じると心にいつもいて、目に見える聖霊を持つ人の様子で聖霊の働きがわかるんだよ。」と。聖霊は神様の霊、神様自体でもあること、 そしてイエス様は「人は聖霊によって新しく生まれることで、神の国へ入れる」と言われ、つまり霊の新生はイエス様を信じた時に起こることを説明しました。ちょっと理解するには難しいけど、視聴覚的部分だけでも頭にのこればと願います。
 今日読んだ個所は、ダビデが書いた詩です(彼は作詞家、琴の奏者)。天は2ぶつを与えずということわざがありますが、ダビデは多才で、音楽のほかに勇士(すごい腕力・武力の持ち主)でありますが、弱点は女性には弱い。。ダビデは、古代イスラエル王国の王となるまで、ものすごい苦労をしました。彼の前任者のサウル王に命を狙われ、少数の彼をサポートする人々と荒野を逃げ回り、あるときは敵の領域にも滞在することもありと、何度も危機に遭遇した人です。この個所は、サウルに追われる不安定な状況の中で書かれ、彼の一つの希望は、神様とともに住むこと。神様を求め極めることだと。
 子供に説明したように、神様は聖霊として私の心の内側に目には見えないけど住んでいてくれていることを、もっと生活の中で、実感したいと思い、それにはダビデのこの詩にあるように、イエス様を尋ね極めようと思わされました。

*「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」ヨハネによる福音書3:8
July 18, 2013
故障に続く故障

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」詩編23編1-4節

 ここ数日、私の住んでいるアパートのトイレがつまってしまい、使えない状態です。ルームメイトが何度も修理を呼びましたが、彼らは来て、ちょこっといじるだけで根本的な修理をしないため、彼らが立ち去るとすぐに詰まります。アメリカに住んだことがある方は、ご経験済みだと存じますが、ここの修理の仕方は全てこの要領で、我々は忍耐を強いられます。数か月前は、インターネットの修理で
何度も来ても原因がわからず、直せないことがありました。そして今回はトイレだけでなく、ケーブルテレビも壊れ、さらに冷蔵庫も壊れ、修理しても直らないので、中古のものがとりあえず入れ替えられました。おかげで食べ物が腐ってしまい、テレビも見れない、「昔の人は、どうしてたんだろうねえ〜」と二人で笑いとばしております。便利な世の中で、当たり前のように利用しているものが使えなくなって初めて、いかに恵まれた豊かな生活をしているんだと、日頃感謝をしていないなあと、反省させられます。
 今日読んだ個所は、古代イスラエル(ユダヤ)の王、ダビデが神様との関係を、羊と羊飼いとに例えて表している有名な詩です。私はここを読むたびに、小さいころから漠然と神様がいるから自分は乏しいことがない、安心だと思ったものです。大人になってみると、たとえ物質的に、目に見える形で豊かな状態でない、目の前の問題で困難な状況においても、この詩編を心から感謝して神様に歌える心の状態が理想だなあと。その心の状態を保つには、自分がイエス様と共にいることを覚えていることでしょう。
 ダビデが「あなたがわたしと共におられる」書いているように、イエス様は目に見えなくても、聖霊として共に私といて下さるのに、私はいつも忘れてしまって、あたふた、イライラしてしまう、弱い者です。しかしいつでも、主がともにおられるんだからと思い出せて、平安が与えられる、人を恐れず、状況を悲観せず、神様にあって楽観できるよう、祈りたいと思います。
July 10, 2013 飢饉

「主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、
それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」 アモス書8章13節


 アフリカ大陸はよく飢饉が起こり人々が食糧不足で苦しんでいるというニュースを耳にし、支援金がつのられます。飽食平和ぼけの生活をしている我々はそんな経験をしたことがなく、その恐ろしさも知りません。かえって飽食でダイエットにお金を費やし、もっともっと、と生活に満足できない、現代は心の飢饉があるのかもしれません。
 今朝ラジオで聞いたメッセージ個所は、飢饉の話でも異なる種類の飢饉。アモスという預言者は紀元前790年頃の北イスラエル王国時代に活躍した預言者です。その当時、北イスラエル王国は軍事的に強く領土を拡大し、一方、国ぐるみで偶像崇拝をしまくり、自分たちは宗教儀式をしていて正しいとおごっていた状態でした。自己満足の宗教です。”主の言葉を聞くことのききん”とは、神のことばが語られていても、聞く側の姿勢に問題がある状態です。預言者アモスは、”神様があなたがたに語っているのに、聞いているかい?”と警告を発していますが、残念ながら彼らは無視し続け、最終的にはアッシリア帝国に国を滅ぼされてしまいます。
 これは現代のキリスト教でもありうるので耳が痛いし、私自身も気を付けなければならないと戒められます。教会に単にかよって儀式を行う、良い行いをしていることでは人は救われないのです。キリストを信じる信仰を持って、神様のことば(聖書)に耳を傾けているかどうかの姿勢が私たちに問われます。また、みことばに対する尊敬がない状態がキリスト教会、特に神学校という牧師教師を養成すべきところでおこっていると聞きました。プロテスタントは多くの宗派に別れていてそれぞれが神学校を持っていますが、ある宗派の神学校では、イエス・キリストが処女マリアから生まれたこと、キリストが復活したこと、聖書のことばは神のことばであること、これら重要な教義を信じない、もしくは部分的に信じる(ここは神話で、ここはこの時代だけの話等)という人の%が35〜95%という驚くべき統計がアメリカでは上がっているそうです。聖書を読んだことない、情報がない人が信じないのはわかりますが、教会へいっている人たちがそういう教えを牧師から語られ、そうなんだと納得してしまう。すると、聖書は信じなくてもいい部分があるという態度、結果、みことばを聞くききんを引き起こしてしまい、徐々にキリストとの関係(Relation)を単なる宗教(Religion)にしてしまうのです。この現象を批判するというより、神から言葉を預かって叫んでも人々が聞いていないのを目の当たりにしているアモスのように、悲しみを伴う心痛い話です。開き直って、人間中心の考えで聖書を解釈し”神学”を作り、聖書にかかれたことに従わなくてもいいように合理化する。この飢饉の状態を回復するには、我々が悔い改めて、神のことばに素直に従うことではないでしょうか。
 たとえわからないところ、不明なところがあっても、信仰で聖書の内容を受け止めて、理解は後から与えられる様神様に委ねるという低い姿勢は大切だと思います。それには、聖霊の助けが必要です。今全てわからなければ納得しないという態度は、自分の知能で全て知り得るんだという傲慢さもあるでしょう。私は今日のラジオの牧師のメッセージを聞いて愕然としましたが、聖書を神のことばとして尊重する態度、そして所詮人が書いたんだから、ではなく、神の霊感で書かれていることを一人でも多くの人が信じて、みことばを聞く飢饉状態から、実を結べる良い土壌状態に、自分も含めて神の力で変えられていきたいと願います。
July 9, 2013 あなたの娘が病気です

「主はまたヨブに答えて言われた、 「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。ヨブ記40章1-2節

 私はめったに頭痛にはなりませんが、時折疲れた時、頭を使いすぎてショートを起こした時になります。気候のせいもあるかもしれません。昨日は仕事帰りのバスが時間通りに来なくて30-40分待ち、疲れていらいらし、頭痛もがんがん。そのバス停には備付の椅子がなく、とうとう地べたに座りこんでしまいました。(といっても、端に少し縁石がありそこに座る、日本ではありえない光景)誰もわからないことをいいことに。「神様、こんな生活もういやです!」と日本語でつぶやく。私はバスを待つ忍耐がないのです。これをなんとか乗り超えようと、MP3プレーヤーや本を持ち歩きますが、それも耳に入りません。
 「すべて問題がおこるのには理由がある」と先日学んだ信仰書を思い出しました。その日、自分的に衝撃的なことがあり、愕然としていて(単に自分の思うとおりにいかないだけです、おおげさ)そして、月曜も次から次へと。「神様。いつも神様が助けてくれるのは経験上わかっているんですが、その試練を通して私を成長させたいということも知識ではわかっていても、問題は嫌です。」
 そんな不満ぶーたれをしていると、耳が痛い聖書の個所が与えられました。聖書は毎朝順番に読んでいるのですが、神の言葉なので一人一人にタイムリーに迫ってくるから不思議です。”問題が起こるのではなく、問題はお前だ”と。私の変えられなければならないところをそのままにしているから、次から次へと問題に感じるという面があるのです。日々神様に感謝もせず、文句がでてくる。喜びと感謝が自然にでてこないのは、私が神様のことを忘れていて、自分のことばかり考えているときに起こる症状です。どんな時でも感謝できることは、キリストが苦しんで死なれたのは自分が救われるためだったということ。その苦しみや犠牲を思ったら、バスが来ない、自分の思うとおりにことが進まないことなど、塵のようなものです。
 神様すいません。あなたの娘が文句病、傲慢病、自己中心病にかかっていますので、診に来てください、とお願いしました。そして処方される薬は、「悔い改め」でした。
この世界、世の中的には逆ですが、悔い改めた者勝ちなんですね。悔い改めは責められるためでなく、赦されるためにあり、結果病気が癒されるのですから。
July 6, 2013 1857年 最初の金融大恐慌@NY

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 」 ヨハネによる福音書15章7節

 私の今の職場はウオールストリートのすぐ近くです。世界経済の中心であり、株価市場の動きが全世界に影響する場所ですが、(昔の仕事でちょっとかじったことがあるのですが)マーケット用語で ”ブル”(雄牛)というと市場の強気を指します。Wall Streetに牛の像があって、つるつるです。皆が撫でるからでしょう。ところで古代イスラエル人は金の牛の像を作って神として拝んでた時期があり、インドでは牛は神性で食用にしないなど、牛さんというのは あやかりやすい対象なのでしょうか。。。
 この市場というのは資本主義制度のもとでは必ずUpとDownが定期的におこります。世界最初の恐慌, 1857年(Panic of 1857)というのをご存じですか?私はブラックマンデー、リーマンショック等、有名なのしか知りませんでしたが、この1857年の恐慌は市場の大暴落で、世界初の大不況を引き起こし、多くの人が失業し生活に打撃を与えたそうです。
 一方でこの大恐慌の影で興味深い動きがあったことを短い映像を見て知りました*。この恐慌が起こる直前、Lower Manhattanのビジネス街で、あるチラシが配られました。「9月23日 祈祷会開催 ぜひ来てください! ジェレマイア・ランドフィアー」このひとりのビジネスマンが、アメリカのために祈ろうという思いを神からおこされて、チラシをまいたのですが、当日集まったのはたった6人でした。今も昔も、皆さんビジネスに忙しくて、そんなちらしには目もくれなかったのでしょう。しかし、彼らはアメリカのために祈ったのです。当時はまだ南北戦争前で、奴隷制度が存在し、戦争のうわさも既にありました。景気後退もすでにきざしは見えていた頃です。そしてその祈祷会の数日後、株価暴落。すると、6人から始まった祈り会はどんどこ人が加えられ、その年の12月までには2万人(当時はまだ人口爆発の前ですから、かなりの%です)に膨れ上がり、皆神に祈りをささげたそうです。そして困った時の神だのみだけでなく、東海岸からアメリカ全体にまでその霊的刷新(リバイバル)は広がり、全国でイエス・キリストを信じる人が増え、ある教会では毎週2万人が洗礼を受けたというもの爆発的に信じる人が増えたというのです。
 我々の生活に打撃を与える恐慌はおこってほしくないです。しかし神は時として、霊的なWake Upコールとしてそれを用いられ、今まで自分の欲望で走り続けてきた個人個人に、神に目を向けるように促されるのでしょう。また、大きなリバイバルの発端は、たった一人の人の祈り、そして少人数の祈り会から始まったりするのは、歴史的に沢山例があります。祈りの力はあなどれないです。なぜなら、祈る人に力があるのではなく、祈りを聞いている神に力があるからです。
 私は日々眠くて疲れて、祈るのを怠りがちです。特に自分以外の人のために、祈るというのはものすごく労力と集中力を要しますのでいつもできません。私ももっと神の力に期待して、祈らねばと思わされました。祈る時の必要なのは、祈る者がキリストに繋がり、キリストのことばが心の内にある状態だと、そうすればその祈りはかなえられるという約束が今日のみことばより励まされます。

* 映像リンク(英語)→ http://vimeo.com/69566557
July 5, 2013 アルファ・オメガ

「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」 黙示録1章8節

昨晩、夕方の日本語での聖書の学びが始まる頃、突然黒人のお母さんと子供二人が教会に訪ねてきました。彼女は教会の入り口にある”アルファ・コース”という看板が目に入り、それについて聞きたいと来たようです。誰も彼女に対応する人がいなかったので、私からここの日曜礼拝は英語と日本語のバイリンガルサービスですが、この”アルファーコース”というのは日本語による開催ですと説明。(ちなみにアルファーコースというのはキリスト教入門講座で、各国語に訳されて多くの国の教会で開催)私は丁度バイブルスタディを日本語で始めなければならないので、彼女と長い時間を費やすことが出来ず、日曜に来てくださいと説明しました。
 彼女は「神はアルファで、私達”女性”はオメガで、それで一体となるのよね!」と言うので、「いいえ、聖書にはイエス・キリスト・神が「わたしはアルファであり、オメガである。」と言われるのが黙示録に書いてありますが、私達女性がオメガであるとは書いてないですよ」とやんわりと答えました。すると「いえ、女性がオメガなのよ!ところで、ここは日本人だけの教会なの?」と彼女は聞きました。彼女は何人なのか、中南米あたりの国からきた方なのかよくわかりません。ここはアメリカなので教会はマンハッタン内に五万とあるのに、なぜ全く日本語にゆかりのない彼女が来たのか。入り口のアルファという文字が引き寄せたのでしょう。先日も日曜礼拝に、ハイチ出身の男性が訪れて、お昼の時に話を聞くと彼の職場の近くでたまたま日本人と話す機会があり(その日本人はこの教会に来ている方ではないようですが)ここを紹介されたから来たといっていました。
 アルファとオメガというのは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字、英語でいうAとZです。よく子供がラジオの質問コーナーで「神様はいつからいるの?」と聞きますが、神様は最初から存在していて最後まで、つまり、聖書では、人が認識しうる時限を超えた最初も最後も含めて、神はいつもでも生きておられる万物の支配者、と解釈され、それを私たちは信じています。
 彼女とその子供たちが、いつかアルファでありオメガである神、イエス・キリストを知ることが出来るように願います。たとえ日本人教会でも、他の民族の方も何かを求めてくるのでしょうから、英語が分かる方であれば通訳のある日曜の礼拝に来ていただき、キリストの福音が伝わることを祈りたいと思います。
July 3, 2013
資格はどこから

「さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。」使徒の働き11章21-20節

 
クラディス・アイルワードさんというイギリス人は、19世紀に生きた女性ですが、彼女は中国の宣教師になりたいという志が与えられましたが、資格がないということで(つまり神学校行っていない)どこも送ってくれる団体がありませんでした。家政婦だった彼女は貯金をためて、28歳の時に単身で中国の農村に行き、隊商宿を営みながらキリストの福音を宣べ伝えたという話を読みました。独りで、どこのサポートもなく、神だけが頼りで、あの時代に中国で宣教していたとは、どんなに苦労をしたことだろうと想像しました。
 今日読んだ個所は、紀元一世紀のできたばかりのクリスチャン達の集会、いわゆる教会の人たちは、エルサレムで同胞のユダヤ人たちから迫害を受け、地方へ散らされて行ったというストーリでした。彼らは住み慣れた家を失い、他都市へ移り住みましたが、そこで単に悲嘆にくれるのではなく、逆にその土地の人たちにキリストの福音を伝えたのです。彼らはもちろん、神学校も出ていない普通の人々です(彼らはエルサレムにいた時、使徒たちから聖書を宮や家庭集会で教えられていましたが)。神学校の学位より、決定的に必要な信仰と神の御手があったので、人々は彼らの単純なメッセージを聞いて、イエス・キリストを信じたのです。現代でも、同じことが、中国の農村地域で、家の教会というクリスチャン達が、国家の公安からの迫害を受けながら、散らされては地方に逃げて行って、その場所でまた福音を伝えいていて、実は世界で一番クリスチャンが爆発的に増えているのは中国だというDVDを見たことがあります。使徒の働きは、2千年前のこの時代だけでなく、それ以降ずっと2千年間世界で続いているのです。
 キリストを伝えるのに、神学校で得られる資格が必要だと聖書のどこにも書いてありません。行くべきだという考え方に反対はしませんし、そのように導かれるのであればすばらしい機会だと思います。一方、キリストを信じた人全ては、聖書のことばを生涯学ぶ必要はあり、教会で牧師・教師から聖書は学べます。その当時は神学校は存在しなかったし、印刷された聖書もない時代です。現代のようにITが発達し、聖書も自由に持てる時代であれば、もっと効果的に信者は増えるはずですが、そうではないところが、他の宣伝や宗教と異なるところでしょう。人の力ではなく、資格は神から来るとパウロ自身も言っています。
 皆がキリストの証人として直接的間接的に、キリストを伝える使命があります。本当に信じている人はその使命を負担に思わず、キリストが十字架で死んでくれるほど自分を愛してくださったというその大きな犠牲を感謝して、この救いの知らせを知らない人に伝えたいと、自然に願うのです。それにはその人の能力とか性格とか関係なく、伝えようとすると必ず聖霊が助けて下さるということを私自身も他の人の話からも体験しています。これは神の力で可能であり、その時、聞かされた本人が応答しなかったしても、種が蒔かれていて、いつか信仰が与えられる時がくることを祈りつつ、期待したいと思います。
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